第三章

第一節

「ん?」

 いつものように、新聞を配りながらマンションの階段を下り、十三階と十二階の間にある踊り場に差し掛かった時。


ガチャっ!


 上の方からドアが開くような音がして、思わず歩みを止めた。

……こんな早朝から、外出か?

 今日はいつもの配達ルートを変更して、この忌まわしいマンションを最後として回っていた。

……最後の最後で……何も起きないでくれよ……。

 心の中でそう願いながら、息を潜め、耳を澄ませる。

「お…………が……わる……だ………ま……………る……だ……おま……が……わ………だぞ……」

 男の声だろう。

 何やら、呟く声が聞こえる。

 何か、同じ事を繰り返し呟いているような……。

「おまえ……わる…………だぞ……」


パチンっ!


 男の呟く声と同時に、乾いた音が鳴ったと思うと。

 突然、目の前が真っ暗になった。

「っ?!」

 間違いなく、踊り場の電気を消されたのだろうけど。

 いきなりの事に、心臓が大きく弾んだ。

……何なんだよ……くそ……。

 心の中で悪態を吐き、視線を上に向けると。

 

カツーン、カツーン、カツーン、カツーン。


「おまえが……る…………だぞ……お…………が……わ…………」

 底の堅い靴で歩くような音が、上の方から響き渡る。

 どうやら、男が呟きながら歩き始めたみたいだ。

 しかし……。


カツーン、カツーン、カツーン、カツーン……カツーン…………カツーン。


「おまえがわ………………だぞ……おま……が…………」

 徐々に大きくなる。

 男の呟く声。

 そして、靴の音と、その聞こえてくる間隔から判断するに……。

 どうやら、男は階段を下りてきているようだ。

 真っ暗になった階段を……。

……嘘だろ? 何でだ? 何で、わざわざ……。

 灯っていた踊り場の明かりを消したことで、真っ暗になった階段。

 この状態で階段を使用することは、明らかに危険な行為。

……誰だ……頭おかしいだろ……。

 男の理解しがたい行動に、不安感が芽生える。

 同時に、抑え込んでいた恐怖心が、沸々と沸き上がり始めた。

……くそ……最後だってのに……。

 九月三十日。

 今日が新聞配達の最終日だった。

 上原さんに会った日。

 俺は新聞配達を辞めると決めた。

 しかし、急に辞める事は出来ないのが苦学生の辛い所。

 だから、今月一杯は、何とか働くことにした。

 そして……。

 何事もなく、最終日を終えるために……。

 割と外が明るくなってくる最後に……。

 このマンションを最後に回るという、悪あがきとも言えるルート変更をしたのだった。


カツーン…………カツーン…………カツーン…………カツーン。


「おまえがわる……だ…………おまえが……」

 男の呟く声が……。

 何を言っているのか、聞き取れるようになってきた。

 動くことも出来ず、ただ、息を潜めて、男の動向を窺った。


カツーン…………カツーン…………カツーン…………カツーン……カツーン。


「おまえがわるい……だぞ……おまえがわるいんだぞ……おまえがわるいんだぞ」

 男の呟く声がはっきりと聞き取れたと同時に、靴の音が止んだ。

……もしかして……気付かれたか?

 息を飲み、ボンヤリとオレンジ色に照らされたエレベーターホールに視線を移す。

 この位置からだと、エレベーターのドア半分が見える。

「なかなか……」

 男の声が聞こえる。

 十三階まで下りてきたみたいだ。

 靴の音。

 その回数から判断するに、男は十四階の住人だろう。

……1402号室?

 ふと、上原さんの言葉が、脳裏に過った。

……誰なんだ?

 こんな状況なのに、ちょっとした好奇心が芽生えた。

 もしかしたら、男はこっちに来るかもしれない。

 どうしたら……。

……逃げればいい……。

 すぐに、思い付いた対処法。

 安直だが、確かな方法だった。

 

カツーン、カツーン…………カツーン。


「なかなか……お……ない…………」

 視線の先に、男の後ろ姿を捉えた。

「なかなか……おちな…………」

 男はエレベーターホールの中央に佇み、呟いている。

「おまえがわるいんだ……おまえが……」

 男は屈みこむと、そのまま床に両手をついた。

……何を? 何をしてるんだ?

 俺は微塵も動くことなく、ただ、男の行動を見守った。

 幸いというか、踊り場の明かりが消えた事で、男の方から俺を捉える事は出来ないはず。


ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ。


 男が床に付いた手の片方を動かし始めると、辺りに何かを擦るような音が響き渡った。

……床を……床を擦っているのか?

 傍から見たら、ただ、床を掃除しているだけ。

 しかし、状況が異様過ぎる。

 太陽が昇り切らない早朝。

 ブツブツと呟きながら、エレベーターホールの床を擦る男。

 しかも、曰くつきと言ってもいい、十三階。

「なかなか……おちないなぁ……おちない……おまえがわるいんだぞ……なかなかなぁ……おちないなぁ……おまえが……おまえが……わるいんだ……わるいんだぞぉ……おまえがわるいんだぞぉ……おちないなぁ……おちないなぁ……」


ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ、ガシュ。


 同じ事を呟き、床を擦り続ける男。


……なんなんだ…………なんなんだよ…………。

 目の前で繰り広げられている異様な光景。

 俺は……。

 動くことも出来ずに……。

 ただ……。

 息を潜め、その光景を眺めていることしかできなかった。

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