act.2

 俺はあっさりと日常に戻った。天使に誘拐されて、茶など飲んで身の上話をしたことなんか嘘だったように。

 年も明けて、年始も過ぎた。

 朝、起きる。予備校へ行く。勉強する。

 昼過ぎからはバイトに行く。つまらない、スーパーのレジ打ち。

 夜、終わって帰る。帰ってからも勉強する。

 それの繰り返しだ。

 受験がせまってきていた一月の半ばになって、バイトはしばらく休むことにした。

 受験まであと一ヵ月ほど。そろそろ集中しなくてはいけない。

 でも何故だか俺はちっとも集中できなかった。十二月の模試の結果ばかりが頭にちらついて。

 最後の模試だったのに、結果は圏外だったのだ。

 そりゃあ、まるっきりアウトだったというわけではない。数点たりなかっただけだ。

 でも俺を怯えさせるには十分だった、その数字と『圏外』の印字。

 またこんな点だったら。

 また不合格だったら。

 ……二浪なんて、するはめになったら。

 今日も予備校からの帰りは深夜になった。大詰めなのだ。毎日のように予備校にカンヅメになっていた。

 深夜の終電、車窓に映る俺の顔はやっぱり情けない。正義という名前が、ふとまた頭に浮かんだ。

 正義を叶えたいのに、その力もない無力な自分。この名前を、なにを願ってかつけてくれた両親は目に見えて年をとっていた。家だって裕福じゃない。

 それでも去年、受験に落ちた俺を許して予備校にまで行かせてくれている。

 二浪なんてするわけにはいかない。プライドだってあるが、金の余裕がないのだ。

 泣いても笑っても今回がラストチャンス。そのプレッシャーがまた、重たくのしかかってくる。

 勉強はしているのに、俺には肝心なものがなかった。

 自信、である。それがなければうまくいくものもいかないというのに。

 帰り道。

 前触れもなく、「よっ、マサヨシ。シケたツラしてんな」なんて空からバサリと羽音を立てて降り立ったヤツ。コイツは俺のそんな心を読んだのだろうか。




「マジでなんでそんなシケたツラしてんだ。アンタはいつもそうだな」

「うるさいな」

 何故かまたティータイムをさせられた。今度は深夜の公園だ。流石に空中飛行は勘弁してくれた。

「そろそろ受験じゃないのか?そんなツラで大丈夫かよ」

 耳に痛いことを言われて、俺は顔をしかめる。

 しかし言い返せない。自分が『そんなツラ』をしている自覚はじゅうぶんすぎるほどあったので。

 そして聞き上手のカガミカに、全部吐かされた。

 俺の事情も。

 模試の結果も。

 つまり『シケたツラ』になっている理由。

 最近の天使は怪談を読むだけじゃなくカウンセリングまでしてくれるのか。しかもコーヒー付き(缶のやつだが)。

 おまけにカウンセリングをしてくれるにとどまらなかったのである。

「困ったやつだな。まぁ、ナーバスになる気持ちもわかるが」

 はぁ、とカガミカはため息をついた。

 なんでコイツがため息なんだ。むしろため息をつきたいのは俺なんだが。

 と言うつもりだった言葉は出てこなかった。

 ばさりと俺の目の前に羽が広がる。すぐになんなのかはわからなかったけれど。

 バサバサと、何度か動かされてやっと理解した。しまっていたらしい、カガミカの羽だ。

 ……綺麗だった。

 確かめるように翼を動かしていたカガミカだったが、そのうち納得がいったようで、うしろに手を回した。

 ぷつん。

 なにかがちぎれる音がして、俺はぎくりとした。

 カガミカの手には一枚の羽根があった。もしかしなくても掴んでちぎったのだ。

「な、なにして……」

「アンタにプレゼントだ」

 それを差し出されたが。

「や、い、痛くないのか」

 動揺のあまり、本題ではないことを言っていた。

「髪、何本か抜くくらいには痛いな」

 カガミカはしれっと言うけれど、おい、痛いんじゃないか。動揺する俺にかまわず、カガミカは、ほら、とそれを押し付けてきた。

 俺は理解する前に、勢いでそれを受け取ってしまう。ほわっとあたたかさがてのひらに触れた。

 呆然とした俺に、カガミカはやっぱり、にかっと笑う。

「とっておきだ。本当はひとにやっちゃいけないんだがな」

 プレゼント。この羽根が。

 やっと理解して、手の中の羽根のぬくもりが全身に回ったように熱くなった。抜くのも痛いらしいのに、大切なものだろうに、わざわざ。

「いいのかよ、掟破って」

 確かめるように言った言葉は、はっと笑い飛ばされた。

「掟なんてくそくらえだ。アンタが気に入ったから特別だ」

 でもそのあと、ふっと優し気な笑みになった。笑いかけてくれる。

「この羽根は一年に一度生え変わる。新しい翼に、だ」

 それは初めて会ったときに聞いたこと。

 だが、今度はその続きがあった。笑みの中にも真剣さが目に宿って、言われる。

「だからご利益があんだよ。アンタも同じなんじゃねーの。去年のアンタとはもう違うんじゃねーの。一年勉強して、新しい経験も勉強も知識も得て、変わったんじゃねーの」

 厳しくも優しい言葉。

 言い返せなかった。口も挟めなかった。俺はただ、目を丸くして羽根を握るしかない。

「だから、自信持て」

 また笑みは優しくなった。

「これ持ってりゃ、アンタの中に埋もれてる自信を引き出せるからさ」




 ティータイムはやはり、唐突に終わった。カガミカは座っていたベンチから立ち上がって、うーん、と伸びをする。

「俺はもう行くわ」

 その「行くわ」が、家に帰るのではなく、どこか遠いところへ行ってしまうのだと俺は理解した。

「……天界にでも帰るのか」

 俺の質問には、盛大な呆れ顔が返ってきた。

「バカだな、天界なんて存在するかよ」

「……はぁ」

 また間の抜けた返事をしてしまった。

 バカだなと言われても、人間に詳しいコイツとは違って俺は天使には詳しくないんだが。特に現代の天使のことはちっともわからない。

「んな場所はないけど。定住しちゃいけねーんだ。羽根が生え変わったら新たな地へ行く決まり」

 ちょっと悲しいことを言う。

 でもカガミカは笑った。

「……アンタが心配だから長居しちまった」

 なにか言おうと思った。

 が、その前にカガミカが言う。

「だから行かねーと。……俺も新しい地を目指すからさ。アンタも目指してみな」

 優しいことを言ってくれたくせに、直後、茶化された。ちょっと恥ずかしげにも見える顔で、にやっと笑う。

「とか、クサいこと言ってみたり。じゃ、な」

 ばさっと、再び大きな翼が飛び出た。

 バサバサと何度かはばたいて、カガミカは行ってしまった。真っ暗な空へと。

 白い翼は闇の中でどんどん小さくなって、やがて見えなくなった。

 今度こそ再会することはないのだろう。



 手元には羽根が残った。銀色がかった白い羽根だ。

 まだほんのりあたたかい。それはカガミカの体温なのか、それとも『ご利益』なのかはわからない。どっちにしろとても心地良くて安心して……勇気が湧いてくるようなあたたかさなのは確かだったけれど。

 俺はそれの根元をぎゅっと握ってふところにいれた。つぶさないように、大切に。

 もう会うこともない、カガミカの羽根。きっと俺の心を夢に向かって飛び立たせてくれる。羽根を入れたふところがほんのりあたたかい。

 帰ったら模擬テストを見直そう。もう一度、納得がいかなかったらもう一度、更にもう一度。何度だってやってやる。

 俺は暗い公園の中、一歩踏み出した。


(完)

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空駆ける天使の羽根 白妙 スイ@書籍&電子書籍発刊! @shirotae_sui

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