たまご
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たまご
目玉焼きを作ろうとしてフライパンに落とした卵には血が混じっていた。黄色に赤。美しい球に架かる弧が絶妙に綺麗だったが、目玉焼きにするには不気味と思い、結局捨ててしまった。
卵に血なんて初めて見たので驚いたが、調べてみると異常卵、血卵というらしい。卵を産む鶏にストレスがかかり、毛細血管などが切れてしまうことで血が混じってしまうのだそうだ。つまりあの血は卵自身の血ではなかった。
あの卵は無精卵だったので、そこに新しい生命があったというわけではない。あの血液は卵をかつて体内に護っていた母鶏のものだ。
しかし私には、決して存在しない生命が、その血によって突如姿を現したように思われた。私はなんの変哲もない赤色に、確かな生命をみた。私があれで目玉焼きをするのをやめたのは、不気味さが大半だろうが、そのなかに、はっきりとした生命を侵すことへの抵抗があったのかもしれない。
血が生命そのものをあらわすということに、私は以前も出会ったことがあった。
私の顔は、父親に似ていて、父親の顔はその父親、私にとっての祖父に似ていたが、私はその祖父が大嫌いだ。
私がまだ学生だった頃の数年間、私たち家族は父の実家に暮らしていた。
もとは家族だけで住んでいたのだが、足を悪くしてしまい寝たきりの生活になってしまった曾祖母の世話をするため、ヘルパーをしていた母に白羽の矢が立ったのだった。しかし曾祖母は、私たちが越してきてすぐに亡くなってしまった。
さて、祖父はその家の主で、父がまだ幼い頃に離婚していた。またその家には出戻りの伯母も暮らしていた。
父は兄弟が多く、一緒に暮らした伯母のほか、兄が二人いた。一人は未婚だが、もう一人には子どもがいた。
祖父は私よりも伯父の子どもの方を好きだった。それは態度にも出ていたし、口に出してさえいた。
そんな祖父を母はもちろんよく思わなかった。母は一緒に暮らした数年の間に、祖父のそういった態度と重たい小姑の存在により少しだけ気が触れてしまった。
母は毎晩酒がないと眠れないようになった。酒を飲むと、あなたから祖父に談判してくれ、あなたが私たち家族を守ってくれと強い口調で父に助けを求めていた。語気の荒さが母の切実をあらわしていた。
父はとても優しい男だったが、それゆえ強さがなかった。父も伯父の子ばかり可愛がる祖父のことを気に入らないではいたようだが、祖父にそんな態度を出すことは出来ず、いつもじっと母の言葉の雷雨を身に受けていた。
一緒に住み始めた頃は小学生だった私もとうとう高校受験の年になった。勉強のストレスもあって、家庭に最初に我慢できなくなったのは情けなくも私であった。
ある晩私は祖父と大喧嘩した。理由はもはや覚えていない。ただ強い怒りと悲しみでなにか色々泣き叫んでいたことだけを記憶している。父が大慌てでやって来て、そこで初めて祖父に強い態度で抵抗した。そのことが私は嬉しくて、後半のほうの涙の理由はそれであった。
私が泣き喚いたことで母も何かの糸がふつっと切れたのだろう、父と一緒に祖父と、祖父に盲目的な伯母のもとへ行き、談判をした。翌日から私たちは一時的に母の実家へ居候させてもらうことになった。後に母から聞いたことだが、その話し合いが終わるとき、最後に祖父が
「お前らが出ていくとなると、周りから、あの家は何かあるんだろうななんて言われちゃうな」
と言ったらしい。馬鹿にしやがって、と思い悔しかった。
祖父は市長選挙にも関わるほど顔が広く、外では信頼される人柄だった。家では洗濯するものもそこらに散らかしっぱなしの碌でもない人だったくせに。狡い人間だった。
私たちは結局一年ほど母の実家に住まわしてもらい、少し離れた土地に新しい家を見つけ、引っ越した。私にとって、ようやく家という場所が家たりえた瞬間だった。
引っ越してしばらく経つと、数年間の傷はわりと早く癒えて
きた。物理的にも精神的にも目まぐるしかった最近が終わり、あるときふと自分の顔を鏡で見ると、そこには祖父によく似た風貌の人間がいた。
それは違わず私であった。
祖父の生命が、私の血の中の、たった、ほんの何割かの遺伝によって、私のなかに姿をあらわしたのだ。私は自分の顔の造形のなかに祖父を見つけてしまった。私はほかならない自分自身によって、祖父の確かな鼓動を作り出してしまっていたのだった。
私は恐れた。もしかしたら私は、歳を取れば取るほど祖父に近づいていくのではないか。この目も、鼻も、口元も、もしかしたら手の皺さえも。
私は鏡を避けるようになった。鏡を見なければ、私が祖父に似ているということを信じないだけで、私は“私”の顔を持つことが出来るからだ。
しかし、祖父の血は私にだけ流れているのではなかった。父の中に流れる伏兵が、彼の顔さらには行動にさえも祖父を現し始めたのだ。それは悪癖を示したのではなく、話し方や体のうごきなど些細なものだったが、それさえ私には苦しかった。
父のこうどうにさえ苛立ち始めてしまった。どうにか止めて欲しかったが、父にとって祖父はどこまでいってもやはり父親なのだ。私にそんなことが言えた道理はない。私にとって父が大切な存在であることはそれでも変わらない。父は祖父ではない、そんなことを心の中で何度反芻しただろう。
父の姿が血によって霞むたび、私は祖父に近づく自分自身をさらに意識した。こうしてうじうじ考える自分も、情けなくて恥ずかしくて嫌だった。
それを変えたくて私は、鏡から逃げることをやめた。毎日繰り返し“私”の顔を見つめ、純粋な“私”を手に入れるために努力をした。
その甲斐あってか、時間の経過がそうさせたか、まるで発作のように私の心を支配した祖父の姿は、徐々に薄れていった。ここ数年間、私の心は本来そうあるべきだったであろう平静を取り戻している。
しかしその後も祖父はたびたび姿をあらわし、今でも私を脅かすことがある…。
……これも卵の血のように捨てることが出来たらな、と思った。私がさっき捨てた卵の中に見つけた生命のように、私の中の祖父の生命すら捨ててしまえないだろうか。
テーブルを離れ、さっき卵を捨てたゴミ箱を覗くと、綺麗な球に艶めいていた黄身は割れ、そこに血が混ざりあってもう分かれそうになかった。
そしてその光沢の表面には、私の顔が、鏡よりもたくさん歪んで映っていた。
たまご 1 @whale-comet
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