理由なき殺人

@Blueeagle

第1話 始まり

 それは、昭和43年の真夏の1日だった。東京杉並区の閑静な住宅地にある瀟洒な家から事件が始まった。通いの家政婦豊田悦子は玄関に近づくにつれて、いつもと違う光景に身を固くした。悦子に気が付くと走り寄って来る柴犬の太郎が犬小屋の中で横たわっていた。太郎の体はすでに硬直していた。だらりと垂れ下がった舌の先には肉の塊が転がっていた。悦子は不吉な予感を感じていた。

 玄関には鍵がかかっていなかった。ドアをゆっくりと開けて、悦子は目に飛び込んできた光景に驚愕して、その場に倒れこんだ。額から滝のように流れ落ちる汗は暑さのためだけではなかった。悦子はゆらゆらと揺れている異様な物に目が釘付けになっていた。

 縄の先にぶら下がっている男は後姿しか見えなかったが、その着物はこの家の主人、権藤祐三のものに違いなかった。悦子は倒れたまま後ずさりした。腰が抜けて立ち上がることが出来なかった。開いたままのドアから這い出ると四つ這い状態で助けを呼んだが、その声は悲鳴にしか聞こえなかった。

 

 父の残した遺品の中にそのノートはあった。段ボールの底にあったノートは古びて色褪せていた。このノートには祖父が担当した未解決事件の詳細が記載されていた。祖父も父も刑事だった。祖父が几帳面な男だったことは、詳細な事件現場のスケッチからうかがえた。左側に事件の経過、右側には感じたことや疑問に思ったことが事細かく書かれていた。

 そして、驚いたことに所々、朱線が引かれ、見慣れた父の文字が短く追加されていた。父は祖父から几帳面さと頑固さを引き継いでいた。捜査で疑問に思ったことは納得がいくまで調べないと気がすまなかった。刑事は足で捜査するという信条を死ぬまで守り抜いた。

 昔気質の父とは捜査方針が食い違い、そのたびに関係が悪化した。母がガンでなくなるとますます実家から足が遠のいた。母が亡くなり一人きりになった父はすっかり老け込んだ。そして、定年退職後、気力を失ったせいかたった五年でこの世を去ってしまった。

 今、こうして父の遺品を整理していると、一人息子としてもう少し父と接する時間を持つべきだったと後悔を感じていた。


 



  

 

  

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