第3話
「はい。かんぱーい!」
瀬川朝陽はジョッキをぶつけるかのような勢いであわせると、そのままビールを呑みはじめる。
とんでもないスピードで、中ジョッキが空になるまで30秒とかからなかった。
「はー。やっぱり勝った後のビールはうまいねえ。お兄さん、おかわり」
新しい注文を出すと、瀬川はメニューをじっと見つめる。
「何か食べられないものあるか? アレルギーとか」
「ないけれど、かぼちゃは苦手だな。妙に甘くて」
「あんなうまいものないんだけどな。ま、いいや。適当に頼むぞ」
店員がおかわりのビールを持ってくるのにあわせて、たてつづけに食べ物の注文を出す。からあげやらサラダやら串カツやらなんやらで、かなりの量になる。
「無茶するな。ぼくはそんなには食べられないぞ」
「何を言っているんだよ。あたしが食べるんだよ。今日一日、競馬場だったからな。あー、腹減った」
大酒飲みの上に、大食漢か。呆れるな。
ぼくが軽くビールをすすると、後ろから大きな声があがる。
男四人が顔をつきあわせて、身近な女性について話をしている。サラリーマンらしく、あの人はきついとか、あの人はかわいいけれど、どこか距離を置いているとか、そんなことばかりだ。奥の男性はが話題になっている女性グループの一人と付きあっているらしく、時折、冷やかされている。
一方、ぼくらの横では、白髪の男性が一人で日本酒を飲んでいる。
うつむき加減で、表情は冴えない。着ている服もくたびれたジャンパーに、汚れが目立つスラックスで、見た目を気にしている様子はない。
ぼくたちがこの居酒屋に入ったのは、六時半ぐらいだ。日曜日だというのに、思いのほか混んでいるのは、競馬場帰りの客が多いからだろうか。
注文の声が飛び、店員が忙しげに店内を回る姿は、見ていて気持ちがいい。
「何を見回しているんだよ。居酒屋に入るのがはじめてってわけでもないだろう」
「ああ、競馬が終わった後には、よく行っていたよ。祝勝会と称してな」
「反省会の間違いだろ。今日だって、お前、ほとんど取れていないじゃないか」
「むずかしかったからな」
今日の中山競馬場では12レースが実施されたが、馬券を取るのがむずかしいレースばかりだった。
配当が少ない、いわゆる「堅い」と呼ばれるレースは一つしかなく、ほかは評価の高い馬が勝ちきれなかったり、勝ったとしても、2着とか3着に突っ込んでくる馬があまり人気のない馬だったりして、ねらいを定めるのがむずかしかった。
メインのレースは、四歳以上の馬が走るアメリカジョッキーズクラブカップだったが、ここも1番人気のフィエールマンという馬は負け、馬券は荒れた。
勝ったのは、7番人気のシャケトラ。
騎手がうまく乗って、勝利に導いた。
ちなみに名前のシャケトラは、鮭も虎もかかわりなく、イタリアの幻のワインのことを指すのだそうだ。
瀬川は、酒の飲み過ぎで大虎になるから、そういう名前をつけたんじゃねとか言っていたが、勘違いもいいところだ。
まったく、馬主さんに、あやまれ。
「あたしは取ったよ。あー、競馬で当たった日の酒はうまいなー」
「よく、あんなの買ったな。しかもワイドとか」
九レースの菜の花賞、瀬川は5番と9番を組み合わせたワイド馬券を購入し、1770円の配当を得ていた。
購入額は1000円だったので、17700円だ。
ワイド馬券というのは、二頭を組み合わせ、両方が一着から三着までに入れば的中となる馬券のことを言う。
1着、2着を当てる馬番連勝、さらには1着、2着の順番まで当てる馬番単勝に比べると、的中率が高く、それでいてうまく買えば、そこそこの配当金を手にできる。
単勝や、買った馬が3着にまで来れば的中の複勝馬券よりはむずかしいが、少額でも十分に楽しめるので、初心者には向いている。
「ピンと来たんだよな。あたしがタンタラスといったら、お前がポリアンサとか言っただろう。何か来るような予感がしたんだ。だから思いきり突っ込んだ」
「とはいっても1000円も突っ込むかよ。信じられんよ」
「当たればいいんだよ。だから、こうやって呑めるんだろ」
歯を剥きだしにして、瀬川はにかっと笑う。それが丸い顔の輪郭とよくあう。
データ派のぼくとしては、理不尽な思いがぬぐえないが、これが競馬だ。
直感であろうが、思いつきであろうが、当たるときは当たる。
どんなに調べて確信を持って買ってもダメなときはダメ。
きわめて非合理的で、割り切れないところがあるが、その歪みこそが競馬のおもしろさでもある。
ある意味、馬券の前では皆、平等だ。
どんな知識をひけらかしても、馬券が外れればそれまで。当たり馬券の前には沈黙するしかない。
しばらくビールをすすっていると、店員が注文していた串焼きがテーブルに並んだ。
湯気と刺激的な香りが食欲を誘う。
「おう、来たか、食べようぜ」
瀬川はがぶりついて、串焼きを食べる。ぼくもそれにならう。
「お前、串焼きはそのままか食べるのな。細かいからばらすかと思ったよ」
「しないよ。このままがいい」
「まったくだ。串を差すのも技術なんだから、それを楽しんでやらないと」
またたく間に、串焼きは消えてなくなった。
とんでもない食欲魔神だ。
「追加、頼んでもいいか」
「お、おう」
瀬川は店員を呼んで、串焼きをさらに頼む。声は大きいこともあり、よく透る。
明るい表情は、この場を楽しんでいるように思える。
ただ、どうにも引っかかる。
なぜ、瀬川はぼくに競馬を教えてくれと言ったのか。
先週に引きつづいて、今週も競馬場まで来ている意味はどこにあるのか。
裏があるようには思えないが、やはり割り切れない。確かめておく必要がある。
ぼくは、注文が終わったところを見計らって、思い切って口を開いた。
「なあ、瀬川、なんで、今日……」
「そういえば、今日も、お前の仲間、来ていなかったな。先週、見なかったから、今日はいると思ったんだからな」
「仲間?」
「サークルの仲間。お前たち、競馬サークルだろ。好きで集まっている奴らが、競馬場に来なくてどうするんだよ」
そこか。痛いところを突かれた。
ぼくが口をつぐむと、瀬川は丸い瞳をまっすぐこちらに向けた。
「余計なお世話かもしれないが、お前たちのサークル、大丈夫か? ここのところ、おかしいぞ。この間の合同イベントの時だって、打ちあげの後、一年生を引っ張り回して、家に帰さなかったんだろ。ま、オールでカラオケだったから、かまわないけれどさ。嫌がる女子を無理に連れて行くなよな」
「……それを言いたくて、今日、競馬場に来たのか」
「違う。これはついで。あたしは馬を見たいから来ただけ。それは本当」
瀬川の口調にためらいはなく、嘘をついているようには見えない。
こんなところで取り繕うタイプでもないから、本当に流れでの話だったのだろう。
ぼくは、ビールをようやく飲み欲すと、通りかかった店員にハイボールを注文する。
話を切り出したのはしばらく経ってからだ。
「ほかの連中は、多分、都内で呑み会をしているよ。打ち合わせしていたみたいだから。一人、金持ちがいるから、その家に集まっているかもしれないな」
「全員か?」
「行っていないのは、ぼくとあと二人かな。ま、そういうことだよ」
競馬サークルだったブリガディア・ジェラードは、この半年間で大きく変わってしまった。競馬のことはいっさい話さず、呑み会を繰り返し、週末は競馬場以外のどこかで遊んでばかりだった。他のサークルとの合同イベントも多く、土日には都内に繰りだしていた。
「うちとのイベントも、単なる酒飲み会になっていたしな。さすがにひどかったんで、次からは断るよ」
「いいんじゃないかな」
「やっぱり変わったのは、滝本先輩が卒業してからか」
「だな。しばらくは何とかしていたけど、夏前にダメになった」
滝本先輩は大学の先輩で、ぼくが入学したときには修士課程の二年生だった。
ブリガディアジェラードに入って、大学四年の時にはリーダーだったらしい。修士に残ってもよく顔を出し、後輩の面倒を見ていた。
競馬に詳しく、相当にマニアックなことでもすぐに答えてくれた。地方の小さな競馬場についてもよく知っていて、ここの騎手はとか、ここはコースの形がとか、事細かに語った。
それでいて、自分の知識を押しつけるようなことはせず、競馬への参加は当人の自主性にまかせた。無理に競馬場に連れて行くこともなく、土曜日には大学に残って、皆で騒ぎながらレースを見ることも多かった。
ぼくの競馬に関する知識は、滝本先輩から教えられたことが大半だ。血統に関する本を読むようになったのも、先輩の影響が大きい。
「先輩は、修士になっても、うちに出入りしていただろ。それを快く思わなかった人たちも結構いたらしい。競馬をダシにして遊ぶつもりだったけれど、先輩は真面目だったから、それを許さなかった」
「その反動が出て、卒業したら遊びサークルにチェンジか。なるほど、筋は通るわな」
瀬川はビールを飲みほすと、日本酒を頼んだ。
お燗とお猪口が出てくるまでの間、ぼくたちは沈黙した。
こっちはうまく話を切り出すことはできなかったし、瀬川も積極的に話すつもりはなかったようだ。
ようやく口を開いたのは、瀬川が燗酒をすすってからだ。
「で、お前はどうしたいの?」
「どうしたいっていうのは?」
「サークルをこのまま放っておくのかって話」
「……何とも言えない。けれど、競馬サークルととしてのブリガディアジェラードは何とか守りたい」
一人でも競馬場に通っていれば、サークルとしての体裁は保っているように思える。偽善なのかもしれないが、先輩からの意志は受け継いでいると考えたい。
だから、少し無理してでも、行ける競馬場には行く。
ダメでもレースを見るようにはしたい。
どこまでつづくかはわからないけれど。
「遊んでいる連中には声をかけないのか」
「かけたさ。でも、ダメだった」
もう一度、競馬場に行こうと説得して、約束まで取りつけた。しかし、先週の土曜日、彼らは来ずに、ぼくは一人で待ちぼうけをくらった。
落ち込んで一人でいたくなかった時、瀬川からメッセージが飛んできた。
だから、つい電話をかけてしまった。
「状況はわかった。見当はついていたけれど、そこまでひどいとはな。去年とはまるで違う」
「去年のこと、知っているのか」
「うちの先代会長と滝本先輩、仲が良かったからな。連れられて、あたしも何度か顔を出したんだよ」
「気づかなかった」
「だよな。こう、目を吊り上げて、パソコンをにらんでいた。あ、オタクがいると素直に思ったよ」
瀬川は指で目を吊り上げたみせた。
その表情がおかしかったので、ぼくは思わず笑った。
「まあ、しばらくは、一人でもやってみるさ。つづくかぎりな」
「仕方ないなあ。だったら、付きあってやるか。一人じゃ寂しそうだし、第一、資金がつづかないだろう」
「そんなことはない。当たるときだってある」
「だったら、見せてみなよ。今度は中山じゃないんだろ」
「来週から東京競馬場。だが、行かないよ」
「なんでさ」
「後期試験だろ。すっ飛ばしていくつもりかよ」
「ふん、本当に好きなら行けるだろ。付きあってやるからさ」
余計なお世話といいかけて、ぼくはやめた。
笑う瀬川を見て、なぜか気が変わった。それもいいかと思うようになっていた。
単なる酒の勢いのようにも思える。
それでも、去年の夏から心の底に根を張っていた重苦しさが少しだけ薄まり、これまで違った気分で競馬について考えることができるようになったのは確かだった。
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