第13話 戻って来いよ

 たった今、俺の眼の前で一人の少女が息絶えた。心臓も肺も機能していないのだろう、微動だにしない。

 渚は数秒前に俺のベッドで、死んでしまったんだ。


 渚という大切な人間の一人がもう動くこともない。そんな現実を冷静に受け入れて、俺は深呼吸をした。

 ──が、手が震えている。唇も震えて止まらない。別に寒い訳ではないというのに、全身の震えは増す一方だ。

 俺は渚の死を受け入れられていないのかも知れない。


「……渚。渚、は……死んだんだよな。……おーい、生きてる──訳ないよな。わ、分かってる。死神魂を刈り取られて、今度こそ……今度こそ……」


 こんな自分は初めてだった。何度自分に言い聞かせても心から言うことを聞いてくれていない。何度も渚に声をかけては、首を振って納得するだけ。

 いい加減聞き分けろよ。渚は六年越しに、本当に命を失ったんだよ。もう、会話すら出来なくなったんだよ。


 この家は俺が引っ越した後の、俺だけが住む家だ。リムや両親達は知れど、ここには居ない。

 そう分かっていても、誰かが傍に居てくれなければおかしくなってしまいそうな気分だった。眼の前に仲の良かった幼馴染みは居るが、彼女はもう動かない。


 ふと、座る自分の太腿に冷たいんだか熱いんだか分かりにくい感覚が生まれた。同時に、渚の額に一粒の水滴が落ちる。

 手を使ってその道を辿ると、俺の眼が現れた。──俺の眼から落ちた涙だった。


「……あ、あぁ……」


 気がついたら微かに声が出ていた。宙を行き来する何も掴めない両手は、閉じ込められた妖精の如く舞うのみ。

 感情の波が押し寄せ、俺は産まれて初めて町に響くような大声を出した。


「ああああああああああああぁっ!!」


 何も考えられない。一つだけ心に残る事実に、俺は泣き崩れた。

 ──渚が死んだ。

 その事実を再確認したことによって、俺の視界が計測不能な震度を観測する。脳が揺れて、全身が強張る。声だけが部屋を埋め尽くして、言葉にならない感情に心は埋め尽くされた。


「渚っ! おい! 返事しろよ渚っ! 返事しろってぇ! 渚ぁっ!!」


 触れもしないでひたすら泣き叫ぶ。死は受け入れた筈なのに失う恐怖がどの感情よりも主張する。

 誰かを失うことがこんなにも悲しく恐ろしいことだったなんて。今まで想像してきたものを遥かに超えている程だ。


「そうだ……まだ、まだ何処かに……!」


 俺自身、錯乱していることも分かっていた。それでも天井の辺りに眼を向けて、叶いもしない願いを叫ぶ。


「渚! また入れよ! 身体に入れ! そうしたらまた一緒に居られるから! ……今度は拒否なんてしない! 色々応えてやるから! 帰って来いって!」


 何も考えられずに叫び続ける。渚なら、この呼びかけに反応してくれる──そう思ったからだ。無意味なのにな。

 心は落ち着いている。冷静さを失ってはいないが、脳自体がそれを拒否する。全力で渚を捜す。


 ……それでも渚は、もう一度動くなんてことは無かった。


 ♠︎


 ──ここは何処だろう。なんて考えるくらい自分の行動が不可解なものになっていた。

 俺は大学を三日程サボった。渚の葬式の準備やら何やらあったらしいが、そうではなくてショックの大きさ故にだ。

 放心状態のまま葬式を終えたら、よく知らない道に入った。そのまま歩いていたら、来たこともない小さな公園に突っ立っていたんだ。


「……言ったじゃねぇか、あのクソ神が。だから充実させておけって、言ってたじゃねぇか。後悔しないように……」


 ブツブツと呟いて、周囲の親子が離れて行くのも気にしない。悪いな邪魔して。

 とにかく今は落ち着きたかった。狭くて暗い場所なら落ち着けるんじゃないか。そう思って中心のドームみたいなのに入る。


「あ、どうも……」


「あ、うす……」


 先客が居たみたいで、その黒ずくめの女性と二人並んで体育座りをする。

 二人で居ると落ち着かないな。だが渚の死による恐怖は段々と薄れてきた。……アホやってる気分で。

 今は誰にも会いたくなかった。だがこの人に会うのは別に良かった。何か、間が保たないっていう不安も抱えた状態だが。


 俺はふと、隣の女性に声をかけた。


「言ったじゃないか……。いつだったかは忘れたが、視界に入るな──と」


 女性は身体を少し震わせると、不機嫌そうな声色で反論をしてきた。


「私じゃなくて、稔様が自分から来たんでしょう。会うつもりなくて合わせる顔もなくてわざわざ遠い公園選んだのに、まさか来るなんて思いませんでしたよ……」


 女性と俺は互いに溜め息を零す。その空気は若干、安心というものに包まれている気がした。

 俺は女性の大きな瞳を見つめ、女性は俺の死んだ眼を見つめる。それから反対の穴から外に出て、陽の光に眼を閉じた。


「眩しい! 四時間以上入っていたので物凄く眩しいです! 知ってますか!? 冥界って暗いんです! この世は眩し過ぎます!」


 女性はフードを被り、眼を襲う陽射しを遮断する。その為のフードだったのか。

 俺は俺で背伸びして、心臓が安らいできたことを掌で確認した。

 ──この場から去ろうとする死神の右腕を強く掴んで、思い切り引いた。


「いったぁ!? 急に何するんですか稔様!? 貴方が出て行けと言ったからまた直ぐ出て行こうと……」


「黙れクソ神。……それについて、今から話があることくらい察しろバカ」


「相変わらずの呼び名ですね。酷過ぎます。それとまだ別れて五日ですよ? もう恋しくなっちゃったんですか? ププッ」


 クソ神の行動と言動は一致していなかった。

 これまでの暴力を恐れてか、眼を背けて怯えながら棒読みで笑う。そんな無理してまでそのセリフが使いたかったのか。意味分からないな。

 確かにコイツを追い出してまだ五日だ。早過ぎるかもしれないが、俺はリムの顔を自分に無理矢理向けて真っ直ぐに見つめた。


「そうだ、だから戻って来いよ。俺はもうお前を追い出したりしない」


「えっ……? 稔様、何かありました?」


 リムは不安気に見上げてくる。俺が黙ると、リムは何かを察した様に瞳を潤ませた。きっと黒い服装で気がついたんだろう。


「渚さん……ですか」


「ああ。……渚は死んだが、今ようやく心は落ち着いたみたいだ。多分お前のお陰だよクソ神」


「感謝の気持ちを伝えられている気がしません」


 リムはおかしそうに笑った。いつもなら全力で嫌がるのに、今日はまた一段と頭がおかしい様だ。可哀想に。

 ……まぁどれだけ頭が冥界よりも地に堕ちていると言っても、救われたことに変わりはないよな。


「今お前に会えて本当によかった。いつの間にか、お前の存在も『癒し』というものに変わってたみたいだな。リム」


 心から出た文句だった。今までの俺なら絶対に完璧に不動で言うことのなかったセリフだろう。

 だが今は違う。

 少しの間一番傍に居てくれたリムは最早、俺にとってただの死神ではない。パートナーの様なものに変わっていたみたいだ。

 それは嘘じゃない。


「稔様ぁ……」


 リムは泣きそうな程不細工な顔で感激している様だ。その顔でよく美少女とか自称出来たものだな。

 眼を擦る不細工の頭を不器用な手つきで撫で、俺は今もっとも不安なある友人についてを話し始めた。


「高畠が今、何やら様子おかしいんだ。渚が死んだ日だったか……陸上部の応援練習があったんだ。その時、あの天真爛漫な高畠はいなかった」


「高畠様が? もしかして、陸上が嫌いになったとか?」


「元から大学ではやってなかったらしい。教授がしつこいだけの様だ。……それと嫌いになったのではなく、『走れなくなった』と言っていた。陸上から逃げた……らしいな」


「プレッシャーに負けたというとこですね。アレだけ凄い記録を出していれば、そりゃ期待されちゃいますよね」


「知ってんのか、お前」


「はい。ちょっと待ってて下さいね」


 頷いたリムは、真っ白な分厚い本を取り出した。それをランダムに開いて、何も書いていないページをまじまじと見る。


「陸上では主に百メートル走、走高跳び、千メートル走などに参加していたらしいです」


 リムは何も書かれていないのに、新聞を読む様な動作で説明していく。もしかしたらその分厚い本は、死神にしか扱えない物なのかも知れないな。


「最終記録は今から一年前でして、そこで陸上はやめたそうです。百メートル走は十秒四二。走高跳びは二メートル五センチ。千メートル走は二分三十一秒……あの人超人ですかね」


「オリンピックにでも出るつもりだったのか?」


 高校生でそのくらいの記録出せる奴って、本当にいるんだなぁ。今はもっと早かったりするのだろうか。

 ……いや、辞めたのなら記録は下がるだけか。

 次のページを開いたリムは何かを発見したのか、手招きしてそのページを見せて来る。白紙にしか見えないからな?


「これですね! 原因。最後の百メートルでぶっち切りだった為、それで全国大会優勝みたいです。『期待の新星』なんて記事に載ってますほら! これがプレッシャーに変わったんでしょうね」


「ほらって言われても何も見えないからな。……そうか、また俺とは比べものにならないくらいの圧に負けたってわけか」


「……え? 稔様も圧に負けたんですか?」


「高畠とはちょっと違う。俺はプレッシャーと言うよりは、諦めに敗北した弱者だからな」


 小説を書こうと今はもう思えない程に諦めてしまったんだ。ただ、高畠はもっともっと、計り知れないプレッシャーに潰された。それがどれだけ辛いことなのかは、俺では分からない。

 リムが首を真横に曲げてやたら気持ち悪いのは放って置くとして、まず俺に何が出来そうなのかを考えてみよう。


 その一、励ます。

 どうやってだ? 『プレッシャーになんか負けるな! きっとお前ならやれる!』とか、熱血教師みたいな戯言を放つか? そんなもん、鬱陶しく思われて終わりだ。


 その二、同情する。

 これは無いな。『お前の気持ち、痛い程分かる。期待され過ぎると苦しくなってくるものだよな』なんて青春ドラマの教師みたいな上辺だけっぽい言葉をかけるか? そんなもん、お前に何が分かるんだってストレスに変わるまでだ。

 そもそも高畠の感じた様なプレッシャーなんて感じたことは無いし。


 その三、頼み込む。

 論外だ。


 頭を悩ませていると、ふと脳内に渚の顔が浮かび上がった。悲しくなるからやめてほしい。

 だがその渚は高校生くらいの容姿に成長していて、俺が知る渚とは色々違っていた。色々と。

 成長出来ていればこんなだったんだろうな……なんてまた落ち込んでいたら、リムがちょんちょんと肩を突いてきた。

 遠慮がちに肩を竦めて、俺の顔色を伺ってからリムは口を開く。


「今、稔様が高畠様に言いたいことは、どんなことですか?」


 俺は眉を全力で寄せた。先程からそれを考えているんだよ。所詮はクソ神の脳か。

 腕を組んでドーム状の遊具に背中をつけた。


「残念だが何も思い浮かばない。どうしたら高畠を今の状態から救えるのか……俺なんかに救えるのか……」


「そうじゃなくて、稔様の本音です。本心を打ち明けてみましょうよ、高畠様に」


「……本心?」


「はい! 稔様が心から思っていることを取り繕うことなく高畠様にぶつけるんです! 人は上辺だけの言葉でも安心出来ますが、いつかは剥がれてしまうので。心からの言葉には強い意味が込められていると思うんです!」


「それが役に立つかどうかはイマイチなんですが」と続けたリムは、本当に自信無さそうだった。

 俺は普段、リムに頼ることなんてしたくないとまで思っていた。それでも今は雑草レベルに頼りない者の言葉でも縋り付きたかった。

 だから今回ばかりはリムの案を実行する。俺の心からの声を、ただひたすら高畠にぶつけてやるんだ。


 俺はリムが役に立ったということで、頭を撫でてやる。……が、フードに触れたら怒られたのでその中に手を突っ込んでくしゃくしゃにする。

 リムは眼を回しながらブランコに座り、何事も無かったように口笛を吹いて漕ぎ出す。ぶん殴るぞお前。


 やはりこのクソ神が癒しになったとかは錯覚だったのかも知れん。久し振りに気を許したら早速うざかったわ。

 何はともあれ、クソ神が殴られて不貞腐れているとしても、俺のやるべきことは一つ。

 高畠を元の明るい性格に引き戻して救うことだ。



 次の学校は連休明け。そこまで待つのは焦れったいし決心が揺らぐかも知れないから、直接高畠の家に行ってやる。


 ……何でこんな面倒なことになったんだ。俺の人生は道端の雑草みたいに地味でよかったのに。誰かの為に何かをするなんて、予定は一つも無かったのにな。

 そうは言いつつ、救いたい奴らもいない訳じゃない。

 その為に強く生きてやるよ。

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