第4話


「おー、やっぱりあったかいな。最高だな、こたつは」

「おい、なんで、お前がそこにいる」

「なんでって、寒いからに決まっているだろ。うちのアパート、安い分だけボロで隙間風が入ってくるんだよ。この時期は正直、つらくてな」

 瀬川朝陽は、手をこたつに突っ込んで、背中を丸くした。ショートボブの髪の毛がちょっと揺れる。

「しあわせー」

「出て行け。ここはぼくのアパートで、今は勉強中だ。うっとうしい」

「お、真面目。けれど、今からやったって試験には間に合わないぞ」

 瀬川はぼくを見て、にかっと笑った。

「一夜漬けでどうにかなるもんじゃないだろ。だったら、早々にあきらめてのんびりした方がいいって。よく寝ておけば、閃きが走る」

「余計なお世話だ」

 ぼくは無理矢理机に向かい、ノートパソコンの画面をにらんだ。

 英文が並んでいるが、集中を欠いているせいか、内容がまるで頭に入ってこない。まるで暗号のようだ。


 うちの大学は、一月の後半から二月の前半にかけて後期試験をおこなう。単騎集中型なので、なかなかハードだ。

 去年は一日に試験が三つ重なって、大変な思いをした。

 今年も二つ重なる日が四日もあって、早々に手を打っておかないと痛い目にあう。

 ハードなスケジュールを踏まえて、今日は競馬場には行かず、家で最後のテイコーをするつもりだったのだが、何の前触れもなく瀬川が姿を見せて、すべての計画が吹っ飛んだ。


「それにしても、お前、よく僕の家を知っていたな。話をしたことはなかっただろう」

「ふふふ、実はずっと後をつけ回していて……」

「こわっ。ストーカーかよ」

「冗談だよ。実は、あたしのアパート、すぐ近くなんだよ。何度か通りかかるのを見かけていた。近所のスーパーで買物をしているところもな」

「お前、一人暮らしかよ」

「そうだよ。意外か?」

「いや、そうは思わないけれど」

「実は、住所は天野先輩に聞いた。あたし、学科が同じだから、講義で顔をあわせるんだよ。その時にな」

「そうか」


 天野碧あまのみどり先輩は、ぼくの一個年上で、競馬サークル「ブリガディア・ジェラード」の副会長を務めていた。ニットのセーターとチェックのスカートがよく似合う女性で、物腰がやわらかく、いつも穏やかな笑みを浮かべていた。

 ぼくが一年の時、天野先輩が声をかけてこなければ、ぼくはブリガディア・ジェラードに入らなかったかもしれない。憧れの対象だった。


「元気にしていたか」

「うん。部屋に行けなくてごめんて言ってた。お前のことも気にしていた」

 サークルの雰囲気が変わってから、天野先輩は姿を見せなくなった。夏ぐらいまでは競馬サークルとしての姿を保とうと努力していたが、ある時からぱたっと来なくなった。構内で擦れ違っても挨拶しかせず、避けていることは明らかだった。

 何かあったことは想像がついたが、さすがに問いただす気にはなれなかった。

 もうゆっくり語らうことはないのだろうか。

 駅前の喫茶店で紅茶を飲みながら話した時間は至福の時だった。

 実に知的で、エレガントで……。

「はーあ。やっぱり男って、ああいう人がいいのかねえ。初心というか、上っ面しか見ていないっていうか」

 瀬川はこたつに足を突っ込んだまま、あおむけになった。思いきり手を伸ばして、うーんとうなる。

 何たるがさつさ。信じられない。

「何が初心だよ。ぼくはちゃんと天野先輩のことを見ている」

「そんなの幻想だよ。勝手に作りあげたイメージを当てはめているだけだろ。だから、ちょっとでもイメージから外れた行動を取ると、裏切られたとか言い出すんだ。どんだけ女に夢を押しつけているんだよ。馬鹿か」

 きつい言い方に、さすがに僕もいらだった。

「だったら、お前はわかっているのかよ。天野先輩のこと」

「わかっているよ。あたしゃ女だからね。夢は見ないんだよ」


 瀬川はこちらに視線を向ける。瞳の輝きは鋭く、そして暗い。

 気圧されて、ぼくは視線をそらしてしまった。


 しばし沈黙がつづく。

 天野先輩については気になることがいくつかあった。正直、あまりよくない噂も聞いていた。

 だが、ぼくはあえて無視して、先輩のよいところだけを見るようにしていた。噂だけで判断するのはよくないと言い聞かせて。

 それは正しいはずだったが、どこか割り切れない思いは残った。

 目を閉じて、椅子の背もたれに身体を預けると、複雑な感情がこみあげてくる。

 先輩と話をしているときは楽しかったし、その笑顔を見ているとうれしかった。

 その一方で、決して本音を話そうとしない姿には、軽い怒りと哀しみをおぼえたものだった。

 混乱する。やっぱりもっと話をするべきだったか。

 大きく息を吐くと、ぼくは瀬川を見た。

「なあ、天野先輩の件だが……」

「うほっ。お前、本当にまじめな。ちゃんと雑誌記事とかファイルにしているんだ」

 気がつくと、瀬川は横になったまま、カラーボックスからファイルを取りだして、ぱらぱらめくっていた。

「競馬用語集か。すごいな。きちんと順番どおりに並んでいるのか」

「よせっ。馬鹿、見るな」

 ぼくはさっとファイルを奪って、脇にかかえこんだ。こたつに足を突っ込んだところで、瀬川が身体を起こした。

「何だよ。別にいいだろ」

「よくない。人の持ち物に触れるな」

「ちょうどよかったんだよ。競馬ってさ、独特の用語があって、よくわからないことがあるんだよ。知りたいと思っていたからさ、見せてくれよ」

「いやだ。知りたいことがあるなら、ここで訊けよ。わかることは話してやる」

「だったら、ハロンって何だよ。距離の単位らしいが、聞いたことないぞ」

「イギリスに昔あったんだよ。競馬はあそこが発祥だから、そのまま残った」

 ぼくは、ファイルを開いた。

「一ハロンは約二〇一メートル。ほら、中山にもあっただろう。コース脇に数字が描かれたポールが。あれがハロン棒で、ゴールまでの距離を示している」


 二ハロンといえば、約四〇〇メートル、三ハロンといえば、約六〇〇メートルとなる。

 電撃の六ハロン戦といえば、一二〇〇メートルのレースであることを意味する。

 あがり三ハロンという表現は、ゴールから三ハロン前、およそ六〇〇メートル前からのタイムを意味する。三三・二という数字が出ていれば三三秒二で、時速でいえば、およそ六五キロの速度で駆け抜けていたことになる。


 日本の競馬ではハロンとメートルを混同して使うむきもあるが、厳密には違う。

「競馬の表記はハロンが多いからなあ。知っておかないと厄介だな」

「じゃあ、テンっていうのは?」

「最初からって意味かな。テンの三ハロンといえば、スタートから約六〇〇メートルのこと。テンから飛ばしていけって言ったら、スタートしたらすぐにダッシュをかけていけってこと」

「語源は?」

「わからない。調べたけれど、はっきりしなかった」


 競馬では、由来がわからない言葉がたくさんある。テンもその一つで、日常的に使っているが、意味は実のところあいまいだ。

 ほかにも調教師のことをテキと呼ぶことがあるが、それも理由ははっきりしない。昔は調教師は騎手あがりのことが多く、そこから手、騎と逆にして、テキという言葉になったと言われる。

 しかし、何のためにそうしたのかと問われれば、答えられない。

 基本的には調教師のこと先生と呼ばれることが多く、テキという言葉がどれほど使われているかは判然としない。

 意味のある言葉と、慣習で使われている適当な用語がごっちゃになっているところが競馬用語を複雑にしている。海外からもたらされた単語も多く、そのあたりも混乱の元かもしれない。


「習うより慣れろだろ。そのうちわかってくる」

「そういうの、ダメなんだよな。理屈がはっきりしないと」

「意外だな。感覚で動くタイプだと思っていた」

「意外と理屈っぽいんだよ、あたし」

 瀬川はぱっとファイルを奪うと、うつ伏せになって、ぱらぱら開いていく。

「やっぱりちゃんと調べたいな。よこせ!」

「よせ。やめろ」

「いいじゃん。見られて困るものがあるわけでもないだろ。それとも、何かエロいデータでも……」

「ないってば」

 ぼくはこたつを出て、飛びかかるようにして、ファイルを奪い取った。

 そのまま勢い余って前のめりになり、瀬川の背中にのしかかってしまう。

「ぐへっ、いて」

「いてじゃないよ。お前が無茶するから」

 気づくと、瀬川に頭がすぐそこにあった。横を向いて、視線だけこちらに向けいている。

 白い肌が妙になまめかしい。

 あわてて飛び退こうとしたが、それよりも早く、瀬川の声が響く。

「いいんだよ。このままやっても。一度、乳くりあった仲じゃん」

「乳くりあうって……ふざけるな。お前はどこのおっさんだよ」

「突っ込みどころそこかよ。どっちしろに、あたしはお前にのしかかられて動けない。何をされてもどうしようもないから、好きにしてくれ」


 なまめかしい香りが漂ってきて、身体が妙に反応する。

 脳裏に、先日に見た瀬川の胸元が思い浮かぶ。絶妙な曲線は、何とも刺激的で……。

 それが目の前にあるし、手を伸ばせばつかむこともできる。

 できるが……。

 ぼくは目をつぶると、大きく息を吐いて身体を起こした。

 だめだ。流されちゃダメだ。なんでダメなのかはわからないけれど、絶対に今はダメだ。


「ば、馬鹿なこと言うな」

 ぼくは瀬川に背を向けた。

「腹が減った。メシを食いにいこう。そこのマクドナルドでいいだろ」

 返事はなかった。

 それが思いのほか長かったので、さすがに振り返ろうとした時、大きなため息の音が響いてきた。

 振り向くと、瀬川が半身を起こして、頭をかいていた。

「何だよ」

「いや、なんでこんなヘタれにひっかかったのかと思ってな。まったく、この流れで……」

「何だ。よく聞こえない。もう一度、行ってくれ」

「いい。わかった。メシな。お前のおごりだからな。覚悟しておけよ」

「どうして、ぼくが……」

「報いは受けてもらうだけだ。さあ、行くぞ」

 瀬川は立ちあがり、さっと身だしなみを直すと、さっさと靴を履いた。

 なんのことだか、よくわからない。

 ぼくは何か悪いことをしたか?

 首をひねりながらも、ぼくは瀬川の後につづく。妙に割り切れない思いを残しながら。

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競馬のある日々 中岡潤一郎 @nakaoka2016

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