第5話
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もう日付も変わっている頃だろう。
林を抜け、裸足で山道を歩き続けていた幸村は、とにかく雨宿りできる場所を探していた。
すでに追手に追われているような感覚はない。
いまだ降り続ける雨のせいで火が使えず、夜も更けた後では、逃げた兵の捜索など満足に行われているとは思えなかった。
いくら勝ち戦の勢いがあっても、これほど環境が悪くては兵のやる気も保てない。
とはいえ、万が一の事もある。
幸村はもう安全だと半ば確信してからも、しばらくは大きな樹の下に身を隠して周囲の様子を伺っていた。
(……寒い)
だが、そういつまでも雨ざらしのままでいられるものではない。
濡れきった衣服は幸村の体から体温を容赦なく奪っていた。
いい加減、覚悟を決める必要がある。
そうして彼は林を抜け出ると、当てもなく山道をさまよい始めた。
(どこか山小屋でも見つけて火に当たらないと)
残念ながら、幸村はこの辺りの土地勘を持っていない。
二週間ほど前、村井という土豪の下に潜り込んだまではよかったが、今回の行軍であちこち歩いていくうちに、今自分のいる場所もよく分からなくなっていた。
とりあえず、最後に潮気のある風を感じたのが四日ほど前のことだから、おおまかに内陸の方に来ていることは想像できる。
かつて世話になった村から測れば、おそらく徒歩で半月分は離れた位置にいるだろう。
現代ならともかく、この時代ではそうそう簡単に移動できる距離ではない。
そう。思い返せば、幸村があの村を離れてからおよそ一年弱の月日が経っていた。
季節もすでに一周り近く、夏は中盤をいくらか過ぎようとしている。
その間、この時代でさまざまな経験をしてきた幸村だったが、現実への帰還のために得られたものはこれまで何一つとしてない。
またそれほどの時が経っていれば、たまに幸村もあの村での生活を思い出すことがあった。
少なくとも今この現状よりは穏当に思える生活。
かと言って、彼がまたぞろあの村で世話になりたいかといえば、そんなことは決してないのだ。
むしろ、そういう気分になることなど一切ないと断言できるほどであった。
結局、村での生活は三ヶ月が限界だった。
三日目を乗り越え、三週目を乗り越え、しかし幸村に我慢出来たのはそこまで。
理由はだいたいお察しの通りである。
一介の学生に、訴訟沙汰になりそうな事件の当事者を続けられる覚悟はない。
しかも何の覚えもないのだからなおさらのことだ。
あるいは幸村がもう少し対人関係の扱いに習熟しており、家族の微妙な空気をうまく微妙なまま保つことができたのなら、まだあの村にも居られたかもしれない。
ただ思春期以来、家族内での問題をほとんど経験したことの無かった彼がそこまで周囲に気を使えるわけもなく、ただ笑って馬鹿なふりをするのにもさすがに限度があった。
(だんだん夕さんの機嫌が悪くなっていくのも、見ていられなかったし)
ごまかし続けてようやく迎えた三ヶ月目のあの日、風の噂で兵を募っている土豪がいると聞かなかったらどうなっていただろうと思う。
間違いなく、一郎は怪しむ気配を見せていた。
連れ合いの浮気に気付くのは決して女の側からばかりではない。
むしろ正確さだけで言うなら、男のほうが勝っているかもしれない。
噂を聞いた瞬間から、一も二もなく幸村は村を出てその土豪の元へ向かうことを決めていた。
村を出る前に話をしたのは、叔父の
もちろん最初は反対されたが、こちらの意思が強いと知ると、最後には諦めるようにして叔父は村を出ることを認めてくれた。
実は良三も若い頃、戦働きをしていた時期があったのだという。
だから気持ちは分かる、と彼は言った。
「農家の三男坊が立派に一人立ちしようとするなら、道はそれしかない」
無事帰ってこいよ。
良三はそう言ってわずかな路銀を渡し、幸村を村から送り出した。
その後幸村は、益田という土豪の下で半年余り徴兵された兵として半農半兵の生活をし、そして二週間前、村井というこれまた新しい土豪の下についたのだが――。
(その結果が、これか)
事前に聞いた噂の限りでは、土豪同士の、規模の小さい小競り合いのはずだった。
それに数はこちらが十分に勝っていると。
だが、戦術的な面において大きく相手に負けていたのだろう。
ふいに横腹を突かれて、幸村の所属していた部隊は早々に崩れてしまった。
今回、幸村が死なずに済んだのはほぼ九割方、ただの運にすぎない。
事実、村井側の兵は――特に幸村の近くに固まっていた兵はその半数近くが――追撃によって討ちに討たれていた。
当然、幸村の頭が恐怖で痺れたようになったのも一度や二度では済まない。
ただ、運良く生き残ってみて(まだ安全だとも言えないが)、幸村は寒さに冷えきった頭でこうも思うようになっていた。
なんと自分は矛盾した、得難い経験をしているのであろうかと。
それは何かに極めて近く、
異様な現実を薄い膜の向こうに透かしながら見ているようだった。
実際、このように一方的に追われる立場になってみると、肉体的にも精神的にも予想以上の負担が幸村の身にのしかかった。
そして切羽詰まった瞬間、人が自棄になってしまう気持ち。
自らをあさってに向かって放り投げようとしてしまう気持ち。
その全てがこれまで体験したことのないものであって。
それなのに幸村は心のどこかで演劇でも観ているように、極めて客観的に目の前の現実を引き受けていた。
それは一種の自己防衛が働いているにすぎなかったのかもしれないけれど、こんな気分を彼は生まれて初めて味わった。
あるいは幸村はこの時初めて、ある種の現実を知った気になったのかもしれなかった。
それゆえ、ここで死んでしまってはもったいないと幸村は素直に思う。
たまに意識が遠のきそうになるのを感じながら、どうにか生き残ってやると幸村は雨の中、目を細めて薄暗い周囲を見回していた。
(ん?)
そうして幸村が寒気でうつらうつらとしつつ、ふいに視線をあげたその時のこと。
彼は右手に見える丘の上に小屋があるのを見つけた。
(……!)
その瞬間、半ば放り出しそうになっていた意識を一息に取り戻す。
幸村はすぐさま、そんな力がどこにあったのかという早さで丘を登り始めた。
おそらく炭焼き小屋か何かだろう。
薪が山のように小屋の横に積まれているのがはっきりと見える。
(もしかしたら火が使えるかもしれない。いや、この雨を防いでくれるだけでも)
小屋の前まではすぐにたどり着いた。
しかしその直後、幸村は中に誰か人の気配があるのを感じ取ってしまった。
明かりがかすかに外に漏れていたのだ。
呼吸を落ち着けてどうするか三秒悩んだ後、幸村は勢い良くその戸を叩いた。
今は何より寒さから逃れるのが先決だと思ったからだ。
しかし、幸村がいくら待っても家の中から反応は返ってこない。
寝ているだけであってほしい。
そう思いながら、幸村は戸に手をかけてみる。
すると、つっかえはなされていなかったようで、力を込めると戸は音もなくすっと開いた。
「……すいませんー」
そう声をかけ、彼は小屋の中を覗きこむ。
途端に、埃っぽい匂いが鼻の奥を突いた。
(……誰もいない?)
奇妙なことに小屋の奥に明かりは見えるが、その付近には誰の姿も見えない。
妙だと思いながらも、幸村は一歩、小屋の中に足を踏み入れてみる。
その次の瞬間。
幸村は右手の暗がりから突然槍が突き出されてきたのを横目で捉えていた。
刹那、幸村は身をよじって奇跡的に槍を避けていた。
ほとんど無意識の動きである。
槍は彼の右腹をかすめ、小屋の壁にどすんと音を立てて突き刺さった。
「あぶねえ!」
思わず、幸村の口から声が漏れる。
横を向くと、歯を食いしばって悔しがる男がそこにいた。
その目には殺意に満ちた光がある。
まるで手負った獣のようだと幸村は思った。
このままではいけない。
幸村はすぐに説得は無理だと判断した。
そして彼は逆手で槍の柄を掴むと、力を込めて振り回そうとする。
とにかく槍を相手の手から離そうとしたのだ。
もちろん相手の男も幸村に槍を奪われまいと両手に力を込めた。
ほとんど両者の腕力は均衡していたらしい。
まるで運動会の綱引きのような要領で、しばらく二人は槍を奪い合った。
そして、そのことに最初に気付いたのは幸村の方だ。
彼は何度か思い切り槍を引っ張った後、ふっと急に腕の力を抜いてみせた。
「あっ」
そんな間抜けな声が聞こえ、幸村と槍を奪い合っていた男がぽてんと地面に尻もちを着く。
ちょうどまた踏ん張ろうと足に力を入れた瞬間だったらしい。
その隙を幸村は見逃さなかった。
彼は姿勢を崩した男に駆け寄り、全力でその顔を殴りつけた。
そこにまったく遠慮はない。
相手の怪我も何も、一切気にしなかった。
拳は上手い具合に当たったようだ。
男は声も上げられずにその場に倒れこんだ。
その間に、槍を奪った幸村はそれを遠くに放り投げてしまう。
また男の倒れたすぐ横に古い縄が落ちていたので、幸村は男の倒れた体をひっくり返し、その背中を足で踏みつけながら、両腕と足をきつく縛った。
「はぁー」
そこまでやってようやく気が抜けた。
とりあえずの危機を退け、幸村は息を吐く。
一瞬のうちに、よく体が動いてくれたものだった。
しかしふと気づくと、腕がぶるぶると震えていた。
これはおそらく寒さだけが理由ではないだろう。
心臓もばくばくと激しく鼓動を打っている。
一度深呼吸をした後、改めて幸村は小屋の中を見回した。
小屋には倒れている男以外、誰もいないようだ。
ホコリをかぶっている道具からして、この小屋が日常的に使われている様子はない。
だとすると、小屋の火を起こしたのはやはり今襲ってきた男なのか。
「ちくしょう」
すぐに意識を取り戻したようだ。
男の口から声が漏れた。
もぞもぞと動いた男は自分の両手両足が縛られ、体の自由が効かないことに気付いたらしい。
憎らしげに悪態をついた。
「ふざけんな、早くこの縄を解けよ」
その声は意外と甲高い、若い声のように幸村には聞こえた。
幸村は、倒れている男の顔をよくよく覗いてみる。
「なんだよ、クソ」
すると、やはりというか、その顔つきには若干の幼さが見て取れた。
思いもしないことだったが、もしかしたら男は幸村より歳下だろうか。
「いきなり人を襲っておいてそれはないだろ。なんで俺を襲った?」
それでもできるだけ平静を装い、幸村は尋ねた。
「なんでって、そりゃあんたが敵だと思ったからさ」
男から馬鹿にしたような声が返ってくる。
幸村の声の調子に自分が殺されることはないと甘く見たのかもしれない。
そういう態度に関しては、特に腹は立たなかった。
目の前の男に限らず、この時代、やたらと人を舐めた調子で他人と関わろうとする人間は多い。
結局、多くの人が既に出来上がった関係の中でしか人と交流しないから、距離感の調整がうまくないのだ。
「敵って、お前。もしかして、今日の昼間の戦に出てたのか」
「ああ、最悪だった。話じゃ楽勝って聞いてたんだけどな」
ということは、男は村井側の兵の一人だったらしい。
つまりは、ほんのわずかの期間とはいえ、幸村の同僚であったということ。
幸村はふうとため息をついた。
「同じ旗担いだ人間に襲われたのかよ」
その言葉で男も幸村の立場がわかったようだ。
すると男は歯を見せて、にやにやと笑ってみせた。
「そんなこと言ったって、あんたの顔なんか知らなかったしな。全部で五、六十人いた人間の顔なんか全部が全部、覚えてられねーよ」
確かにその通りではあるが、と幸村は頬を掻く。
「っていうか、あんた、敵じゃなくて味方なんだろ。だったら、もうこの縄を解いてくれよ。誤解だってことはわかったからさ」
「そりゃ無理だ」
男の気安い提案に、幸村は即答した。
「あ? どうして」
「襲われたことを謝られてない」
ひどく真面目な顔で幸村は返答する。
予想外の答えだったらしい。
はっ、と男は顔を歪めた。
「わりいわりい。ちょっと間違えちゃったよ。頼むから許してくれ」
まったく言葉に重みもなく、反省の色が見えない態度だ。
なので、幸村は男の言葉を無視して、小屋の中の火が起こされている場所に向かう。
ちょうど服をかけられそうな台もあったので、彼は濡れた服を脱ぎ捨て、すぐにふんどし一丁の格好になった。
「ちょっとおい、なんだ。謝っただろ」
男は自分を意に介さず、背を向けた幸村に対して大声で怒鳴った。
「悪いけど、お前の言葉は信用できない。明日になったら解放するかどうかまた考えてやる。今日はそのまま黙って寝てろ」
そう言って幸村は体を火にかざしながら、床の上に座り込んだ。
ちょうど横に汚れた手ぬぐいが落ちていたので、それを拾って濡れた体も拭う。
すでに一度使われた形跡があったが、そんなことはもはや気にもならない。
そして、すぐに限界が訪れた。
おぼつかない火の勢いは却って優しく幸村の体を温めてくれた。
じわじわと体に熱が戻ってくると、それにつられてゆるゆると彼の気は抜けてしまう。
すると、そうしてできた隙間に何か、弱々しいものが入り込んできたようだった。
幸村は目元を押さえた。
男はまだぐちゃぐちゃと声を上げ続けている。
(大丈夫だ、俺は大丈夫)
心のなかで繰り返して、湧き上がる感情を押さえつける。
そうやって黙って堪えていると、いつしか睡魔が彼の意識を奪いにやってきた。
結局、幸村はそのまま火の横で横になり、朝になるまでしばらくの間眠っていた。
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