第4話

金城は夢の中にいた。血の沼で浮かんだり沈んだりしていた。両腕や頭のない人間の体が沼の辺り一面浮いたり沈んだりしていた。岸では鬼が人体を切り刻んでいる。丘には針の山がそそり立っている。苦悶に喘ぎながらも声を出せない。ただ血の池を浮かんだり沈んだりしている。時間の感覚はない。苦悶の中に金城はいた。その時である、微かに人の声が聞こえた。

「兄貴……真っ当に……生きてください」

その声と共に、周りに少しづつ光が差し込んできて、金城は夢から覚めた。大きな呻き声と共に目が覚めた。気がつくとそこは病院の個室で、看護師が意識が戻ったのを確認して医者を呼んだ。金城は体全身から汗をかき、目を見開き、息が上がっていた。しばらくすると医者と看護師二人が金城を囲み、看護師が金城に問いかけた。

「ここはどこか分かりますか?」

金城は息も絶え絶えに答えた。

「病院だろ」

医者はとりあえず意識はハッキリしていると判断し、聴診器を使い、血圧を測った。とりあえずは異常なしと判断し、レントゲン、CT、心電図にまわすことにした。金城は点滴につながれていたが、そのままうな垂れるようにして目をつむり、その状態に任せた。金城は病院のベットの上で全て終わったのだなと思った。自分はまな板の鯉だと思った。これからどうなるなんなんてことは全くわからなかった。ただ自分には命だけはあるのだなと思った。その時初めて、命があることがありがたいと分かった。自分みたいな人間が生きている価値なんてあるのだろうかと思った。でも現実に辛うじて生きている。何か自分はまだ必要のある人間なのかもしれないと思った。しかしそれが漠然としていて、確証が持てなかった。

自分が宙ぶらりんな存在だと感じていた。地に足がつかず、雲をつかむようで、生きている感じがしなかった。そのまま金城はずっと辛い面持ちで目をつぶっていた。

病院では、レントゲン、CT、心電図の検査が終わり、いずれも正常であったが、金城の精神的苦痛は続いた。自分の存在に対する苦痛だ。山田と中本は死んだ。組長も死んだ。ヤクザの道もこれで終わりだと思った。一体自分はどうやって生きていけばいいか分からなかった。地面に叩きつけられたような苦痛があった。今自分の存在がなんなのか分からなかった。まるで光が見えなかった。ただ精神的な苦痛に耐えているだけだった。そこには呻きにしかならない叫びしかなかった。

程なく金城は、麻薬取締法違反と殺人の罪状で、実刑三年が下った。こうして東京拘置所での刑務所生活が始まった。

拘置所での生活はそれほど不便はしなかったが、精神的苦痛は続いた。一体自分が何者で、どうして生きているのかが分からなかった。一体自分のこの怪力は何のためにあるのか?一体自分のこの手は何のためにあるのか?この目は、この耳は、この足は……全く役に立たなかった。ただ空気を吸って心臓を動かして生きているだけにしか思えなかった。

金城は答えが欲しかった。はっきりとした生きている証拠を。

金城は向精神薬を投薬されたが、心を閉ざしていた。食事も風呂も断り、だんだん痩せてくるようになった。精神的にも極限状態まで追い込まれるようになり、個室で叫び声を上げるようになった。目つきも虚ろになり、悪臭を放つようになった。閉ざされた心の中で、もう自分はおしまいだと思った。

個室で横たわっている時に面会があった。なんでもキリスト教の牧師という。面会室に金城は通され、牧師とやらに話すことになった。牧師は金城に話しかけた。

「日本キリスト教団牧師の西村と申します。金城さん、人生はいつでもやり直せますよ。良ければ本を渡すので読んでみてください。元ヤクザで今は牧師をしている進藤龍也先生の本です。きっと助けてくれますよ」

金城は藁をもすがる気持ちで西村に質問した。

「牧師さん。キリスト教ってなんですか?この本を読んで俺はどうなるんですか?ヤクザには戻れないんですか?俺はどうなるんですか?」

西村はニコッと笑い、金城の質問に答えた。

「まずはその本を読んでみてください。きっと答えが見えてくると思いますよ」

金城は「人はかならず、やり直せる」という本を手に取り、また来ますからねと言ってニコニコ笑顔の絶えない西村の後ろ姿を見送った。

拘置所の刑務官に促されて、個室に戻ると早速その本を手にとってみた。とても元ヤクザには見えないカッコいいい牧師が写真付きで写っている。金城にはなんだか嘘っぱちのようにも見えたが、藁をもすがる思いでその本を読み始めた。本はそれほど分厚くなく、これなら一日で読めると思った。進藤牧師がヤクザの世界を追い出され、キリスト教の教会の門を叩き、回心してクリスチャンになり、牧師になるまでのことが書いてあったが、一ヶ所どうしても心に残る部分があった。それは聖書に書いてある部分でこう書いてあった。

旧約聖書エゼキエル書の33章11節「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」

金城は半信半疑だった。山田も中本も死んだのに、神様なんて本当に居るんだろうか?神様がいるのになんでこんなに世の中は狂っているんだろうか?だいたい自分だって神様がいるんならこんな酷い目に遭わない筈だ。金城の疑いは晴れなかった。なんで神様がいるのにこんなに悲惨なんだ。ずっと自問自答が続いた。それでもなんとなく心の中に小さな光が灯ったように感じた。次に西村牧師が来た時に聞いてみよう。なんで神様がいるのにこんなにも悲惨なことになるのかと。

とりあえず腹が空いているので食事も取るようにして、風呂も入るようにしよう。拘置所での食事は意外と美味い。飢えた金城の体には食事が進んでしょうがなかった。しかし食事を食べながらも、なんで神様がいるのにこんなに悲惨なんだ?本当に神様はいるのかという疑問は、頭から離れなかった。

一週間後西村牧師は金城に面会に来た。西村牧師が話す前に、金城がすぐに質問した。

「神様がいるんだったら、なんでこんなに悲惨なことが起きるんですか?俺の大事な仲間も死にました。一体神様なんてどこにいるんですか?」

すると西村牧師はすぐに答えた。

「あなたの心の中にいます」

金城は意表を突かれたように、目を丸くした。しばらく間のけ反ったまま、ニコッと笑った西村牧師の表情を見ていた。金城はまだ疑いの目で西村牧師に質問した。

「私は麻薬の密売もしましたし、人も殺しました。こんな俺の心の中に神様がいるんですか?」

西村牧師は笑顔のまま答えた。

「神様は、あなたのように悪いことをした人のためにいるのですよ」

金城は余計に分からなくなった。西村牧師に向かい、目を見開き大声で訴えた。

「じゃあ、なんなんですか?人殺しを助けてくれるんですか?私の頭では分かりませんよ」

西村牧師はバックからおもむろに「聖書」を取り出し、紙に「主の祈り」という祈り方をペンで書き、金城に渡した。

「答えは全てここに載っています。少し長いですが、一日四章読めば、一年で通読できます。気になったところや、グッときたところはアンダーラインを引いておくと良いでしょう。私は毎週ここにきますから、疑問に思ったことはなんでも聞いてください。私はこれから他の仕事がありますので、ここで失礼します」

金城は、こんな人間が聖書なんて手にして良いのだろうかと思い、しばらくの間、狐につままれた感じがしていた。




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