12/30②
ネットハウスの三十五番は、偶然空いていた。
中に入った後、あちこちを探して、常設されている小さなゴミ箱をひっくり返した底に、紙が貼られているのを発見した。
3×5=A 5×4=E 2×3=R 4×1=S 5×3=B 1×2=K
2×4=O 1×5=U 4×3=I 3×3=A 1×3=E 4×5=A
5×2=A 3×1=A 2×2=U 1×4=B 3×4=Y 4×2=H
3×2=T 1×1=I 5×1=K 4×4=K 2×1=K
うっすらと二十五個のマスに書かれた紙に、そのマス目を無視して、そう書いていた。
暗号の数字は、どちらも最大「5」までだ。
つまりは、この数式は縦×横で、どのマス目にアルファベットが入るのかを示している。
そうして嵌め込んだ結果、現れた文章は、
IKEBUKURO HATAYASHIKA KABE
だった。
池袋に「幡谷歯科」があることは確認できた。次の目的地はここだ。
さて、一時間でこの部屋を借りたが、まだ時間が余っている。
丁度お昼時だったので、カレーライスを注文した。
カレーの出来上がりを待つ間、俺がデパートで拾った紙以外に犯行予告が出ていないか、ネットを使って探したが、それらしい情報は見つからない。
その間に、店員が湯気の昇るカレーライスを持ってきてくれた。学校給食で見たような、黄色いカレーだ。
いつもつけている黒手袋を外して、左手でスプーンを持つ。
懐かしいカレーの味に舌鼓を打っていると、皿を押さえている右手の、ぐるぐるに巻かれた包帯が目に入った。
俺はカレーライスを食べながら、この包帯をするようになったきっかけを、自然に思い出していた。
□
小学四年生の頃、住んでいるアパートが火事になった。
俺は業火の中から助け出されたが、右掌から肘辺りまで、完治できないほどの深刻な火傷を負ってしまった。右手は、親指と人差し指しか動かせず、辛うじてスマホを掴める程度の力しか出せない。
「俺、もう、野球できない……」
当時、プロを夢見るほどの野球少年だった俺は、命が助かったことよりも、利き手が使い物にならなくなったことへの絶望に沈んでいた。
そんな俺の愚痴を聞いてくれたのは、同じ病室で、火事になったアパートの隣人だった、三十代のお姉さんだった。
お姉さんは、顔に火傷を負い、右目と口元以外はすべて包帯に覆われていた。
若い彼女にとってはこの上ない悲劇だったが、そんな悲しみは微塵も見せず、いつも明るく振る舞っていた。
しかし、子供の俺には彼女の心遣いに気付くことなく、いつも一方的に話すだけだ。
それでも彼女は、俺の話を親身になって聞いてくれて、一緒に考えてくれた。
「いっぱい練習して、これからはサウスポーを目指しましょうよ」
「でも、これから頑張っても、最初からサウスポーのみんなには勝てないよ……」
「うーん……。じゃあ、正くん、何か野球以外に好きな事とか、ある?」
「ううん。勉強も出来ないんだ」
するとお姉さんは、自分が座っているベッドから身を乗り出して、俺の左手を握った。
「左利きは頭がいいから、これから勉強も出来るようになるわ、大丈夫」
「頭いい人って、どんな仕事をするのかな? お医者さんとか?」
俺の言葉に、お姉さんは緩やかに首を振った。
そして、その右目に純粋な輝きを灯して、言い切った。
「探偵よ」
□
後々、お姉さんがシャーロキアンであることを知り、大人になった今では、左利きは頭がいいなんて短絡的だと笑ってしまいそうになる。
しかし、俺はその一言で完全に火が付いてしまい、探偵になるという新しい夢を持つことが出来た。
退院後、お姉さんは遠くに引っ越してしまったけれど、手紙のやり取りは現在でも続いている。
俺が私立探偵になったこと、またデパートに雇われたことを知らせると、祝福の電報を送るくらいに、喜んでくれた。
お姉さんが望むような探偵になれているだろうか、と俺は時々思う。
事件を鮮やかに解決する、それはもちろん大切だが、未然に防ぐという事が一番重要ではないかと、昨日くらいから考えていた。
カレーライスも食べ終えたので、荷物をまとめて、三十五番の部屋を出た。
人気のあまりないネットカフェ内を進み、カウンターへ行くと、そこも誰もいなかった。奥の方から、話し声が聞こえる。
「アドバルーンはどうですか? いい宣伝になりますよ?」
「予算がないよ」
「じゃあ、飴を配るのはどうですか? ポケットティッシュよりも喜ばれますよ」
青年の声が、中年男性の声に向かって、何か必死に訴えかけている。
カウンターの上にはベルがあったので、それを鳴らしてみると、青年の方が「はーい」と言って、慌ててこちらへ戻ってきた。
「会計、お願いします」
「はい」
二十歳前後に見える青年が、レジを叩いて清算をする。
目の下にはそばかすが残っていて、年齢よりも幼いのかもしれない。
「俺の使っていた部屋、前に誰か入っていましたか?」
「え?」
お釣りを受け取りながら、何気なくそう尋ねると、彼は面食らった顔で目を瞬かせた。
「掃除、不十分でしたか?」
「いえ、大丈夫でしたよ」
俺は笑顔で首を振る。
心の内では、やはり、俺が来る直前まで誰かが使っていたんだなと、確信を得ていた。
渋谷のコインロッカーの十番やこの店の三十五番が、俺の来る前に使われてしまう可能性も、田園調布の暗号も誰かに剥がされてしまう可能性も大きい。
俺が偶然間に合ったのだとは、考えにくい。つまりは、あの赤い傘の男、あるいはその仲間が数人、俺を見張り、動きを連絡し合っているのではないのだろうか。
ネットカフェから出ると、街中の雑踏が目に映った。
何の変哲もない、老若男女の行き交う姿。この内の何人が、俺のことを監視しているのだろうか。
そんなことを想像してしまい、外気の寒さ以外のことから、身を震わせた。
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