第二節

「よし……これだな」

 上原さんからもらった名刺。

 それに書かれた番号を携帯に打ち込んだ。


〈九月 三十日 十時 十八分〉


 液晶画面の上部に表示された日時を確認すると、発信した。

……上原さんなら……きっと……。

 今から数時間前。

 あのマンションで見た。

 あの異様な光景。

 どれくらいの時間だったのか……。

 おそらく、三十分近くは続いていたと思う。

 十四階の住人と思われる、あの男の行動。

 おそらく、1402号室の住人なのではないだろうか。

 あのマンションでの一連の出来事。

 何がどうなっているのか……。

 俺には分からない。

 だけど……。

……上原さんは……知っているはず……。

 受話口から呼び出し音を聞きながら、深呼吸をすると、携帯を持つ手に力を籠めた。

「はい、上原です」

 十回程のコール音で、相手が出た。

「あ、あの、加藤といいます。この前、取材を受けた」

「ん? ああ、加藤くん。どうしたんだい?」

 上原さんは特徴的なしゃがれ声で、そう言った。

「あの……上原さん。ちょっと聞いてもいいですか? あのマンション。SICマンションについてなんですけど……」

「……そうか……うん……何かあったのかな?」

 俺の言葉に、上原さんは少しの沈黙の後、質問で返してきた。

……やっぱり……上原さんは……何か、知っている……。

 俺は頭を掻くと、軽く息を吸い込んだ。

「はい。あの……今日の新聞配達の時、1402号室に住んでいる人を見ました」

「なるほど。間違いないかな?」

「たぶん。十四階の住人である事は間違いないと思います」

「そうかぁ。顔は? 見たかな?」

「いえ、顔は見てないです。だけど、男で間違いないと思います。何か、頻りに呟いていました。同じ事を……」

「うん、うん、なるほど。何を呟いていたのかな?」

「えーと……おまえが、わるい。なかなか、おちない。そんな事を、ずっと呟いてました。床をブラシか何かで擦りながら」

「ん? 床を擦っていた? 加藤くん。その場所は、十三階のエレベーターホールじゃないかい?」

「え? は、はい。そうです」

 前の取材の時の事が思い出された。

 状況が電話口でのやり取りであるだけで、また取材されている様な感じになる。

「そうか。うん。加藤くんには話しておいた方がいいかな。うん……加藤くん。これから話すことは、オフレコで頼むよ。君にとって、必要な情報だと思うから話すけど、絶対に外部に漏らさないでくれ……いいかい?」

「は、はい」

 上原さんのしゃがれ声に緊張感が加わり、思わず息を飲んだ。

「よし。おそらく、君が見た男はタカハタトオルで間違いないと思う」

「タカハタ、トオル?」

 上原さんの言葉に何か、引っかかるモノが……。

 この名前は……。

「うん。現1402号室の住人であり、三年前の1402号室の住人でもある」

「え? どういうことですか?」

 言っている事の意味が分からず、戸惑い、質問で返してしまった。

「ああ。三年前に起きた、空き巣事件。その現場が1402号室であり、その被害者がタカハタトオルなんだよ。そして、タカハタは空き巣事件の後、部屋を引き払った。二ヶ月ぐらい前まで、その部屋は空室だったんだよ。タカハタが再び入居するまで……ずっと」

「そうだったんですか。でも、なぜ?」

「そうだね。不可解に思えるよね? 傍からすれば、昔の住まいに戻ってきた。そんなふうにも見える。しかし、加藤くん……君はどう思う?」

 俺には理解出来なかった。

 タカハタのとっている行動が……。

 ただ、昔の住居を取り戻した。

 確かに、そんな風には思えないような気もする。

 エレベーターホールでの異様な光景。

 あの意味は……。

「加藤くん。ここからは、私の推測になる。しかし、君の話を聞く限り、私の中で確信となってきている。いいかい? 加藤くんにとって、この私の推測が何かの助けになるかもしれない。だから話そう」

「はい」

 俺が返答すると、長めの沈黙が続き、そして……。

「……では。タカハタには妻がいたんだが、三年前の空き巣事件の後、タカハタが部屋を引き払うまでの間、そのタカハタの妻を見かけることがなくなった。誰一人としてね……そのことで、当時、いろんな噂が飛び交ったそうだよ。それについては省くけど、私が思うに、タカハタの妻は殺されたのではないかと考えている」

「殺された?」

「そう……タカハタトオルに」

「な、なんで?」

「さあ。なぜだろうか。そこの真相を私も知りたいんだよ。そして……うん。加藤くん。タカハタの妻は、未だ、行方不明なんだよ。もちろん、遺体も見つかっていない。私の推測が正しいとするならば、タカハタの現在の行動から判断するならば、おそらく……妻の死体は……」

「まさか……あ、あのマンションに?」

「うん、察しがいいね。私はそう思うよ」

 頭の中がグチャグチャになった。

……何が……どうして……妻は……なんで……死体は……。

 突然、非現実な出来事に遭遇し、不可解な現状に巻き込まれている。

……なんなんだよ……何で……俺が……。

 いつものように新聞配達をしていただけ……。

 変わらない日々を過ごしていただけ……。

 それなのに……。

「加藤くん? いいかい? タカハタには、1402号室の住人には、気を付けた方がいい。私は、そう思う」

「……わかりました」

「それじゃあ、また何かあったら気軽に連絡してくれていいよ」

「はい。ありがとうございます」

 俺はそう答えると、通話を切り、携帯をテーブルの上に置いて溜息を吐いた。

……何が、どう……なんなんだ……くそ……。

 上原さんの推測。

 俺が体験した、あのマンションでの出来事。

 過去に起きた事件。

 頭の中で、それらの情報がぐるぐると駆け巡る。

……何なんだ……関係が……全て……分からない。

 あのマンションでの出来事。

 その一連の出来事に関連性が見出せない。

 上原さんは、何を導き出したのだろうか。

 いや、違う……。

 タカハタに関しての推測だった。

……タカハタ……。

 顔の分からない男の後ろ姿が、脳裏に過る。

……あいつが……タカハタが……もしかしたら……元凶なのか?

 そう考えたとして、何が……。

 上原さんの推測が正しいのならば、タカハタは……。

 人を殺した。

……だとしたら……タカハタは……償うべき……。

 それじゃあ、俺は……。

 俺に何が出来る?

 何かをする必要があるのか?

 そもそも、あのマンションの出来事……。

……駄目だ……わけが分からない……少し……整理してみよう。

 俺は頭を掻くと、テーブルに頬杖を突いて、目を閉じた。

……まずは……。

 タナカシノミの死体を発見した。

 それが、七月の事。

 タチバナユウヤをエレベーター内で発見した。

 それが、八月の事。

……あれ? そういえば……。

 ふと、頭に閃くモノがあった。

 七月の出来事。

 八月の出来事。

 いずれも、満月の日だった気がする。

……偶然か? じゃあ、九月は?

 思い返してみると、九月には何も起きていない。

 いや、満月の日は、新聞配達をしていなかったのでは?

 後で調べてみれば分かることだが……。

 もしかしたら、九月の満月の日は、日曜日だった気がする。

 だとしたら、新聞配達はしていない。

……九月にも……あのマンションで……何かが起きていたのかもしれない。

 過ぎた事だから、分からない……。

 だけど……。

 突拍子もない発想だが……。

 満月の日に、あのマンションで何かが起きるとしたら……。

「十月の満月の日にも、何かが起きる?」

 俺は目を見開き、そう呟いた。

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