第7話
吾助は幸村と同じように農家の次男坊として生まれ、十四の歳までその村で育てられたとのことだった。
言うまでもなく、家は貧乏だったという。
父母や兄は、まるでその身を粉にするように朝から晩までずっと働いていたが、そうして得られたものは結局長いこと、家には残らない。
「ずっと家の中が重苦しくて、息が詰まって仕方がなかった。いつも誰かの機嫌が悪くて、辛く当たられることが多かった」
村での生活を、吾助は端的にそう表現した。
しかし、その態度のどこにも強いて悲壮さらしきものは感じられない。
むしろそんな家から開放された現状に、彼はどこまでもせいせいしているようであった。
「近所の奴が徴兵される時にこっそり付いて行ってさ。すぐ見つかって帰れって言われたけど、頭下げたりして無理やり連れてってもらったんだ」
そう言いのけて、どこか得意そうに吾助は笑う。
それは彼にとってまさに誇るべき冒険譚なのだろう。
少なくとも、こうやって幸村に話したがるほどには。
(昨晩襲いかかった相手でもお構いなしか)
もちろん内心、そう思うところもある。
その近所の奴というのも、かなり迷惑だったことだろう。
ただそれも相手がやっと高校に入ろうかという年齢なのだと思うと、納得できないこともなかった。むしろ幸村の感覚に照らせば、その歳でよくそんな度胸があるものだなと感心してしまう。
いや結局それらはすべて、今の時代のせいにして済ませるべき問題なのかもしれないが。
「それでさ。あんたって、これからどうすんの?」
あちこちに話題が飛んだ話にようやく一段落ついた所で、吾助が質問した。
「どう、って。またどこかで人を募りそうなところを探すに決まってるだろ。最近この辺りもごたごたが多いみたいだから、また探せば割とすぐに見つかるんじゃないか」
「その人を募ってるのって、どこで分かんの?」
「え?」
いったい何を訊いているつもりなのか。
幸村は眉をひそめた。
「ほら、俺その近所の奴に付いって行ったら全部なんとかしてくれたからさ」
「あー……、地元の村に帰ったほうがいいんじゃないか」
そんなことも分からないなら、という含みを込めて幸村は言う。
しかし、吾助は本当にまったくの厚意からその言葉が出てきたものと勘違いしたらしい。
「さっきまでの話を聞いてて、なんで俺が村に帰れると思うんだよ。俺、一切帰る気なんてねえから」
「ねえから、って俺に言われても困るんだけどな。まぁ、勝手にすればいいさ、そこら辺は」
そう言って、幸村は立ち上がる。
もう十分吾助とは話すことが出来たし、彼が幸村の欲しい情報を持っているということもなかった。
それほど期待していたわけでもない。
そろそろ、外に出て出発してもいい頃だろう。
雨も上がり、いくらか地面の状態も落ち着いたはずだ。
またこの小屋の持ち主には悪いが、半分壊れて放置されていた草履があったので、それをもらって履くことにする。
多少歩きにくいところもあるが、素足で歩くよりはいい。
「出発すんの?」
幸村が立ち上がったのを見て、慌てて吾助は立ち上がる。
それからぱんぱんと服の汚れを手で払って、改めて幸村の顔に視線を向けた。
「なあ、俺、ちょっとくらいならあんたに付いて行ってもいいよな」
「……は?」
まさか断るわけないよな? とでもいうような口ぶりだった。
だから幸村はつい、本音が出てしまう。
「さっき『これも何かの縁だろ』って言ってたじゃんか。いいだろ、別に。餅もらった礼もしたいし」
「あー、じゃあ付いてこないのが礼ってことでいいよ。俺も自分のことで精一杯だし」
すべなく幸村が断ると、吾助はひどく意外そうな顔を浮かべた。
会話が弾んでいると思っていたからか、あっさり断られることを想像もしていなかったようだ。
すると、五助は急によその方を向いて、何かを考え込み始める。
ここで幸村の後に付いていくには、何か目の前にぶらさげる餌が必要だと感じたのだろう。
そうやって考えること自体は間違ってはいない。
いや、間違ってはいないが、吾助はいったい何の意図を持って幸村についてこようというのか。
犬や猫ではないのだ。
多少優しくされたくらいで幸村を信頼するのは、あまりに早計過ぎるだろう。
そしてしばらく間を置いた後、吾助はふと思いついたように言った。
「俺、ここから一番近い村のある場所知ってるぜ」
「……おお」
それは予想外に、幸村にとって役に立つ提案だった。
勘所が冴えている。
少し相手のことを見直しつつ、幸村は尋ねた。
「なんでお前がそんなこと知ってんだ? この辺の出なのか?」
「それは秘密だ」
「……ん?」
真面目な顔なのでふざけているわけではないらしい。
吾助は力強い視線を返してくる。
なので幸村の方が視線を外した。
今度ははっきり意味が伝わるように、彼は大きく溜息を吐いてみせる。
「嘘だろ」
「嘘じゃねえよ!」
「……じゃあ、どっちの方向にあるかだけ言ってみろよ」
「…………危ねえ。それ言ったら全部意味ねえじゃん」
引っかからなかったか。幸村は小さく舌打ちする。
あともうちょっとで引っかかりそうだったが。
……そう思えればまあ、少しだけ面白くはあった。
とはいえ、これ以上話を続けてもほぼ意味のないやり取りにしかならない気がする。
幸村は適当に会話を打ち切って外に出ようか考え始めた。
しかし、結局後ろから付いてこられたら同じことになるか。
まさかここで再び吾助を縛って置いていくわけにもいかない。
「もういいや。分かった」
投げ捨てるように発せられた言葉に、吾助はただただ笑って顎のあたりを掻いてみせる。
おそらく無理やり付いてこられた近所の奴もこういう気分だったのだろうと幸村は思った。
「なあ、おい」
小屋を出て数十分が経った頃。
背後を歩く吾助に幸村は声をかけられた。
「俺が知ってる道と全然違うんだけど。っていうか、まるっきり逆に元の道戻ってんじゃねえかよ」
吾助の言う通りであった。
幸村と吾助の二人は昨晩、ほうほうのていで逃げてきた道をわざわざ取って返して進んでいた。
すでに横手には幸村が半日隠れていた林が見えている。
「本当にどこまで行くんだよ! 追ってきてる奴がいたらどうすんだ!」
「……」
しかし、そんな当然の疑問に幸村は答えない。
吾助はひどく不安になったようだった。
急にそわそわとし始める。
なにしろ今の彼は丸腰なのだ。
幸村が彼の同行に条件を付けていたからである。
「付いてくるのは良い。でも、お前に槍を持たせて近くを歩かれるのはまだ怖い」
幸村が出したその条件に、吾助はもちろん悩んだようだった。
戦から逃げる最中でも吾助は武器を離さなかったのだ。
しかし、
「これで悩むなら一人で動け」
続けてそう言われて、ついには幸村が槍を持ってくれと吾助の方から言い出した。
だから槍は今、幸村の手の中にある。
こうなると口先三寸で騙している感があるが、実際問題、互いに
無垢な信頼は預ける方は楽だが、受け止める方はそれなりに覚悟がいるのである。
であれば、相応の安全策は取らねばならない。
「なあ、おいってば」
ただもう、いい加減うるさくなってきた。
幸村は仕方なく、歩きを止めないまま早口で答える。
「追手なんかもうとっくに自分の陣地に戻ってるよ。今そいつらの頭にあるのは、奪ったもんがこれからどれだけ自分の懐に入るかってことだけなんだ。ここまで来たらもう自分の家族にも生きて会えるはずだし、金とか物も持って帰ってやれるし」
それは幸村もそちら側に立った経験があるからこそ得られた知識だった。
その経験自体はまあ、できればお断りしたい類のものではあったけれど。
つまるところ、幸村がいる社会の戦というものは、一方がもう一方から金や物資を収奪するのが主な目的で行われる。
簡単に言えば、自分の所に足りないものを余所から奪ってきて埋め合わせする、という極めて短絡的で乱暴な手段が大手を振ってまかり通っているのだった。
あるいは一つの地域が総勢を挙げて山賊・海賊になるのだと考えても差し支えがないかもしれない。
そしてそれら戦の多くは、
そこに決して土地領主、豪族同士の意地や面子が関係ないとは言わないが、たとえば一人の私怨から始まる戦がどのような結末を迎えるか。
それはかつては魏呉蜀、三国の時代からでも明らかなことだろう。
亡き者にされた父のために戦っても、兄弟のために戦っても、結局は自国が疲弊しただけだった。
それに少なくとも、ひとかどの領主と呼ばれるものは、それがどんなに独善的であろうとどこかに組織の長としての一面を持っているものだし、そうであるからこそ一本、誰もが納得するような筋は通さねばならない。
「まあ、細かいことはいいから付いてくるなら付いて来いよ。兵はいないと思う。でも、ほかの誰かが居るかもしれないから、周囲には気を張っといてくれ」
「ほかの誰か?」
幸村は先生ではないのだ。
自分で考えろ、と言わんばかりに背中越しに手を振る。
と、ちょうどその時。
幸村は遠くに何かが落ちているのを発見した。
「あったぞ」
言葉の意味がわからず、吾助は歩く速度を早めた幸村にえっちらほっちら付いていく。
そして目的の場所まで来たところで、吾助は「あっ」と口から息を漏らした。
「死んで……るよな?」
「ああ」
林の中、光のあまり差し込まない場所だった。
水が抜けきっていない泥の上にある大きなもの。死体だ。
半裸の男が地面にうつ伏せに倒れている。
そこに近付いた幸村は心の中で一度謝って、その体を蹴り転がした。
「うっ」
吾助がまた声を漏らした。
水に浸かって死体がふやけて膨れていたのだ。
その腹のあたりには血の固まった傷跡が見てとれる。
明るくない場所でよかった、とだけ幸村は思った。
「駄目だな、これ」
「……駄目?」
「泥で汚れて、漁るとか漁らないとかの話になってない」
一瞬間を置いて、吾助はようやく幸村の意図に気づいたようだった。
遺体漁り。
想像もしていなかったのだろう。
吾助は、まるで急に目の前に化け物が現れたかのような顔つきになった。
ただそうしてすぐに思いつくということは吾助自身、知識がなかったわけではないはずだ。
なにより、そのショックはかつての誰かほどではなかったように幸村には思えた。
単に、実際に目にしたのが初めてというだけ。
そこまで把握した幸村はその場でしゃがみこんだ。
何かを拾い上げる。
「ほら」
そして立ち上がった幸村は、吾助の方に向かって躊躇なくその拾い上げたものを差し出した。
それは泥で汚れた槍だった。
元から持っていた槍ではなく、あえてそちらの方を差し出している。
「……」
吾助はしばらくの間、動かないままだった。
それは迷っているわけではない。
事態を飲み込むために時間が必要だったのだ。
最終的には、吾助もどうすべきかは分かっている。
そしてついに吾助は手を伸ばして、幸村から汚れた槍を受け取った。
先ほどまで、あれだけ豊かに感情を出していた吾助の顔つきは、みるみるうちに能面のように無表情になった。
そう振る舞うように強いたことをもちろん幸村は自覚している。
結局、すべて時代のせいなのだ。
吾助に背を向けた幸村は誰に言うでもなく、林の遠くの方を見ながらそうひとりごちた。
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