第15話 電話の女
岸川と木下は品川駅高輪口近くの喫茶店ルノワールに約束の午後2時より30分前に着いた。二人は警戒されないために別々の席に座った。木下は駅で買った競馬新聞を熱心に見ているふりをした。岸川は店に備え付けの週刊ポストを机の上に広げていた。注文した珈琲がすっかり冷めた頃、若い女性が入って来た。
黒髪が肩にかかっていた。ブルーのサングラスをかけたその女は岸川の席を通り過ぎると後ろの席の男性の席に座ると遅れたことを詫びるとすぐに談笑を始めた。岸川は腕時計を見た。約束の時間をすでに20分過ぎていた。
肩透かしを食ったのか。じりじりと時間が過ぎていった。45分が過ぎた時、岸川は木下に合図を送った。岸川が立ち上がりかけた時、向かいの席にすっと女性が滑り込んできた。岸川が話しかける前に女は唇に人差し指を当てた。何も話すなという意味だった。
「私の質問に答えて。イエスなら指を1本立てて。ノーなら2本立てる。いいわね」岸川は人差し指を立てた。
「あなたと向こうに座っているのは仲間なの」岸川はイエスと指で答えた。
「あなたは暴力団の仲間なの」ノーと答えた。「それでは警察官なの」岸川は胸ポケットから警察手帳を取り出すと女に見えるようにテーブルに置いた。
「坂下さんですね」女は化粧をほとんどしていなかったが、美しかった。黒い瞳は憂いを帯びていた。「あなたの名前は渡辺ではなくて、岸川ですね」
「あなたが、偽名を使っていたように私の名前も坂下ではありません。私は山本の妹の沙苗です」岸川は目の前の美しい女性が山本に似ていないことに驚いた。
「妹と言っても腹違いです。兄は世間的には不良ですが、私には優しい兄です」
「私たちは山本に捜査の協力を依頼していました。お兄さんのアパートにも行きましたが、不在でした。行き先をご存知ですか」
「いいえ。知りません。兄はとても怯えていました」「お兄さんに最後に会ったのはいつですか」「一昨日の夜にずぶ濡れで突然訪ねて来たので驚きました。兄は私に迷惑をかけてはいけないとアパートに来たことはないんです」
「それはお兄さんが怪しい連中と関係があるからですか」沙苗は首を振った。
「兄は本当は不良じゃないんです。周りが悪いんです。何度も関係を断とうとしていました」「お兄さんが立ち寄りそうな所をご存知ないですか」
「思いつく所はないです」「ただ兄は当分会えないし、連絡も出来ないと伝えに来たと言ってました。理由を聞いても教えてくれませんでした」岸川は数字のメモを見せた。「この数字は何ですか」
「これは、あなたの電話番号です。お兄さんが電話番号に1を足して他人に分からないようにしたんです」「このメモ、どこで見つけたんですか」
「お兄さんのアパートの壁に貼ったポスターの裏側に隠されていました」沙苗の顔が一瞬で曇った。「兄に何があったんでしょうか。無事でいると思いますか」
「危険を感じて身を隠しているのかもしれません」
「お兄さんが身を隠すような場所を知りませんか」
「両親はすでに亡くなっています。身内は私だけです。彼女がいるという話も聞いていません。本当に思い当たることがないんです」沙苗は涙声になっていた。
「お兄さんに危険が迫っていると私は思います。思い当たることがあったらすぐに連絡をください」岸川は警察手帳から名刺を取り出すと沙苗に手渡した。沙苗のか細い手は小刻みに震えていた。長くて細い指だった。岸川は沙苗を励ますように言った。
「必ずお兄さんを探し出します」沙苗は小さく頷いた。
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