第二節
「それでですが、録音、してもいいですかね?」
上原さんは鞄から取り出したモノをテーブルに置き、俺を見据えた。
レコーダーだろうか。
取材内容を録音するのだろう。
「はい、いいですよ」
俺はテーブルに置かれた小さなレコーダーを一瞥すると、正座をしながら、上原さんに視線を移した。
「いやいや、そんな畏まらなくてもいいですよ! 自分の家なんですから、気楽にいきましょう! 取材と言っても、私の質問に答えてくれればいいですから、事実確認みたいなモノです」
上原さんは笑顔でそう言うと、鞄からペンとメモ帳を取り出し、腰を下ろして、胡坐をかいた。
「は、はい、そうですね」
俺は頭を掻きながらそう答えると、上原さんに倣って、正座を崩した。
「それでは、早速……」
上原さんはそう言って、左腕に巻いた時計を一瞥すると、レコーダーのスイッチを入れて、メモ帳を開き、ペンを構えた。
「平成二十一年、九月、二日……午後一時、四十三分……加藤憲太氏の自宅……さて、質問いいですか?」
「えっ? あ、はい、どうぞ」
どうにも、対応に戸惑いを覚える。
そもそも、取材を受けるのは初めてのこと。
「まずは、SICマンション、タイプWBについてなんですが……加藤くん。君が新聞配達で回っているのは、三号棟で間違いないかな?」
「あ……そう、です」
「では、二ヶ月前に起きた事件。十三階のエレベーターホールでの件についてですが、聞いてもいいかな?」
上原さんの言葉を受け、脳裏にアノ顔が浮かび上がる。
しかし、やはりというか、不快な感じはあまりしなかった。
「いいですよ」
俺の言葉に、上原さんは微笑んで、メモ帳にペンを走らせた。
「ありがとう、では……今から約二ヶ月前、正確な日付は七月七日の夜、七月八日の早朝と言った方がいいかな。その日に君は、死体を発見しましたね? 十三階のエレベーターホールで、タナカシノミさんの死体を、発見しましたね?」
「たなか、しのみ?」
不意に。
〈あの顔〉が……。
脳裏に、鮮明に甦る。
そういえば、名前は知らなかった。
〈あの顔〉で……。
エレベーターホールに倒れていた女性。
「そう、タナカシノミさん。その様子だと、名前は知らなかったのかな?」
「え、ええ……は、あ……」
軽い動揺を覚え、返答に詰まった。
……なんなんだよ……収まったんじゃないのか……。
以前のように……。
不快感がジワジワと心に染み渡り出し、鼓動が速くなってきた。
名前を知ったからだろう。
〈アノ顏〉に対する、自分の認識が……。
曖昧なモノではなく……。
より、確かなモノに……。
「加藤くん? 大丈夫かい?」
「あ……はい。だ、大丈夫です」
心配そうな表情を浮かべた上原さんの言葉に、胸を押さえながらそう答えると、不快感を払うように軽く深呼吸をした。
「そうかい。じゃあ、質問を続けてもいいかな?」
「は、はい。どうぞ」
俺はそう答えると、頭を掻いて背筋を伸ばした。
「うん。加藤くんは、タナカさんの死体を発見したんだよね? その時、タナカさんは俯せに……そして、エレベーターのドアに片手を押し当てた状態で倒れていた。間違いないかな?」
「はい。間違いないです」
「じゃあ、憶えてたらでいいんだけど、エレベーターのドアに押し当てられていた手は、右手かな? それとも、左手だったかな?」
「ああ、右手、ですね。憶えてます」
忘れることはない。
はっきりと憶えていた。
〈あの顔〉と共に……。
「なるほど。じゃあ、次の質問いいかな? えーと……」
上原さんはペンを止めると、メモ帳のページをパラパラと捲った。
……なんだか……事情聴取みたいだな。
ふと、2ヶ月前の警察での事情聴取が思い浮かぶ。
しかし、今回は取材であり、その時とは状況や対応が明らかに違う。
警察のような事細かな質問や確認はない。
気遣いもある。
……事情聴取に……取材……なんなんだ……今年は……。
テーブルに置かれたレコーダーを眺めながら、内心で苦笑し、頭を掻いた。
「あったあった。さて、加藤くん。1ヶ月前の事なんだけど、同じマンションの同じ棟で倒れていた男性。名前は知っているかな? タチバナユウヤっていう人なんだけど、その人を発見したんだよね?」
「あ、はい。名前は知らなかったですけど、その人をエレベーターの中で倒れているのを発見して、救急車を呼びました」
上原さんの質問に、俺がした行動を付け加えて、答えると、上原さんは微笑を浮かべ、頷いた。
「なるほど。その日は、八月六日で間違いないかな?」
「はい、間違いないですね」
いつの間にか消えている不快感を他所に、気持ちが昂ってきていた。
人の命を救った事。
上原さんの言葉を受け、その事に対する充足感のようなモノが胸を支配し始めていた。
……そういえば……。
そのタチバナさんは、どうなったんだろうか。
入院しているのだろうか。
元気になったのだろうか。
自分があのような形で関わった人物。
その人の現状が当たり前のように、気になる。
「あの……そのタチバナさんは今、どうしてるんですか?」
「ん? ああ、タチバナさんねぇ。ん~と……」
俺の言葉に上原さんは俯いてそう呟きながら、メモ帳をパラパラと捲り始めた。
「あ、そうだ。加藤くん。知ってるかな? 過去に、そのSICマンション、タイプWBで起きた事件なんだけど……」
「過去に起きた事件ですか?」
上原さんの言葉に、どこかはぐらかされたような、もどかしい気持を抱きながら、質問で返した。
「そう。三年前に起きた、空き巣事件」
「空き巣ですか?」
「そうそう、空き巣。現場は同じ三号棟。え~と……平成十八年の、十二月六日に起きた事件だね……あっ! あと、その三号棟の1402号室。その、今の住人は知ってるかい? 三週間ぐらい前に入居したみたいなんだけど」
「いえ。空き巣も、1402号室の住人も、知らないです。俺が新聞配達を始めたのは去年ですし、住人に関しては何も……その空き巣事件が、何か関係あるんですか?」
「いやいや。まあ、大したことじゃないよ。さてと……取材は以上かな」
上原さんはそう言いながら、メモ帳とペンを鞄に仕舞うと、レコーダーを手に取りスイッチを切った。
……一体……なんなんだろう……しかし……それにしても……。
色々と詳しい。
記者だからなのか。
単純に興味が湧いてくる。
それに、まだ……。
「あの、上原さん。どこで情報を仕入れてるんですか? 警察しか知らないような事まで知ってましたけど……」
鞄を取り、立ち上がろうとしている上原さんに、そう尋ねた。
「ああ。まぁ、こんな職業だからねぇ。色々と伝手があるんだよ。警察関係にもね」
上原さんは鞄を肩に掛けながら、そう言って微笑んだ。
……なるほど……それならば……。
俺は頭を掻きながら立ち上がると、上原さんを見据えた。
「さっきも聞いたことなんですが、警察関係に伝手があるなら知ってますよね? タチバナさんは今、どうしてるんですか?」
ついさっき、はぐらかされた質問。
胸に
そして。不安……。
それらを解消するために……。
「うん……だよな」
上原さんはそう呟きながら俯くと、鞄を掛け直して、顔を上げた。
「加藤くん。言い難い事なんだけど、タチバナさんは……搬送中の救急車の中で息を引き取ったそうだよ」
上原さんの言葉に、心臓が強く脈打ち、鼓動が速くなる。
……嘘だろ……まさか……。
何となく、頭の片隅で考えていた事。
それが当たっていた。
同時に、認めたくないという気持ちに駆られ、全身が総毛立つ。
目の前が暗く霞み、不快感が心を支配していく。
〈あの顔〉が、脳裏にはっきりと映し出され、焼付く。
エレベーターに蹲るスーツ姿の男の顔が……。
〈あの顔〉にすり替わる。
……聞かなければよかった……。
俺は頭を掻き毟りたい衝動を抑えるように、大きく溜め息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます