第四節

「――落ち着け……落ち着け」

 天井を見上げ、深呼吸をする。

 目を閉じると、顔を下ろし、大きく息を吐く。

「……よし!」

 一つ声に出すと、目を見開いた。

……何もない……。

 当たり前だ。

 何もあるわけない。

 所詮は、過ぎた事。

 そもそも、この階じゃない。

……十三階だ……。

 これから待ち受ける出来事。

 あの件以来、忘れずに行われる通過儀礼。

 抗えない。

 止めることが出来ない……。

……上で……。

 変わらずに繰り返され、その度に、向き合わなければならない事……。

 頭から離れず、日常にまで浸食する〈あの顔〉と不快感。

……ここに来なければいい……。

 そう、いつも考える。

 しかし、答えは変わらない……。

……卒業までの……辛抱だ……。

 簡単な話だ。

 新聞配達を辞めて、他のバイトを見つければいいんだろう。

 しかし、早朝のバイトで自宅から近い職場。

 一年以上続けていることで、時給も上がっている。

 そして、一ヶ月前のあの件……。

 誰もが避けるこの区域を、変わらずに担当したおかげで、さらに、時給が上がった。

 金銭面だけで考えると、辞めるのはもったいない。

……貧乏学生……故の……。

 床を見ながら苦笑して、新聞の束を抱え直す。

……どうせ……な……。

 何となく……わかっている。

 環境を変えたとしても、何も変わらないということ……。

……心の平穏は……。

 俺の頭の中にある〈あの顔〉が……。

 離れて、消え失せない限り。

「……ありえない」

 そう呟いて、溜息を吐きながら顔を上げると、エレベーターに視線を移した。

……あれ?

 すぐに異常に気付いた。

 毎日のように使用しているエレベーター。

 その使い慣れたエレベーターの階層パネルが見慣れない状態になっていた。

……ランプが……点いてない……。

 【1】から【15】までの数字が表示されたパネル。

 本来であれば、エレベーターが停まっている階層の数字が点灯する。

 エレベーター使用後のマナーを踏まえれば、常に【1】の数字が点灯しているべきなのだが……。

 それでも、一階以外にエレベーターが停まっていることは何度もあり、そして、その階層の数字が必ず点灯していた。

 だが、今は……。

 どれを見ても、暗く、点灯している数字はなかった。

……故障? そんな、嘘だろ? マジで?

 嫌な予感を覚え、焦燥感が湧き上がる。

 その先に待ち構える疲労感を想像して、溜息混じりに後ろを振り返った。

……行きも……か?

 エレベーターと向かい合う形で設けられている階段。

 十数段からなり、上に行くほど暗くなっていくそれを見上げ、息を飲んだ。

「マジで?」

 そう声に出すと、頭を掻き毟りながら、エレベーターに向き直った。

 再び、目にした階層パネルには、やはりランプは点灯されてなかった。

……いや……もしかしたら……。

 軽く息を吸い込み、エレベーターに歩み寄る。

 このエレベーターが省エネとして、しばらく使用していない際に、中の照明を消灯させる機能を持っていることは知っている。

 しかし、だからと言って、階層パネルまで消灯させることは今までになかった。

 だが……。

……やっぱり……違うか……。

 エレベーターのドアに付いているガラス窓を覗き込むと、大きく溜息を吐いた。

 今、エレベーターは一階にはない。

 内部が空洞になっているから、分かった。

……本当に……故障なのか? 

 首を摩りながら、一歩退き、階層パネルを眺め、再び溜息を吐いた。

「一応……」

 そう呟くと、階層パネルの下に備わっている、上三角形のマークが表示された上りボタンに手を伸ばした。

……動いてくれ……。

 僅かな期待を籠めて、ボタンを押した。

「よし!」

 上三角形のマークが点灯した事に、ちょっとした喜びを覚え、思わず声を出してしまった。

……故障じゃない!

 階層パネルに目を向けると、【12】の数字が点灯し、エレベーターが動き出したのを確認できた。

……ん? あれ?

 不意に、違和感を覚えた。

……何だ?

 首を傾げながら、後ろを振り返ると、階段へと歩みを進める。

……何も……問題ない……よな?

 もどかしい気持ちを感じながら、階段手前の壁にあるスイッチを押すと、視線を上げる。

 その視線の先にある踊り場に、不規則な明滅をする白い明かりが灯った。

……まだ替えてないのかよ……。

 チカチカと点いたり消えたりを繰り返す照明に溜息が漏れ、項垂れる。

 ちょうど、あの件があった頃から、この踊り場の照明がこんな状態になった。

 蛍光灯の寿命が迫ってるのだろう。

……いいかげん……教えた方がいいか。

 軽い呆れと、先程から抱え始めたモヤついた気持ちが入り混じり、なんとも言えない不快感へと変換される。

……さてと……。

 エレベーターに向き直ると、新聞を抱え直して、深呼吸をする。

 準備は出来た。

 いつも通りの行動。

 エレベーターを動かし、階段の踊り場にある照明を点ける。

 この動作に前後はあるが、これが、新聞配達を始める前にする、準備行動。

 そして、エレベーターで最上階に上り、階段で降りながら、契約された部屋に新聞を配っていく。

……さっさと終わらせて……次に回ろう……。

 俺の担当区域はここだけじゃない、他にも回らなければならない。

 現在、ここで配達する部屋は、九つ。

 十五階の二部屋。

 十二階、九階、八階、五階、四階、それぞれ一部屋。

 そして、二階の二部屋だ。

 ここは全部で三十部屋あるんだが、その三分の一にも満たない。

 あの件以前は、ここで半分近くの部屋を回っていたが……。

……俺の……せいじゃない……。

 苦笑しながら、階層パネルを一瞥すると、新聞の束から二部引き抜いた。

……え? ちょっと待てよ……。

 不意に気付いた。

 気付いてしまった。

 さっきの違和感。

 エレベーターを作動させた後に、覚えた違和感。

……なんなんだよ……。

 引き抜いた新聞を持ったまま、階層パネルを凝視する。

 【5】が点灯して、消灯すると、すぐに【4】が点灯した。

……この間隔……間違いない……。

 このエレベーターを動かす前……。

 階層パネルの数字は点灯していなかった。

 エレベーターの故障ではなく、問題なく動いた。

 しかし、俺にとっては大問題だった。

 この階層パネルに異常があった。

 ランプが点灯しない数字があった。

 そして……。

 このエレベーターが、停まっていたのは……。

「……十三階……」

 俺がそう呟くのを待っていたかのように、階層パネルの【1】が点灯した。

……マジかよ……。

 突如として、襲い来る不快感。

 鮮明に甦り、脳裏を駆け巡り出す。

〈あの顔〉

 そして、俯せに倒れた死体。

 頭の中で、高速に繰り返される。

 あの件の、一部始終。

……やめてくれ……やめてくれ……やめろ……消えろ……消えろ……。

 鼓動が速くなり、全身が総毛立つ。

 呼吸が乱れ、視点が定まらなくなる。


ゴゥッ!


「っ?!」

 エレベーターのドアが重い音を立てて開き出し、思わず息が詰まる。


ゥゥゥンッ!


 身構える暇を与えずに、エレベーターのドアが完全に開いた。

 直後。

「っ?!! うぅわぁぁぁぁっっ?!!」

 開かれたエレベーター……その中を見た俺の叫び声がホールに響き渡った。

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