脅威(2)
緑原は外に連れ出された親友を助ける事が出来ず、己の無力さを嘆き、床に蹲っていた。
突然の出来事に剣崎ごと壁を突き破られても数秒間の沈黙が流れた。そして、遅れて上げられた女生徒の悲鳴を皮切りに殆どの生徒が悲鳴と共に教室を飛び出していく。そんな生徒たちを数学教師が落ち着くように促すが、誰も聞く耳も持たなかった。その状況に彼自身も焦りが募っていったのか、先導する為に外へと出て行った。
「葵……そんな……」
「葉菜っ!!」
日向がこちらに駆け寄り、肩を揺らしてくる。
「あたし達も逃げよっ!!」
「でも、葵が……」
「そうだけど……信じるしかないないじゃんっ! ここに居たらあたし達も危ないって!!」
自分達しか居なくなった教室で、緑原は数回深呼吸した後、足に力を入れる。だが、自分の意思とは裏腹に足が小刻みに震えて思うように動かない。
「ごめん……動けない……」
「肩貸すから。ほらっ」
日向は膝を折り、自分の腕を肩を回してくれた。力強い支えにより、漸く立ち上がる事が出来、震える足で一歩一歩と廊下へと向かう。
「皆、容赦ないなぁ……」
「……仕方ないわ。いきなりこんな事になったら……」
「行くならもう、学校の外がいいよね?」
「そうね……」
剣崎の安否を確認したいが、今は自分達の安全の確保だ。彼女が無事だったとしても、自分達が大怪我を負ったり、命を落としたりしては何の意味も成さない。三人が無事である事が、不幸中の幸いとして成立するのだ。
教室から廊下に出るまでたったの数秒。だが、足が外に出るのを拒んでいるように引き摺る程度でしか進む事が出来ず、焦りばかりが募っていく。
「もう少し……っ」
「隠れるとこ見つけて警察に――」
ドアに手が届く距離まで来たところで、日向の言葉が途切れた。それだけではなく、そこから動く事すら止めてしまった。誰かが来たのかと思い、廊下に視線を向けるも、遠くから悲鳴などが聞こえてくるだけで誰も居ない。
「貴美子?」
緑原は日向の方に目を向ける。
その瞬間、日向が咳き込んだのと同時に、顔に何か温かいものがかかった。それは怪我をした時に嗅ぐ、鼻につく嫌な液体ようだった。恐る恐る顔に付いた液体に触れ、目の前に持ってくると、その手は赤く染まっていた。
「え……?」
「は……な……っ」
もう一度、日向の方に目を向けた時、漸く気付いた。
日向の背後に、男が居る。
顔全体が黒い靄のようなものに覆われており、そこから黄色の瞳が笑うか如く細められていた。そして、男が彼女の背中に触れるように腕を伸ばしていた。違う。突き立てていた。
禍々しく黒い日本刀。
緑原の名を呼ぶ日向の口から赤黒い血が漏れ、制服を染めていく。そんな彼女は、顔を歪めさせながら、緑原を突き飛ばした。
前のめりに倒れた緑原は、すぐに振り返り、親友の名前を叫ぶ。
「貴美子っ!!」
名前を呼ばれても反応しない日向の顔がゆっくり俯いていく。それが、彼女の命の灯が消えていくのを実感し、心臓が握り潰されるような感覚に襲われた。
「ダメ……ダメ、貴美子っ!!」
「ククッ」
男は突き刺していた日本刀を引き抜くと、日向の体を退かす。乱暴に押された事で、彼女の体が固い床に叩きつけられる。彼女を中心に広がる血の海が絶望として、緑原に襲い掛かる。
「そんな……嫌よ……貴美子……貴美子ぉ……っ」
涙を流し、彼女の名を呼ぶ中、男は日向の頭を撫でて笑う。そして、こちらを見下ろすと肩を竦ませた後、意気揚々と去っていく。
見逃された、と思うのが当然だが、彼の反応からして完全に楽しんでの行動だ。親友の亡骸を傍に、どのような行動するのかを楽しもうとしているのが分かった。
「ひ、人殺しっ!! お前なんか……お前なんか死んじゃえっ!!」
殺意の叫びに、男は振り返る事なく、こちらに中指を立てるだけだった。
命の危機を脱しても、動きたいと思えない。親友から離れたくない。
剣崎の無事を信じたかったが、それも出来ない。最悪の結末ばかりが脳裏を過ってしまい、もう何もかも嫌になった。親友二人を失い、どうして自分だけが生きているのか。こうなるのだったら、楽にしてほしかった。
「貴美子……葵……」
すると、視界の端で日向の体が動いた気がした。勘違いかと思い、しっかりと彼女の体に目を向けると、彼女の指が小さく動いたのが確認出来た。
「貴美子……?」
「あ……あぁ……」
「良かった……生きて――」
そこで、彼女の体が大きく跳ねた。その反動で何処かの骨が折れたような音が聞こえ、緑原は体を震わせる。
生きている、のは分かった。だが、常軌を逸した今の動きが、本当に彼女自身が行った動きなのだろうか。
日向の顔が少しずつこちらに向けてくる。その血塗られた顔が見えた時、背筋が凍った。
黄色の瞳。
普段の黒い瞳ではなく、先程の男と同じ瞳をしており、血走っていた。
「き、貴美子……」
男は見逃したのではない。この状態になった日向が起こす事を楽しむ為、実験台として放置したのだ。
四つん這いとなった日向は緑原の姿を捉えると、不気味に笑い、少しずつ少しずつと近寄ってくる。口から漏れる血が糸を引き、床に恐怖として染めていく。
「もう……嫌……」
どうあがいても、自分はここで終わりだ。足も動かない。動いたとしても、剣崎を襲った類の存在なら、あっという間に追いつかれてしまう。生きる道が完全に途絶えた。
どうせ殺されるなら、知っている人に殺されたい。
日向の体が僅かに沈む。おそらく、襲い掛かる前段階だろう。
緑原は目を閉じ、次の瞬間に訪れる己の死を受け入れる。
そして、柔らかいものが潰れる音がした。だがそれは、自分の体から鳴った音ではなく、数センチ前方からだった。日向ではない女性の呻き声が聞こえ、死ぬ前の幻聴なのかと思った。
ゆっくり目を開け、何が起きたのか確認する。
「……え?」
目の前には痛々しく歪んだ腕が日向の大きく開かれた手を受け止めていた。身が裂け、そこから血が零れる。
腕から徐々に視線を上げていくと、口元を革製のマスクで覆い、黒いジャケットを羽織った女性が痛みに顔を歪ませていた。その姿を以前、日向から見せてもらった映像で見た事があった。
女剣士。
女剣士は空いた手で日向の胸元に掌底を叩き込む。それ受け、日向の体が大きく宙を舞い、何度も床を打ち、転がっていく。
「う……っ。大丈夫か?」
折れた腕を確認した後、こちらに目を向けてくる。緑原は息を呑みつつ頷く。
「それは良かった。すぐ終わらせるから待っていろ」
そう言い、立ち上がると日向へと向き直る。日向は唸り声を上げながら、女剣士を見据え、身構える。
女剣士は腰に差していた白い日本刀を抜き、静かに構える。刀身がとても美しく、見惚れてしまう。だが、次の瞬間には日向の血によって染められてしまう事を考えてしまい、何度目かの悪寒が走る。
「ま、待って!! あの子は友達なの! 殺さないでっ!!」
「大丈夫だ」
彼女は告げると同時に日向へと駆け出し、男同様、その胸に刀で貫いた。
日向は糸の切れた人形のように崩れ落ち、女剣士に寄り掛かる形となる。それを女剣士が抱き留め、衝撃を与えないために優しく寝かせてくれた。
緑原は体を這いずらせ、横たわる日向へと近づく。ぐったりとした彼女を覗き込むと、青ざめてはいるものの、胸の上下を見る限り生きているのが分かる。
「はぁ……よかったぁ……」
いつの間にか強張っていた体の緊張が解け、脱力するのを感じた。貫かれたであろう胸に手を当て、なぞるが、それらしき穴に触れる事はなかった。
疑問点は残るが、親友が生きているだけでも御の字だ。
「ここから出るぞ。動けるか?」
「えっと……難しいで、す……」
「……そのようだな」
這いずる姿を思い出し、少し困った表情を浮かべた後、自分の背中を指差す。
「掴まれ」
「え、あ……はい……」
嫌な予感を抱きつつ、女剣士の背中に捕まる。彼女はそれを確認した後、日向を抱きかかえる。
「しっかり捕まっていろ」
告げ、窓から飛び出した。
「きゃあっ!!」
慣れない浮遊感に恐怖を抱きながら、掴む力を強めた。
女剣士は一切の迷いもなく、体育館の方へと跳び、入口前でおろおろしている女性教諭の目に降り立った。突然、上空から生徒を抱えた女性が現れた事に形容しがたい悲鳴を上げる。
「先生っ」
「み、緑原さん!? 日向さん……すごい血……っ!!」
「大丈夫ですっ。怪我はありませんから!」
「え、でも――」
状況を把握しきれていないため、会話が成立しない。それが痺れを切らしたのか、女剣士が緑原を降ろし、女性教諭へと向き直る。
「校内にはおそらく誰も居ない。お前達はなるべく早くここから離れてほしい」
何とか立つ事が出来ていた緑原は覚束ない足取りで支えとして女剣士の腕を掴む。それを一瞥するだけで振り払うような事はせず、頻りに周囲を気にする。
「あと、私が連れてきていた人達も一緒に頼む」
「あ、あの人達ですか……? また襲ってくるんじゃ……」
「心配しなくていい。それは解決している」
「ですけど……」
納得出来ていない様子でしどろもどろとしている女性教諭。普通に考えればその心配をしても仕方がない。だが、女剣士が日向に対して行った事をしているのなら、彼女の言っている事は事実だろう。
女剣士はどう説明しようかと顎に手を当て、呻る。学校の生徒、教師を護って戦っても簡単に信じてくれない。それが人間なのだろうと感じた。
「先生。この人を信じてください。日向も助けてくれたんです」
「緑原さん……わ、わかりました。信じます……」
女性教諭は頷くと彼女に背を向ける。おそらく、日向を背負うという事だろう。それに応え、女剣士が日向を彼女の背中に丁寧に移動させる。
手が空いた女剣士は白い刀を抜き、緑原を見下ろす。
「ありがとう。感謝する。お前も行くんだ」
「は、はい……」
「校内からなるべく人を減らしてほしい。相手の戦力を増やされると困る」
あの男性の禍々しい刀によって、日向のように変貌してしまう生徒が出てきてしまうと、女剣士への負担が尋常ではないからだろう。少しでも、彼女が動ける環境を整える必要がある。
「わ、分かりました……」
「あの体育教師も、腕の骨が折れているから、応急処置もしっかりしておいてくれ。では、私は失礼する」
女剣士は緑原に離れるように促し、背を向ける。
だが、緑原には最後にどうしても知っておきたい事があった。
「すみません……もう一人、襲われた女の子知りませんか? 男の人に外に連れていかれて……」
他の生徒が無事なのなら、剣崎も無事であってほしい。これで、彼女だけが犠牲になってしまっていたら、ここまでの安堵が水泡に帰してしまう。
「背の高い女生徒か? 彼女なら大丈夫だ。怪我はしているが、大した事はない」
「そ、そうですか……良かった……」
「独断で申し訳ないが、先に彼女は外に逃がしてしまった。後で連絡でも取ってやれ」
「はいっ」
これで親友二人の無事が確定し、体から力が抜けそうになった。だが、ここでまたへたりこんでしまえば、女剣士に迷惑をかけてしまうので、どうにか踏み止まる。
すると、女性教諭がある事を告げる。
「あ、あの……木塚という男性の教師が居なくて……彼もお願いします……」
「……分かった」
女剣士は少し考え、飛び去ってしまった。
その後ろ姿を見送った後、緑原は女性教諭を振り返る。
「木塚先生も居なくなったんですか?」
「えぇ……。生徒達を避難させている時、いつの間にかいなくなっていたのよ……。もしかしたら、彼も襲われたのかもしれないわ……」
心配そうに校舎の方へ目を向けた後、頭を振り、優先すべき事を復唱する。
「とにかく、ここから避難よね……。緑原さんも一度、体育館に来て。それから学校を出ましょう。警察や病院にも連絡しないと」
「はい、わかりました」
緑原は体育館へと駆けていく女性教諭を見送った後、校舎を振り返る。
彼女のおかげで大惨事に見舞われる事はなく済んだ。もし、彼女が居なければ、自分を含めてあの男性によって手中に収められていただろう。そう考えるだけでもゾッとしてしまう。
彼女は大丈夫なのだろうか。あの得体の知れない男と戦うなら、彼女の言った通りここから早く離れた方がいい。何の力を持たない自分達は、彼女にとってただの足手まといでしかないのだ。
無事に倒してほしい。
そう願い、体育館へと駆けだした。
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