カンテラの燃料

朽網 丁

カンテラの本懐

 マルローの生きる世界では常にからんからんという小気味いい音が響いている。ガラスと金属がぶつかり合うと生じるこの乾いた音は軽快で、実に耳当たりのよいものだった。とはいえ同じ音を四六時中聞いているというのは、想像するよりもずっと面白くないものだった。生涯に渡って耳に触れる煩わしさというのは生きる上で重大な問題であるが、彼にとってはそれよりももっと重大な問題があった。それは自然に身体の中に入ってくる音とは異なり、瞼を閉じれば自らの意思で遮断できるものなのだが、そういう事実があればこそ、彼はその存在を一層憎らしいものに感じるのだった。人々が背負うカンテラから流れ出る乾いた衝突音が彼の心をざわつかせ、カンテラの厚いガラスを透過して溢れる青い炎の光が彼の心を底から消沈させていた。


 雑踏の中をマルローは俯き加減で歩いていた。彼は薄汚れたバックパックを背負っており、バックパックからは、まだ十二歳である彼が両腕で抱えてもなお余るほど大きなカンテラが下げられている。厚いガラスに赤銅色の金具が取り付けられたそのカンテラの中には青い炎が灯っていた。

マルローの周りには多くの行人がいた。服装は皆それぞれ異なっている。鮮やかなワンピースを着ている若い女性がいれば、年季を漂わせるエプロンを着けた妙齢の女性もいる。ボロボロにすり切れた麻布を纏っているだけの浮浪者のような男性も、のりの効いたシャツを着ている精悍な男性も同じ道を歩いている。しかしそれらの異なる服装には反して、道行く人々にはある共通点があるのだった。カンテラであった。

 マルローが住む国の住人は誰もがカンテラを持っている。マルローのようにバックパックや手提げなどの鞄につなげてぶら下げている人、腰に巻いたベルトの留め具に括り付けている人、直接手に持っている人。持ち方はそれぞれであったが、カンテラを持つという点では皆同様だった。この国で生まれた者は生まれたその日から一つのカンテラが与えられるのだ。カンテラの内部では一つの炎がゆらゆらと踊るように灯っている。その炎は持ち主の生涯の内、ひと時も消えることなく燃え続ける。赤ん坊が与えられたカンテラに初めて触れた時、内部には白い小さな炎が灯る。その白い炎は赤ん坊が成長して物心がつくに従って次第に青色に変化していくのだが、それを除けばこの炎がカンテラの中で変わることはなく、赤ん坊の手に触れて点いた炎は持ち主が一生を終える瞬間に煙も立てず、まるで初めからそこに炎などなかったかのようにぱっと消えてしまうのだ。マルローは以前その瞬間を目の当たりにしたが、毛先ほどの余韻も感じさせないその消滅の有様がひどく無情であったという印象が、彼の心の裡には確かにあるのだった。

しかし一方でカンテラの炎が持ち主の生涯の途中で途切れることは決してなかった。それはこの国に定められた規律に起因することだった。この国で生活するにはカンテラに青い炎を灯し続ける必要があり、青い炎を灯し続けるには人々は善行を行う必要があった。すなわちこの国で生き続けるには善人であることが求められ、この国には善人しか存在しないのだった。カンテラの青い炎の灯こそが、この国では善人の証として何よりも信頼を寄せられているのだ。

 

カンテラから漏れ出る炎の光彩は鮮やかであった。光源である炎の揺蕩いを投影して儚げに揺れるその光彩は、持ち主の身体や足元の地面、建物の側面や側にいる人の身体など様々なものを踊る明暗で妖しく照した。多くの人が集まる場所では青い光が眩いほどに地面を照らし、地面そのものが発光していると錯覚することもあった。マルローはそういう時には、石畳の溝にできるほんの僅かな、しかし確かに黒い陰影を見ては、瞳を撫でるこの光が地面から射すものではなく、自らが持ち歩くカンテラから滲み出たものであると正しく認識するよう努めるのだった。

 マルローは学校から自宅に帰る途中で、その道すがらにある配給所に寄るつもりであった。生活に必要な最低限のものは国内の各所に設置された配給所で得ることができた。配給品には食料や便所紙や石鹸などが該当し、これらは一定の生活水準を担保しながら生きていくには欠かすことができないという理由から、国政から選出された品々だった。そして実際これらの品が揃えば国の住民は質素ながらも労働とは無縁の一生涯を、脅かされることなく送ることができた。

 マルローは配給所に着くと、既にできていた列の最後尾に並んだ。彼の前に並んでいる男の上背は高く、並んでいる状態では自分の位置から配給窓口までどれくらいの距離があるのか、すなわち待ち時間はあとどれくらいなのかということを推測することはできなかった。マルローはもどかしいという心持で自分の番が回ってくるのを待つほかにないのだと観念した。

二十分ほど待ったところでようやくマルローは配給品を受け取ることができる窓口まで来た。係員の男は慇懃そうな表情でマルローを見下ろした。

「こんばんは。夕食かい?」

 係員の男はそれまでの表情には似つかわしくない物腰穏やかな口調でマルローにそう聞いた。気づけば男の顔にはその優しい声色によく適した嫣然とした微笑が浮かんでいた。男の腰の辺りには例の青い光が滲んでおり、男がマルローに穏やかな口調と共に微笑を向けた時に、その光は一際強く瞬いたように彼には感じられた。

「ええ、パンとミルクを」

 マルローがそう言うと係員の男は後ろを向いて積み上げられた木箱の中から紙袋に包まれたパンと小瓶に注がれたミルクを取り出した。男は再びマルローに向き直ると、あの脅迫的なまでに穏やかな微笑を浮かべた上で、彼にそれらを差し出した。マルローはそれらを受け取る前にバックパックに取り付けられたカンテラを提示した。カンテラの中で揺らめく青い炎を確認した係員は大きく頷いた。これが国民が配給を受け取るためのただ一つの条件だった。

「どうもありがとう」

 マルローは礼を言ってから配給品を受け取ってバックパックの中に仕舞った。彼の礼を聞いた男はまた笑うのだった。そしてそれと連動するかのように男の腰の辺りが青く光った。マルローは舌下に重いものを置かれたような嫌な錯覚を覚え、たまらず走ってその場を後にした。

 見ないようにとしても自然とその光は視界に映ってくるという現実がマルローをひどく憂鬱にさせる。目線を持ち上げても、地面に縫い付けても、左右に振っても、青い光は常に目線の先に灯っていた。もし強靭な意思でこの光を瞳に映したくないと望むとしたら、そう考えると彼には取るべき手段がいくつか思い当たるのだった。しかしそれはあまりにも極端な選択で、選択の先を見通すことなくその手段を講じるには、彼にはいくつか足りないものがあった。つまり、その極端な選択肢とは死ぬか、この国を出て誰もいない場所でたった一人で活きていくかということであり、彼に足りていないものとはそれによって生じる喪失と孤独に対する勇気と覚悟であった。

 マルローはしばらくどこを目指すともなく、どこを見るともなく走った。十二歳の子どもに出せる速力などはたかが知れていたが、それでも彼にとっては必至の疾走であり、彼の息は切れ、拡大と収縮を激しく繰り返す肺は鈍痛を訴えていた。彼は本心から言えば気のすむまでどこまでも走り抜けてしまいたかったが、それは叶わなかった。彼は走っている途中、人とぶつかった。ぶつかって立ち止まった時、既に彼の両足はふらふらとおぼつかなかった。

「おい、気をつけろよ」

 ぶつかった相手はにわかにぶつかってきた人物に対する敵意を顕わにした。しかしその人物がマルローである認めると、その態度は一変した。

「やあ、マルローじゃなないか。まったく奇遇だな、おい。配給の帰りか」

「う、うん」

 その人物はマルローの学友のクロックという名前の男だった。クロックは極めてにこやかな様子でマルローの肩に腕を回すと、遠くの方に向かって呼びかけるような大声を出した。その際、クロックの口元が彼の胸の裡にある大きな愛憎によって歪むのをマルローははっきりと見て取った。

「おおい、こっちに来てみろよ。マルローがいるぞ」

 クロックの呼び声応じる具合に、建物の陰から数人の少年少女が現れた。彼らは全員マルローの学友だった。彼らはすぐにマルローとクロックの周りに集まってきた。

「あら、何だか浮かない顔だけれどどうかしたの? マルロー、大丈夫?」

 学友たちの中の一人の少女がマルローにそう話しかけた。彼はその問いに対して大層どぎまぎしながら答えた。

「な、何でもないよ。だ、大丈夫」

 マルローの返答を聞くと、クロックをはじめとする学友たちは潜むような笑い声を立てた。中にはマルローが返答に際して発したどもりを小声で真似る者もいた。マルローは心身がすっかり疲れ切ってしまい、今すぐにでもこの場から立ち去りたかった。しかしクロックらがそれを許さなかった。彼らはマルローを取り囲むように立ち並んでいたので、マルローはどちらを向いても見たくない顔を見なくてはならなかったし、聞きたくない声と言葉を聞かなくてはならなかった。しかし彼にとって一等我慢ならないのは、触れたくない感情に触れることであった。言葉や態度といったものは心中に生じた感情の副産物にすぎず、その根幹となった感情こそ、一等純粋な存在なのだ。彼らの心中に内在する悪意と、それを行動に化けさせる際に働く彼らの卑しい理性こそが、まさしくマルローを苦しめる要因そのものなのだ。

「おい皆、あまりマルローを困らせたらいけない。マルローは俺たちと違ってそれは忙しい学者様なんだ。今日だって学校の図書室で何やら調べ物をしていたようだしな。マルロー、どうだい、赤い炎について何か分かったのかい」

 クロックの言葉にマルローは返事ができなかった。彼はただ俯いて自分の足元ばかりを見ていた。石畳の溝からはごく小さな雑草がいくつか顔を覗かせており、青に染まる地面にちらつく微かな緑に、彼はまるで慰めでも受けている気分だった。いつまでも押し黙っているマルローにしびれを切らしたのか、先ほどまでとはいく分異なる調子でクロックが口を開いた。

「もう帰ろう、マルローは本当に疲れているみたいだ。それにまた明日もたった一人で調べものをするんだろうからな。なあマルロー、明日も赤い炎について何か分かったか俺たちに教えてくれよ。皆お前の研究には興味津々なんだから」

 クロックは最後に「じゃあな」と短く別れの挨拶をすると学友たちを率いて去っていった。

 マルローは尚も黙ったまま同じ場所に立ち尽くしていた。一人になると周囲を照らす青い光は明らかに小さく、弱くなった。そこに去っていったはずの嘲笑の存在を確かに感じて、マルローは口惜しさによる羞恥に悶えた。今すぎにでもカンテラを地面に叩きつけてガラスを割り、中で煌々と燃える青い炎を飲み込んでしまいたくなった。

 

「帰ったよ。母さん」

 マルローは自宅の扉をくぐると、中にいた母親のキチイに声をかけた。

「はい、おかえりさん。遅かったけど、何かあったの?」

 キチイは痩せこけた頬を微笑によって艶やかに歪曲させ、そう言った。口元には安心感のある笑みが浮かんでいたが、目元からは濃い心配の色が窺えた。こういう表情をつくり出せるのはおそらくこの世で母親という役目を持った人だけなのだろうと思わせる特別性がこの表情には備わっているのだった。マルローはにわかに胸の痛痒を覚えた。

「ごめんよ。でも大丈夫、何でもないよ」

 マルローはキチイを安心させるために努めて明るい声色で答えた。それを受けたキチイは「そう?」と半ば疑念を込めた風な声でマルローの発言の真偽を確かめようとした。マルローはそれに気づかないふりをして、別の話題を投げかけた。

「母さんはもう晩御飯は食べたの?」

「食べてないわよ。あなたが帰ってくるのを待っていたのに、遅いからお腹空いちゃったわよ。さ、早く食べましょう」

 マルローは「うん」と言ってキチイの座る食卓についた。


 マルローは真っ暗な家の中を極力音を立てないよう用心しながら進み、風のない夜空の下へ歩み出た。自宅から西に進んだ場所のある雑木林を抜けると、国が建設した巨大な壁が視界の果てまで連なる国境までやってきた。住民のほとんどが寝静まった時刻に国境までやってくるのは二年前から続く彼の習慣だった。それは彼が今よりずっと幼い頃から嘱望してきた赤い炎をこの目に認めるためだった。

 マルローは壁のすぐそばまでやって来た。辺りには誰もいない。ここは彼が偶然発見した、国の衛兵の監視が行き届かない、おそらく唯一と思われる箇所であった。そこでずっと前に掘った穴を探す。土の被った麻布を剥がして、座った状態で彼の身体がすっぽりと収まる大きさの穴の中に身を隠した。あとは静かに時間の経過を待つだけだった。

 どうやらこの世には赤い炎があるという、そういう話を耳にしたのはマルローが八つの時だった。それを初めて知った時彼はあまりの嬉しさに周囲の人たちに吹聴して回ったが、彼の話は眉唾物だと散々揶揄された。彼の話を真剣に聞いてくれたのは母のキチイだけだった。彼はそれから使える時間の限りをもってあらゆる書物を読み漁ったが、それでも赤い炎については何一つ知ることができなかった。失意の渦中に陥りかけていた彼の支えとなったのは、唯一信じていてくれた母の存在と、この魅惑的な話を聞かせてくれた父の存在だったが、当の父は話をしてくれた翌日から行方が分からなくなってしまっていた。

 赤い炎を調べ始めて二年が経った頃のとある晩、マルローはふと眠りから覚めると赤い光が窓外を通り過ぎていくのを認めた。寝ぼけ眼のまま急いで後を追ったが、その光は国境に気付かれた壁の近くで見失ってしまった。二年前に光を見失った場所こそが今

まさに身を隠している穴の付近であった。以降身を隠す穴を掘り、再び赤い炎を見るための時間を過ごしてきた。

 もう二度と目にすることはないのかもしれないと、そう思うことも仕方がないように思えた。意志薄弱となった途端に重くなる瞼を抑えることは難しかった。

「おい、こんなところで寝ていると風邪を引くぜ」

 突如として降ってきた声にマルローは驚き、勢いよく目を開けた。自分が気づかない内に眠っていたことにも驚いたが、それよりも衝撃だったのは眼前の男を背後から照らす赤い光だった。真っ赤な後光により黒い輪郭だけが切り取られた男の姿と、肌に感じる確かな熱が眼前の男が神か何かであるという認識を、マルローに叩きつけた。

「赤い、炎だ」

「おお、あったかいぜ。今夜は少しばかり冷えるからな」

 男はそう言ってバックパックにつないであると思われるカンテラをマルローによく見えるように掲げた。マルローは無意識のうちにそのカンテラに手を伸ばしていた。触れると、涙が出る温かさを感じ取った。青い炎のカンテラには存在しない熱量は人間の涙を誘うとは、マルローにとって初めて知ったことだった。


 マルローはリンゴと出会った後、彼に連れられて壁の外にある彼の住処に来ていた。マルローが掘った穴のほど近くに壁の下に開通された地下道があり、そこから壁の外に出ることができた。

「マルローか、俺はリンゴ。よろしくな」

 リンゴはそう自己紹介を済ませると握手を求める手を差し出してきた。マルローはそれを信じられないものを見るような面持ちで眺めえてから、おずおずと握った。リンゴはマルローの手を力強く握り返した。自分よりも大きな手に握られると、徐に今ここで起こっている事象に対する現実味が湧いてきて、激しい興奮が心身に浸透していくのをはっきりと感じた。

「あ、あの、聞きたいことが山ほどあるんです」

 もつれる舌を忌まわしく思いながらマルローは言った。

「まあ、落ち着けよ。お前が聞きたいのはこれについてだろ」

 察しの良いリンゴは彼のカンテラをマルローに見せつけながら言った。

「そう、そうです。僕はずっと探してきたんです。あなたが持つような赤い炎のカンテラを」

「随分熱心だな」

「もう四年も追いかけていますから」

「そんな大層なものじゃないんだぜ。ただちょっと珍しいってだけさ」

「そんな。ではなぜ僕には一向に手がかりが掴めなかったのですか」

 マルローは上昇する体温を逃がす術、必要以上に大きな声でリンゴに迫った。しかし彼はまったく動じていない様子だった。

「答えは教えない。こればっかりは自分自身で気づくほかない」

 リンゴはそう言って首を横に振った。マルローにはその時のリンゴの姿が自分よりもずっと達観している風に見えた。自分と彼の姿を比較して、あまりの恥ずかしさに頬が紅潮した。

「あなたも、そうだったんですか」

 リンゴは少し黙ってから思い出話をするような調子で話し出した。

「ああ、ある男に出会った。当時はこれっぽっちも信じていなかった赤い炎のカンテラを、あの人は下げていた。それから……」

リンゴはそこで少し考えた後、妙案を得たという顔でマルローを正面から見据えた。

「そうだ、俺があの人から教えてもらったことをそのままお前に言えばいいんだ。これはいいぞ、望む者にはこうして伝えていけばいいんだ」

 リンゴは愉快そうに声をあげて笑った。

「いいかマルロー、強いられた善意、善行なんてやつはこのカンテラには相応しくないのさ」

 リンゴはマルローのバックパックにつなげられたカンテラに張られた厚いガラスを中指の第二関節で叩きながらそう告げた。中で灯る青い炎は心なしか普段よりも小さく、小刻みに震えているように見える。それは恥じ入るような炎の様相だった。

「カンテラの炎ってのは温かくなくちゃいけない。街を青く美しく照らすだけじゃあ駄目だ。本懐の伴わない動機に赤い炎の熱は灯らないよ」

 リンゴの表情は、目の当たりにするまで想像もできないほどの穏やかさに満ちていた。それを見て尚、この話を続けるのは無粋なのだとマルローは悟った。この端正に構築された神聖な空気を犯すことはあまりにも大きな罪なのだった。

「ありがとう。十分だよ」

「賢明だな」

 マルローは立ち上がり、バックパックを持ち上げて勢いよく背負った。目線を落とすと床に胡坐をかいているリンゴの、見上げた目線を受け止めることができた。

「もう行くのかい」

「ええ、行きます。考えなくちゃ」

 リンゴはもう何も言わなかったが、一度だけ大きく頷いた。

マルローがリンゴの住処から出ていこうとする瞬間にリンゴは「いい顔した時の目元がよく似てるな」とごく小さな声で呟いた。マルローはその声を聞き取っていたが、躊躇わずにこの場を後にするためには、聞こえなかったふりをする必要があった。

 マルローは家に帰り、流れるように床についた。


 翌日マルローは学校の帰りに図書館に寄るという習慣をやめて、生まれた多くの時間を周りにいるたくさんの人をつぶさに観察して回ることにした。クロックを含めた学友たち、街を歩く人々、配給所の係員を務める大人たち、彼らは皆生来から共にするカンテラに善人の証である青い炎を灯している。この国には――この国に住まう人々の周りには善意と善行で溢れている。しかしそれらの源泉は果たして純粋なのだろうかと自問する。人々のにこやかな顔に時折差す影は、カンテラの炎の揺らめきによるものだと、そう決め込んでいたがそれは本当だろうか。ひょっとするとそれは人が不本意に身を委ねた時によく自身の顔に刻むあの、この世で一等正直な皺による陰影ではなかろうか。思考を放棄せず、対峙している人の言動や感情を盲信しなければこそ、視界のあちらこちらに浮遊する猜疑は正当性を勝ち得るのだ。

 ただ存在するものを見るばかりなのは精神的めくらのすることである。強いられた善意と湧出した善意が同じだけの高貴さ備えているとは、あるいはひた隠しにされた悪意がひけらかされた悪意よりも愛嬌のあるものだとは、羞恥のあまり口にするのも憚られるほどの妄言である。

 カンテラの炎は常に栄えていなければならないものではなく、ただ時折気まぐれに炎を灯しては消えるというものでよいと信じることができれば、この国は今よりも少しだけ騒がしくなり、少しだけ長続きするようになるだろう。

 時折炎を灯しては囲いのガラスを温める。炎が消えればたちまちガラスの熱は去っていく。燃料は無尽蔵ではなく、また常に蓄えられているものでもない。持ち主たちは前触れもなく現れる燃料を見逃さずにただ炎を灯せばいい。そういうカンテラをマルローは夢想するのだった。



                 了

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カンテラの燃料 朽網 丁 @yorudamari

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