第2話 真夏の事件
昭和43年8月11日、東京はうだるような暑さだった。お盆の時期は事件は少ない。まして、日曜日朝の警察署内は閑散としていた。扇風機が送り出す風も生暖かった。岸川刑事は刑事になってからは、故郷の福岡に帰っていなかった。
岸川刑事の父親は、叩き上げの警察官だった。駐在所の警察官から苦労して、刑事になった。父親は厳格で無口は男だった。母親は正反対の明るい性格で、岸川が東京の大学に進学するのを応援してくれた。卒業間近になり、普通に就職して会社員になるか警察官になるか迷っていた時も「あなたの心の中では決まっているのでしょ。その決心に従えばいいのよ」と言ってくれた。
父親は息子が警察官になったことについて何も語らなかったが、後で母親から厳めしい顔が珍しく笑顔になったと笑いながら教えてくれた。
「岸川、応援要請だ。すぐに現場に行ってくれ」後藤副署長が刑事部屋に入って来るなり大声で言った。いつも冷静な男が興奮しているようで不吉な予感を感じた。
岸川刑事が南荻窪の現場に着いたのは、正午過ぎのことだった。制服警官が玄関先にロープを張って、やじ馬が近づかないようにしていた。顔見知りの新聞記者が声をかけてきたが、岸川は無言でロープをくぐり抜けた。
よく手入れされた庭、そして総檜作りはこの家の持ち主が裕福であることを証明していた。玄関を入ると先に現場に来ていた田畑刑事の背中が見えたので声をかけた。振り返った田畑の顔は真っ青だった。田畑が指さす先にロープがぶら下がっていた。真下には首を吊った人間の小便や大便が残っていた。首吊り自殺をすると脱糞してしまうことがよくあるのだ。
「向こうの部屋に死体がある」岸川は田畑の後に続いて、長い廊下の先にある書斎に入った。二枚のシートが目に入った。
「死体は二体あるのか」田畑がうなずいた。
「右の方がこの家の主人権藤祐三だ」「左の方は権藤の妻の由紀子だ」通いの家政婦の豊田悦子が二人を確認している。岸川は右の方のシートをめくってみた。40代前半くらいの顔が現れた。
首のまわりにはくっきりとロープの跡が残っていた。仕立てのいい着物からのぞいた胸元から、筋肉質のがっしりとした体格だと分かった。詳しい死因は監察医の解剖を待たなければならないが、縊死に間違いなさそうだった。
左のシートをめくって、岸川は喉の奥から熱い物が込み上げてくるのを感じて、口を両手で押さえた。
「洗面所は廊下の突き当りだ。俺もさっき吐いた」岸川は洗面所で何度も吐いた。死体は仕事柄何度も見てきていたが、権藤の妻、由紀子の遺体は酷かった。シートをめくって最初に現れた由紀子の顔は傷もなく、抜けるような白い肌は美しかった。さらにシートをめくって由紀子が全裸であることに気が付いた。
吐き気を催したのは胸の中央から下腹部まで鋭利な刃物で切り裂かれ、内臓がえぐり出された光景を目にしたからだった。
「大丈夫か」現場に戻ってきた岸川に田畑が心配そうに声をかけてきた。見合わせた二人の顔を青ざめていた。残虐さに輪をかけていたのは由紀子が臨月間近の妊婦だったことだ。引き裂かれた下腹部からは息絶えた赤子が見えていた。
「酷い現場だな。お前はどう思う」「通いの家政婦の話だと夫婦仲は良かったそうだ。殺人の線が濃厚じゃないかと思う」
「盗まれた物があるのか」「調べているところだが、書斎と台所にあった現金はそのまま残っているみたいだ」
「強盗なら金を取ってすぐに逃げるはずだ。わざわざこんな酷い殺し方をしたりしない。それに夫をなぜ首吊りにするんだ」
「自殺に見せかけるためじゃないのか。二人に恨みを持っている奴の犯行という線もありえる」「予見を持たないことだ。家政婦と俺も話をしたい」
「あらゆる可能性を排除しない。岸川らしいな。俺は近くの家の聞き込みに回ることにするよ」田畑は岸川よりも一回り大きな男だった。警視庁内でも柔道の腕前は知れ渡っていた。警察署内では知力の岸川、体力の田畑とよく比較されるのを田畑は嫌がっていた。豊田悦子は中年の小太りの見るからに人柄の良い家政婦だった。 おぞましい惨劇を目撃して、顔は青ざめていた。岸川はまずは落ち着かせるように話し始めた。
「豊田さん、あなたはここの家政婦になってどのくらいになりますか」豊田は事件のことを最初に聞かれると思ったので少しほっとした。
「今年で六年目になります」「家政婦の仕事は長いのですか」「私の夫は戦争で亡くなりました。幼い子供を抱えて、いろいろな仕事をしました。ここは家政婦紹介所からです。お給料もいいので助かりました」岸川は豊田の顔に刻み込まれた皺に戦争未亡人の生活の苦しさを見ていた。
「権藤夫妻のことを聞きますが、夫婦仲はどうでしたか」「奥さんはとても綺麗なお方で誰にでもお優しくて、とてもいい方でした。旦那様は少し気難しいところがありましたが、夫婦仲は良かったと思います」
「夫婦喧嘩は無かったですか」「私は見たことがありません」「最近、変わったこととか、気が付いたこととかなかったですか」
「今思うと奥様は奇妙なことを言ってました」「どんなことですか」
「奥様はこう言ったんです。悦子さん、私は人よりも霊感が強いのよ。何か良くないことが起きる気がする」「第六感とか霊感とか気味が悪いので、そんなことありませんよと私は言いました」「何か具体的は話はしたのですか」
「いえ、奥様は何か言いたそうでしたが、その話はそれでお終いになりました」
豊田悦子からはそれ以上、有力な話は聞けなかった。
「何か思い出したら、電話してください」岸川は少しくたびれた名刺を手渡すと事件現場を後にした。雷鳴が聞こえた。
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