覚悟の先

 日向の居ない学校は普段の学校よりも寂しく感じた。視界に入る席に座っている彼女の姿がないのは違和感しかない。それは緑原も同じのようで、時折、日向の席に目を向けていた。


 今日は木塚が担当する授業はない。それが、来たる瞬間の緊張へと繋がっていく。一目でも、彼の姿を捉えてしまえば、負けるイメージが纏わり付いてしまい、気後れする可能性がある。後戻り出来ない状況に自ら持っていくことが、その後の戦いを良い方向に持っていく条件の一つになる。


 授業も淡々と進み、昼休憩に入った。いつものように親友と教室で弁当を食べ、談笑する。


 すると、緑原が動かしていた箸を止め、首を傾げさせた。


「どうしたの? 顔色悪いわよ?」

「え、そう……かな……?」

「そうよ。具合でも悪いの?」


 ここで否定するよりも体調を崩しているのを装えばこの後の行動はしやすいだろう。


 剣崎は額に手を当て、少しだけしかめさせる。

「……実は風邪気味」

「だめじゃないっ。保健室行かないと」

「そだね。お弁当食べてから行くよ」


 そう言い、弁当の残りを食した後、二人で保健室へと向かった。保健室のドアを開くと、いつも居るはずの保険医の佐倉は居らず、保健室の独特な匂いだけが漂う。


「先生居ないわね……」

「教室に戻ってていいよ? 私、先生来るの待ってるから」

「よくないわよ。しんどいんでしょ?」

「けど、もう少ししたら授業始まっちゃうから」


 その言葉に、緑原は保健室の時計を見るなり唸ってしまう。自分の体を心配してくれ、本当に嬉しい反面、仮病と嘘吐くのは心苦しい。だが、これからする事を考えると、誰にも目の付かない単独行動が好ましいのだ。


「……きついなら、ベッドで寝るのよ? なんなら、そのまま帰ったらいいんだし。一言送ってくれたら、私が先生に言っとくから」

「うん。ありがと、葉菜ちゃん」

心配そうにこちらを見ながら、緑原は保健室を出ていった。彼女の足音が遠のいていき、視界から保健室が消えたであろうところまでとなった時、行動に移す。


 昼休憩の終わりが近くなってきていることもあり、生徒の足取りが各々の教室へと向かっているのがあちこちから聞こえてくる。


 剣崎は保健室の窓の縁に足をかけると、二階の窓のでっぱりまで跳ぶ。生徒の視界に入らないように集中し、迅速に跳ぶ。保健室から屋上まで到達するまで五秒も掛からなかった。


 屋上に吹く風が剣崎の髪を撫でる。弱くもなく、強くもない心地よい風に強張る体を僅かにほぐしてくれる。


 目を閉じ、空を仰ぐ。


 これから踏み込むところは、今までで一番恐ろしい状況だ。そして、長い数時間となる。


 親友と、家族と変わらない日々過ごす為。街の平和を掴む為に踏み越えるべき試練。


 着替えと刀を置いた場所へと跳び、着替える。


 今回だけは普段と変わらないゆっくりと着替えていく。その間に剣崎葵ではなく、もう一人の剣崎葵としての覚悟を決める。


 着替え終えると四本の刀を腰に差し、制服を丁寧に畳み、立ち上がる。


「……よし」


 その言葉と同時に授業開始のチャイムが校内に鳴り響く。そして、しばらくしてある教室から木塚の声が耳に届いた。


『始めるぞー。席につけよー』


 校舎の角にある一年生のクラス。

 今立っている場所から見下ろせる教室でもあり、彼の姿が見えていない故に気付かれていないだろう。


 さすがの彼でも、この時間帯に狙われているとは思わない筈だ。


 先手必勝。


 狙うは相手の無力化だ。


 白刀ですかさず一閃し、木塚の力を奪う。そうすれば、一瞬にして勝利を掴むことが出来る。


 剣崎は屋上から飛び降り、着地するなり木塚が居る教室へと駆ける。一つ開いた窓へ。突き破っては他の生徒が硝子の破片に怪我してしまう可能性がある。


 白刀を抜き、彼に狙いを定め、飛び込む。

 常日頃、超人的な感覚を研ぎ澄ませている訳ではないようで、距離が数メートルとなった時にこちらの存在に気付き、目を見開かせていた。


 だが、彼にとってその一瞬の感知で反応出来てしまった。


 間一髪のところで貫かれようとしていた白刀の刀身が彼の体を掠める。


「まだ!」


 空いた手で木塚の顔面を掴み、そのまま教室の外へと引きずり出す。以前、彼が他の被害者にさせたように。今度は彼にお見舞いしてやる。


「てめ――」


 木塚は剣崎の手を振り払い、地面を滑るようにして着地すると、舌打ちする。力任せに掴んだことにより、頬骨辺りに痣ができていたが、それも一瞬にして消え、元の顔に戻ってしまう。


 後方で遅れて聞こえる悲鳴を気にしながら、剣崎は白刀を構えた。それに対し、木塚は馬鹿にするように笑う。


「なるほどな。正攻法じゃ勝てねえから不意打ち狙ったってことか。優等生にしちゃ、狡い真似するじゃねえか」

「けど、肝心のあの刀はここにない以上、有利なのは私です」

「それもそうだな。普通に考えればそうだな」


 けどな、と彼は続ける。


「駒が多いってことは、手間も省く事にも繋がるんだ」


 すると、剣崎と木塚の間に一つの小さな影が現れ、それが徐々に大きくなっていく。


「まさか……」


 ふと視線を上げ、その何者かを見る。

 砂埃を巻き上げる人物。

「矢倉先生……」


 先程居なかった保険教員がいつのまに木塚の手に落ちていたのか。初めて学校襲われた時も、つい最近までも普段と変わっていなかった。


 ほんの数日前にやったとでもいうのか。気付かれないように。


 矢倉は小刻みに瞳を揺らせ、木塚を振り返る。それに、木塚が顎でこちらを差した後、その場から飛び去っていく。


「まてっ!」


 時間稼ぎをさせて刀を取りに行くのだろうが、そうはさせない。少しでもこちらが優勢となる状況を作り出さねば、この先が危うい。


 剣崎は地面を蹴り、矢倉を無視して木塚へと飛びかかる。しかし、主となる彼を護るかのように間に飛び込んできた。


 理性の皆無である相手に、恐れというものはない。ただ、指示された事を確実に、暴力的に実行するのみだ。


「どいてくださいっ!!」


 白刀を矢倉目掛けて振るおうとするが、初動の肘を押さえ込まれ、一閃する事が出来なかった。理性がなくても、その一閃で勝敗が決まるのは認識出来ているようだ。


「タイムアタックだな。最速で追いついてこいよ?」


 木塚は顔を撫で、黒い靄に覆わせるなり笑う。


「今すぐ――本当に……っ」


 あっという間に木塚の姿が見えなくなり、剣崎は舌打ちをし、矢倉に向き直る。彼女は主人が安全圏に達した事を喜ぶように、不気味に笑みを浮かべた。


 操られているとはいえ、挑発的な笑みはやはり腹が立つ。ましてや、他の人が危険にさらされるのを意味しているのだ。


 とにかく、今の体勢を整えなければ時間を食うばかり。そう思い、すかさず矢倉の鳩尾に膝蹴りを放つ。こちらを凝視していた事もあり、剣崎の膝蹴りに反応が出来ず、直撃する。甲高い悲鳴が耳元に響いたが、そんな事に構っていられる余裕はない。とにかく、一刻も早く木塚に追いつかなければならない。


 剣崎は反撃の余地を与えないよう、連撃を繰り返した。その間も掴んできた腕を放そうとせず、狂気的な笑みを浮かべ続けていた。


「これで……終わりだっ!」


 息を吸い込み、止めるなり矢倉の額に頭突きを放つ。額に広がる衝撃に意識が飛びそうになったが、何とか堪える。一方で矢倉の方は視線が上ずり、体が傾いていく。それにより、掴んでいた力も緩まる。


 彼女の手が完全に離れたため、一歩距離を取る。そして、白刀で矢倉の体を一閃。


 閉じかけていた矢倉の目が一閃された事で、黄金色の瞳からいつもの黒い瞳へと戻っていくのが確認出来、抱き留める。


 矢倉をゆっくり寝かせ、周囲に意識を向ける。生徒や教師のざわめきが大きくなってきている上、遠くから警察車両のサイレンが聞こえてくる。どうやら、誰かが通報したのだろう。


 既に木塚の気配はここにはない。何処かへ場所を移したのか。あるいは黒刀を取りに向かったか。どちらにしろ、ここからは苦戦を強いられるのは確かだ。


「剣士さん!」


 玄関の方向から聞き慣れた声が聞こえ、振り返ると緑原がこちらに駆け寄ってきているのが見えた。


「また、来てくれたんですね」

「……まぁな。友人はどうした?」

「剣士さんが助けてくれた子は入院してて、背の高い子は早退しましたから無事です」

「そうか、それは良かった。だが、また騒ぎを起こしてすまない」

「いえ、剣士さんが居なかったら今度こそ危なかったって事ですから、構いません」

「そう言ってくれるとありがたい。もう、こんな事は起こさせない。今回で全て終わらせる」


 剣崎は緑原の頭を撫で、マスクの中で微笑む。


 その時、近くまで迫ってきていた警察車両の無線からある情報が流れてきた。


『至急、応援求む! 黄色の目をした集団が破壊行動起こしている! 場所は――』


 やはりそうきたか。


 混乱を起こすなら、人が多い所で行う方が効率がいい。それに、その中で人を斬っても誰も気付かない筈だ。単純な考え方だが、一番効率的なやり方でもある。


「剣士さん?」


 険しい顔をしていたのに気づいたのか、緑原が不安げにこちらを見上げてくる。


「何かあったんですか?」

「……あぁ、少しな」

「気をつけてくださいね……。親友がされた事、他の人にもあったら……」

「大丈夫。もう、そんな事はさせないっ」


 親友が親友を傷つける光景など二度と見たくない。それは他の人でもそうだ。親しい人や家族同士が襲う光景なんて見たくないし、あいたくないだろう。実際にそんな経験をしている人もいる。今も被害者の帰りを待っている人もいる。


 最初から自分だけの問題ではなく、街全ての問題だ。それが重荷になるとも思っていない。これが、自分が出来る事。


 一人でも多く、早く待っている人のところへ帰してあげる。先延ばしなんてしてはならない。


「必ず奴を倒す。約束だ」

「はい、お願いします」


 緑原に頷きかけると、街の方へ跳んだ。


 街に近づくにつれて人の悲鳴が大きくなっていく。それに加え、被害者となっていた人達が暴れ回っているのも感じた。どうやら、彼は今日で終幕を迎えさせようしている。街中の人達を手中に収めてしまえば、取り返しがつかない。いくら力で勝てたとしても、多勢に無勢となり、敗北の一途を辿ることなる。


常人の力では、到底敵わない。

だからこそ、そうなる前に倒しきる。

剣崎は僅かに震える手を、止めるように握りしめ、速度を上げた。

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