第五節

「――死体、か?」

 閉じられたばかりのエレベーターのドア。

 床に散らばった新聞を気にも留めることなく、それを凝視して、そう呟いた。

……いや……落ち着け……まだ決まったわけじゃない……落ち着け……。

 速くなった鼓動と呼吸を整えようと、意識的にゆっくりと深呼吸をする。

……どうする……確認……した方が……。

 当たり前のように、躊躇いが生まれる。

 一ヶ月前に、あの件があった。

 エレベーターホールに俯せに倒れた死体が……。

 そして、今日は……。

……いや……まだだ……違う……そんなはずは……。

 目を堅く閉じ、頭を掻き毟って、大きな溜息を吐く。

……そうだ……酔っ払いが、寝てるだけかも……。

 目を開けると、エレベーターの開閉ボタンに視線を移す。

……どうする……開けるか……開けた方が……。

 大きく息を吸い込むと、ゆっくりと、ボタンに手を伸ばす。

……大丈夫だ……死体なわけがない……寝てるだけ……寝てるだけだ……。

 指先がボタンに触れると、一つ息を飲んで、押した。


ゴウゥゥゥンっ!


 重い音を立てて、ドアが開き出す。

 先程、見たばかりの光景が……。

 何も、変わらずに……。

……寝てる……だけだ……。

 目の前にあるモノ。

 奥の壁に背を預けて、床に座り込み、俯いているスーツ姿の男。

 ダラリと垂れ下がった左手の傍らには、黒い鞄が置かれている。

……やっぱり……いや……まだ……まだだ……でも……。

 ピクリとも動かないその姿を前にすると、後悔が生まれてきた。

 死んでいるのか……寝ているだけなのか。

 ドアを押さえながら、スーツ姿の男を見下ろし、大きく息を吸い込む。

……生きてる……のか?

 この状況が、一ヶ月前の事を連想させる。

 嫌な想像が頭の中を駆け巡り始める。

 そして、〈あの顔〉が……。

「……よしっ!」

 首を大袈裟に振り、声を出して〈あの顔〉を頭の隅に追いやると、エレベーターの中へと踏み出した。

……まずは……まずは、確認しないと……。

 スーツの男に近寄ると、身を屈め、その顔を覗き込む。

 目を瞑り、堅く閉じられた口。

 その表情は強張り、苦しそうに見える。

 苦悶。

……いや……違う……そう見えるだけだ。

 一瞬、脳裏に過った単語を自ら否定すると、小さく溜め息を吐いた。

 〈あの顔〉を再び思い起こさせるモノは、出来るだけ排除したい。


ゴウゥゥゥンっ!


 エレベーターのドアが閉まったのを横目で確認すると、大きく息を吸い込み。

「確認だ」

 そう呟いて、男の両肩を掴み、その身体を揺さぶる。

「大丈夫ですか? 起きてください……大丈夫ですか?」

 男の体は抵抗することもなく、為すがままに揺られ、反応がまるでない。

……死んでるのか? だけど……まだ……どうしたら……そうだ!

 閃くと同時に、男の右腕を取り、その手首に人差し指と中指を添えた。

……脈があれば……。

 呼吸を小さくして、脈を取る事に意識を集中させる。

 この男が……。

 生きているのか……死んでいるのか……。

「……あ……生き、てる?」

 僅かだが、指に振動が走った。

 そのまま息を潜め、空いた手で男の鼻と口に掌を近づける。

……やっぱり……息もしてる……それに脈もある……だけど……。

 この男が生きている事が分かった。

 しかし、不安が拭えない。

 脈はあるのは間違いないのだが、その添えた指に捉えられる振動が、曖昧だった。

 脈が大きかったり、小さ過ぎたり。

 また、かなり不規則だった。

 それに、掌に当たる息も微々たるモノだった。

……何だこれ……やばいんじゃないか? どうしたら……。

 嫌な予感がする。

 確認すればするほど、焦燥感が湧き上る。

 明らかに異常。

 このままだと、この男は……。

……どうしたら……このままだと……死ぬのか?

 エレベーターという密閉空間にいる事を思い出し、不安感が急速に膨らみ出す。

……何とかしないと……とりあえず……そうだ!

 思い立ち、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

「救急車を……」

 はじめに思い付かなければならなかった事。

 いまさら思い付いた自分が腹立たしい。

「なにやってるんだ、バカだろ」

 自分に悪態を吐きながら、119と発信した。

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