V国の憂鬱
妙正寺 静鷺
第1話 始動
V国は、東南アジアに位置し、熱帯特有の緑が多い南北に長い国。
首都のH市はV国の北部に位置し、緯度は日本の小笠原諸島に近い亜熱帯気候の都市。
政治的には共産圏の国だが、近年は国民の技術力、勤勉さが評価され、日本からも多くの企業がそれらに加え現地の安い労働力に目を付け、支社や工場を作るなど、進出が目覚ましかった。
日本以外でも、特にV国の隣国に当たるC国の侵略ともいえる経済戦略で莫大な資金がC国から流れ込んでいた。
それにより都市部では活気づいていたが、逆に農村地帯は貧しいといったV国内で貧富の差を生み、貧困に喘ぐものたちに、暴力、麻薬、人身売買などといった暗い影を落としていた。
“ピピピ、ピピピ”
目覚まし時計の電子音が12畳ほどの部屋の中で鳴り響いていた。
「う~ん。」
男はセミダブルベッドのような広いベッドの布団の中から手を伸ばし、鳴り続けている目覚まし時計を指で探り、手元に引き寄せると、アラームを止め時間を確認した。
男は西園寺圭太、24歳独身。
身長170cmの細身の身体、容姿も普通のレベルで、特に目立った特徴もないどこにでもいるような青年だった。
圭太は西園寺財閥の子息で、兄が2人、姉が2人の5人兄弟の末子。
但し、西園寺グループの創立者で、父の寅蔵とその愛人との間に生まれた、他の兄妹たちからすると、忌み嫌われる存在だった。
西園寺グループは、もともとは貿易を生業とした商社から始まり、その神がかり的な貿易手法から急成長し、今では日本国内の大手銀行や証券会社、IT、製造業と多彩な企業を傘下に付けるほどの国内屈指のグループ企業に成長していた。
また、海外進出としてC国、K国、A国等幅広く手を広げ、貿易や現地の安い人件費に目を付け支社展開も積極的に行っていた。
その5人兄弟の末っ子の圭太だが、寅蔵は愛人に似ている圭太を、本妻の逆鱗にふれながらも可愛がり、行く行くは自分の後釜に思うほどだった。
ただ、そんな圭太を西園寺グループで寅蔵の次の位置、実質ナンバー2のポジションにいる長男の寅一は無下に扱うことが出来ず、だからといって自分達の傍に置いておきたくなかったので、V国に支店を出した時に社会人1年目というのに取締役という役職と、支店長という地位を与え、遠いV国へと圭太を追いやった。
寅蔵は最初、猛反対をしたが、寅一が高い地位と立場を与え、また、数年の武者修行で、頃を見計らって日本に戻し、それなりの地位を与えるという説得に折れた形になっていた。
圭太のいる支店は、支店といえども現地スタッフを入れると1000人規模の大きな組織で、日本から依頼された製品の組み立てや、V国の特産物の輸出、またIT産業まで幅広く仕事の範囲を広げ躍進目覚ましかった。
そんな大きな支店の支店長というポジションを与えられた圭太だが、寅一は当然、社会経験のない圭太の能力を全く評価せずに、副支店長の近藤にすべてを取り仕切らせていたので、圭太はすべて根回しの出来ている決裁書類に判子を押すことと友好企業への表敬訪問に顔だけ出すのが主な仕事になっていた。
圭太のV国での自宅は、支店から車で20分程の距離にあり、一戸建てで部屋数が10部屋近くある、また庭にはプールもある上級規模の邸宅に年配の女性のメイドと二人きりで暮らしていた。
「うう、こんな時間か。
起きなくっちゃ…。」
圭太は昨夜インターネットで調べ物をしていて夜更かしをしてしまったせいか、眠くて仕方なかった。
そして布団と葛藤していると、ドアをノックする音が聞えた。
「圭太様。
起きる時間です。
開けてよろしいですか?」
その声に圭太は「ああ」とだけ答えると、ドアが開き年配の女性のメイドが入って来た。
メイドは、黒い生地にピンク色の大きな椿の花の刺しゅうを施したV国の正装、民俗衣装であるアオザイを着て、年の頃は50歳前後、圭太と同じくらいの体格の女性にしては大柄で、白髪隠しに茶色に染めた髪を後ろで束ね、金縁の眼鏡をかけ、頭のよさそうな、そして気の強そうな顔をしていた。
メイドの名前は“ギエ”といい男勝りの名前の現地人、しかし現地人と言っても、長く日本に住んでいたせいか、流暢な日本語を操り、日本文化に精通していて、圭太にとって日常生活から食生活が苦になることはなかった。
ただし、ギエは寅蔵の息がかかっていて、圭太の見張り役及び教育係を兼ねていたため、圭太は何かにつけ、ギエからよく説教される始末だった。
「圭太様。
朝食の支度が出来ています。」
ギエは、早くベッドから出て来いと言わんばかりの語気だった。
「わかったよ。
で、今日の朝食は何?」
「はい。
今日は日本食の日です。
ご飯にお味噌汁。
お漬物に梅干し。
大根の煮ものと卵焼き、それとアジの開きです。」
「うん、いいね。
お腹が空いてきた。
じゃあ、食堂の方に行くよ。」
V国でも米や野菜に肉魚は普通に売っているが、梅干しや漬物、それにアジの開きの様な加工品は売っていなかった。
醤油は日本の醤油とは原材料が異なるが、現地でも人気がある調味料なので手に入るが、その他、お味噌汁の味噌、梅干し、漬物は、全てギエの手作りで、アジの開きも昨日ギエが魚屋で買ってきて捌き、塩を振って天日干しにしたものだった。
ギエは圭太がV国に馴染むようにと食事はV国の現地料理に偏らず日本食とV国の現地料理を交互に食卓に出していた。
「うん、やっぱり、アジの開きは上手いよな。
ご飯にベストマッチ。
さすが、ギエだね。」
圭太は、食堂でアジの開きにかぶりつきながらギエの料理の味を誉めまくった。
「ありがとうございます。」
ギエは圭太の褒め言葉を聞いても、さも当たり前の顔をしていた。
「さ、圭太様。
そろそろ、お迎えがいらっしゃる時間ですよ。
着替えてお支度をしないと。」
そう言いながらもギエは圭太のご飯のお代りをよそっていた。
「え?
もうそんな時間か。」
圭太はご飯の入ったお茶碗を受取ると、その上に大きな梅干しを乗せ、梅干しだけでお代わり分のご飯を平らげた。
「この梅干し、酸っぱいんだけど、たまらなく上手いんだよな。
日本でも、こんなうまい梅干し、食べたことないんだよな。
ご馳走さまでした。」
圭太はそう言いながら、満足そうな顔をして見せた。
「ありがとうございます。」
そういうギエの顔に先程と違った微かな笑みがこぼれた。
圭太が着替えと出社の支度をしていると、来客を知らせる玄関のチャイムが鳴った。
「はい。」
ギエが、インターホンのカメラで相手を確認すると、いそいそと玄関に行き、ドアのロックを開ける。
「おはよう、ギエさん。
若は、起きてる?」
入って来たのは、黒っぽいダークグレーにオレンジ色っぽいネクタイをした圭太の秘書。
秘書と言っても男性で、名前は
名前からすると年配を想像するが、年齢不詳で見た目は30歳代前後、容姿は圭太よりも華やかで、なによりもどんな仕事でも涼しい顔をしてこなしていく凄腕の秘書だった。
性格は、明快だが少しねちっこいところもあり圭太は良く揶揄われる他は、明るいスケベと自称するほど美人の女性が大好きな男だった。
但し、それだけではなく機械や薬品等幅広い知識を持ち、また空手や柔道などあらゆる武道にも精通している辣腕の持ち主だった。
また弥七は圭太のことを“
「弥七様、おはようございます。
圭太様は今支度をされていますので、直にいらっしゃると思います。」
ギエは、そう言うと弥七に恭しくお辞儀をする。
そして、弥七の後の開いている玄関ドアの先に停まっている車と、その横で羽はたきを持って車についた埃を払っている運転手と思われる人物を見た。
その人物は、圭太専属の運転手。
運転手と言っても青いアオザイを着た女性で、名前は
弥七と同じく年配を想像させる名前だが、年齢不詳の見た目30歳前後で、圭太のお姉さん気取りで圭太のことを弟のように接している。
名前は日本人だが、V国の両親から生まれた生粋のV国人だが、訳があって物心つく前の小さい頃に日本人の夫婦に引き取られ日本名と日本国籍を持ち、ギエと同じようにネイティブな日本語を話せた。
黒い長髪に黒い瞳、どこかエキゾティックな香りがする美人で、均整の取れたグラマラスの体形をしていた。
性格は明るく活発で、車以外に飛行機、船舶、ヘリコプターとあらゆる乗り物のライセンスを持っており、弥七と同様に武術にも長けているまさに男勝りの女性だった。
銀子はギエの視線に気が付いたのか、離れていたが、ギエの方に笑顔を向け、手を振っていた。
ギエも、そんな銀子の方に深々とお辞儀をした。
弥七も銀子もある人物の紹介で、寅蔵が圭太の右腕として送り込んだ人物だった。
「弥七さん。
また、人のことを“ばか”って言っただろう。」
二階から階段で降りてきながら圭太は不満そうに言った。
「何言っているんですか。
“ばか”なんて滅相もない。
若って言っているんですよ、若!」
「ほんとうかな…。
まあいいや。
弥七さん、おはよう。」
「おはようございます、“ばか”。」
弥七はにこやかな顔で圭太にお辞儀をした。
「また…。」
圭太は眉間に皺を寄せた。
「それじゃあ、行ってくる。」
圭太がそう言うと、ギエは圭太の鞄を両手で体の前で握り、姿勢を正した。
「圭太様、行ってらっしゃいませ。
お帰りは、いつもの時間でしょうか?」
「そのつもりです。
遅くなるようだったら、いつもの通り連絡を入れますから。」
「はい。」
そう言って圭太はギエから鞄を受取ると玄関の方に歩いて行った。
後ろでは、ギエが圭太に向かって深々と頭を下げていた。
圭太が玄関を出ると、弥七がギエに手を振って玄関のドアを閉め、足早に圭太に追い付く。
「弥七さん、今日の予定は?」
「はい、いつもの通り、決裁書類の判子押しが待っています。」
「またか…。
今日は、他の企業への表敬訪問の予定は入っていないの?」
「また、そう言って肩の凝る社内ではなく外に遊びに行こうという腹積もりですか?
残念ですが、そのような予定はありません。」
弥七は、笑いながら答える。
「ちぇ、残念。」
圭太はそう言って残念そうな顔をしながら車に近づくと、運転席から銀子が降りてきて、後ろのドアを開けて待っていた。
「圭太、おはよう。」
「おはようございます、銀子さん。
今日もよろしくお願いします。」
そう言って圭太は銀子が開けたドアから車内に乗り込んだ。
「ドアに挟まれないように気を付けてね。」
銀子はそう言うと、圭太の乗ったドアを静かに、そして優しく閉めた。
弥七は、反対側にまわり、自分でドアを開け圭太の横に滑り込むように乗り込む。
最後に銀子が運転席に乗り込んで、リモコンの様なもののスイッチを押すと、少しして、外壁の門が自動的に開き始めた。
「では、よろしいですか?」
銀子が顔を圭太の方に向け確認し、圭太が頷くと車をスタートさせた。
車は、まるで滑り出すように何の抵抗感も圭太に与えず動き出し、門をくぐると、大きな通りを進んで行った。
外は天気も良く青空も見え、ヤシの木の街路樹といったまるで南国を思わせる雰囲気が漂っていた。
しかし、通勤時間帯になったせいか、すぐに道のあちらこちらから小型のバイクに乗った会社員などで道はごった返した。
そのバイクの渋滞を縫うように圭太の乗った車は片側3車線の十字路を曲がると正面の11階建ての大きなビルの前にたどり着いた。
そのビルは西園寺グループのビルで、全フロア圭太が支店長を務める西園寺商事V国支店のビルだった。
銀子は正面玄関に車を付け、圭太と弥七を降ろすと車を地下の駐車場に移動させに行った。
圭太と弥七が銀子の運転する車を見送り玄関のガラスの自動ドアからビルの中に入ると、圭太を見つけた受付嬢の二人が起立をしてお辞儀をした。
二人とも現地採用のV国人できれいな女性だった。
V国は、今までF国などの植民地時代が長く、いろいろな国の血が混ざっているせいか、美男美女、特に女性はきれいでスタイルのいい女性が多かった。
「シュアンちゃん、フォンちゃん、おはよう。
二人とも今朝は一段と綺麗だね。」
弥七がそう言ってからかうと、二人はキャッキャと嬉しそうにした。
「ほら、若もこのくらいやらないと、若い女の子に人気は取れませんよ。」
弥七がからかうように圭太に話しかけた。
「べつに、いいよ。」
圭太は苦笑いを浮かべ、真っ直ぐエレベーターに乗り込む。
圭太のオフィスは9階にあった。
ちなみに10階と最上階の11階は社員のための食堂や喫茶になっていた。
9階でエレベーターを降り、支店長室と書かれた部屋のドアを開け、圭太は一歩中に踏み込んだ。
支店長室は東南の向きの一角にあり、全面ガラス張りで明るく開放感のある部屋だった。
「ボス、おはようございます。」
中に入るとすぐに若く可愛らしい女性の声が圭太を迎えた。
声の主はクエンという現地採用の女性で、胸の辺りに蓮の花の刺しゅうが施された白いアオザイを着ていて、胸の辺りまで伸びた黒髪、色白で前髪を横に分け卵型の輪郭にパッチリとした目、筋の通った鼻に形の良い唇と、現地のグラビアに載ってもおかしくない美貌とスタイルの落ち着いた雰囲気の美女だった。
歳は圭太より四歳年下の二十歳で、入社時期は圭太と同じだった。
クエンは、圭太の秘書で、秘書と言っても仕事の段取り、圭太のスケジュール管理などは弥七が行っていたので、クエンはどちらかというと事務作業を担当していた。
「おはよう、クエン。
今日は一段と綺麗だね。」
「え?」
圭太が普段言ったことのないセリフを言ったのでクエンはどう答えていいのかわからず、戸惑いながら顔を赤らめた。
「あ、す、すぐにコーヒーをお持ちしますね。」
そう言うと部屋の片隅の給湯室に足早に逃げ込んだ。
「ぷっ、若、柄にもないことを。」
弥七が面白そうに圭太を見た。
「だって、さっき弥七さんが“そのくらい言え”って言ったじゃないか。」
圭太はそう口答えをしてみたが、弥七がお腹を抱えて笑っていたので、ぷいとそっぽを向き自分のデスクの椅子に腰かけた。
デスクには既に決裁書類が山済みになっていた。
「気持ちいい朝から、この山かよ。」
圭太は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
クスクス。
圭太の顔を見てクエンは笑いながらコーヒーを持って来て、デスクの空いているスペースにそっと置いた。
「お暇よりいいじゃないですか。
まずは、コーヒーを飲んでリラックスしてくださいね。」
クエンはそう言って圭太に微笑みかけた。
「ありがとう、クエン。
クエンの入れてくれたコーヒーは、本当に美味しいんだよな。」
圭太はお世辞抜きで心からそう思っていた。
「ありがとうござまいす。」
クエンは嬉しそうにお辞儀をすると弥七にもコーヒーを渡し、自分のデスクに戻って行った。
圭太はコーヒーを飲みながら、ぱらぱらと書類の山をめくっていたが、あるところで動きを止め、1枚の書類を山から引き抜き、まじまじと眺めていた。
「若、どうかされましたか?」
弥七は直ぐに圭太の態度に気が付き、声をかけてきた。
「ん?
いやね、この会社なんだけど。」
そう言って一冊の書類を弥七の方に差し出した。
「この会社は、食品会社で今度業務提携をする予定の会社です。
今、日本では秘かにV国ブームになっていて、米粉で作るフォーが人気なので、この会社を使って日本に輸出し、物産展を開こうと計画している最中です。
とくに財務会計も健全でトラブルなどもなく、衛生管理も品質のしっかりしている会社ですが、何が気になって?」
「ああ、昨日ネットサーフィンしていたらこの会社の書き込みがあってさ。
結構C国の資本がこの会社に流れているそうなんだ。
それが、何か気になって…。」
圭太の言ったことを聞いて弥七は真顔になっていた。
今まで、圭太が「気になる」と言った会社は必ず何か問題を隠していて、再調査するとそのまま提携を進めると会社に損害を与えるような問題のある会社だったことが露見していた。
そういうこともあり副支店長の近藤は、圭太の勘とも言える何らかの能力を評価し、会社の内で圭太の自由にさせていた。
但し、当然、弥七の判断が一致してのことだったが。
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