第19話 襲撃

 岸川刑事は枕元の携帯電話の呼び出し音で目が覚めた。朝の7時を回ったところだった。「岸川、俺だ。起こしてしまったようだな」山口刑事の声だった。

「今日は非番だ。昨日は遅かったからな。結果が分かったのか」

「ああ。メッセージは盗まれた携帯電話から発信されていた。女子大生が盗難届を出していたから間違いない」「手がかり無しか。その電話は今も使われているのか」「いや。残念ながら電源が切られていて、居場所は特定出来ない」

「すでに捨てられている可能性が高いな」「盗難されたのは都内だ。女子大生の盗難届によるとキャンパス内で盗まれたようだ」岸川刑事は女子大生の名前と住所、キャンパスの住所をメモした。脅迫してきた人物が意外に近くにいることが分かったことが収穫だった。

「この礼は必ずする」「岸川、あんまり事件に入れ込み過ぎるなよ」岸川は女子大生を訪ねてみることにした。非番なので、カジュアルなジーンズと薄茶色のブルゾンを羽織った。壁にぶら下がっているスーツはかなりくたびれて見えた。

 アパートを出ると歩いて7分ほどの京王井の頭線の高井戸駅に向かった。通勤時間帯なのでホームは人で溢れていた。女子大生の通う大学は渋谷駅から近かった。うまくすればキャンパスで会うことが出来るかもしれなかった。岸川刑事は混み合う階段から少し離れた白線の内側に立っていた。

 電車が入線して来るのが見えた。その時だった。背中を強く押されて、岸川はバランスを崩してホーム下に転がり落ちた。電車は目の前に迫っていた。岸川は咄嗟にそのまま体を回転させた。急ブレーキの金属音が耳元で鳴り響いた。岸川の体はレールから5 cmも離れていなかった。ホームで悲鳴が上がるのが聞こえた。岸川は電車が停車する前に立ち上がった。ジーンズとお気に入りのブルゾンは無残にもあちこちが破れていた。線路上に落ちた時の衝撃で右膝と左上腕に酷い痛みがあった。

 運転席の窓からのぞいた運転手の顔は真っ青だった。「大丈夫ですか」

「ああ、痛みがあるが大したことはなさそうだ。俺は誰かに背中を押された。君は見ていないか」「線路に落ちる瞬間は見ましたが、急ブレーキをかけるのが精一杯でした」岸川は急停車した車両の前を回るとホーム上にいた会社員と学生に助けてもらってホームによじ登った。

 騒然としていたホームの雰囲気が岸川が無事だと知ると大きな拍手に変わった。緊急停止の知らせで駆けつけて来た駅員も安堵の表情を浮かべていた。

「救急車を呼びましょうか」「いや大丈夫だ」岸川は駅員の耳元で自分が警察官であることを告げた。事情を理解した駅員が岸川を事務室に案内した。

「血が出ていますよ」事務室にいた女性の駅員が救急箱を出してきて、処置をしてくれた。興奮していて、気づかなかったが膝や肘が激しく痛み始めていた。

「駅長さん、防犯カメラの映像を見せてください」駅長は定年間近の小太りの男だった。「なぜ見たいのですか」「俺は背中を押されたために転落した。カメラに犯人が写っている可能性がある」防犯カメラに記録された映像は少し距離があるため、拡大すると画質が荒くなった。岸川の背中を押した犯人は野球帽を被り、サングラスにマスク姿だったので人相は分からなかった。グレーのスポーツウェアを着ていたため、体型からは男か女かも判別出来なかった。

 犯人の映像をプリントアウトしてもらい、傷の手当をしてくれた若い女性駅員と駅長にお礼を言うと駅を後にした。傷だらけであちこち破れた格好で女性大生に会いに行けば怪しまれるだけだった。岸川刑事は一旦帰宅することにした。

 右膝と左足首が歩くたびにズキンとくる痛みが走った。これではテーピングをしないと明日は走ることは出来ないと岸川は思った。

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