第2話
「うー、さむっ。なんで、こんなに冷えるんだよ」
「そりゃ。一月だからな」
「風が強い。ひどい」
「競馬場の回りには高い建物とかないからなあ。ああ、これでも、船橋競馬場に比べると、はるかにマシ。あそこは海沿いだから、冬場はきつくてきつくて」
「船橋の話なんかしていないだろ。あたしは、ここが寒いって言っているんだよ」
瀬川朝陽は、脇の下に手を突っ込んで背中を丸めた。
白のダウンジャケットにジーンズ、黒のショートブーツに、ニットの帽子と、寒さ対策は万全だ。手袋もちゃんとしている。
風は吹いているが、さして強くはない。昨日に比べれば、そよ風だ。
それでいて、寒いとはどういうことだ。
ぼくが横目で見ると、瀬川は露骨に顔をしかめた。
「あたしは、寒いのが苦手なんだよ。ぴゅーっと風が吹いてくるだけで、震えあがる。あーあ、早く夏にならないかな」
「あと半年は無理だろ」
「くそっ。公転軌道を縮めてやりたい」
「そんなに言うなら、無理して来なくてもいいのに。どこか暖かいところで、テレビを見ながらインターネット投票をしてもよかっただろ」
「ダメ。こういうのはライブで見てなんぼだろ」
僕たちは、先週に引きつづいて中山競馬場にいた。
ちょうど正門をくぐったところで、目の前には六階建てのスタンドが壁のように建っている。
中山競馬場は千葉県にある競馬場で、年に四一日、中央競馬のレースが開催される。
敷地面積は六七・七平方メートル。はじめて来た時は、その広さに驚いた。
芝が緑に輝いていたのを今でもおぼえている。
コースは一周約一七〇〇メートルの芝コースと、同じく一四九三メートルのダートコースがある。陸上のトラックコースにたとえられることもあるが、実際はかなり歪んだ形だ。
このコースを馬が条件に応じて、半周したり、一周したり、一周半したりして、勝敗を競う。
幸い天気がいいこともあり、競馬場はやわらかい日射しにつつまれている。人の出足はよく、家族連れの姿も目立つ。
「スタンドに入るか。中は暖かいぜ」
「うーん、まあ、うーん」
瀬川はしばし辺りを見回してから、視線を止めた。
「いや、あっちに行こう。パドックだっけ? 馬が見たい」
「えっ、あそこは吹きっさらしだから、ここと同じぐらい寒いぜ」
「いいんだよ。馬を見ていれば、気も晴れる。行くぞ」
足早に瀬川の後について、僕はスタンドに寄り添うように用意されている空間に向かった。
すり鉢状になっていて、底にあたり部分に直線と円弧を組み合わせたちっちゃなコースが用意されている。一周は百メートルぐらいだろうか。
パドックだ。
ここにレース前に馬が出てきて周回し、観客にお披露目する。
時間は一五分から二〇分。大きいレースになれば、もっと時間は長くなる。
周回している間に、観客は馬の状態をチェックし、自分の予想に役立てる。
「いないな。まだ出てこないのか」
「そろそろだろ。レースも終わったし」
「最初はここで走るのかと思ったよ」
「JRAのCMかよ。ここじゃ、小さすぎるだろ」
「言ってくれなきゃわかんねえよ。お、来た」
地下道から馬が現われた。
全部で一四頭。馬の世話をする厩務員や調教助手に手綱を引かれて、反時計回りの周回に入る。
「近いよな。目の前を馬が歩いている」
馬の足音がはっきり聞き取ることができる。
いななく声も生々しい。
横目でちらりと見ると、まっすぐに馬を見る瀬川の顔が視界に飛び込んでくる。
表情は思いのほか真剣だ。その横にいるカップルみたいに、冷やかしているような空気は見受けられない。新聞を片手に熱心に馬を見ている。
正直、瀬川が何を考えているのか、よくわからない。
先週、あんなことがあったあげく、いきなり競馬を教えてくれと言われて、わけのわからないまま中山競馬場に来て、レースを生観戦することになった。
いろいろと訊いてくるので、知っているかぎりのことは教えた。馬券の買い方やレースの見方とか、結構、いろいろ説明した。
瀬川はこちらが思っている以上に、熱心に聞いて、馬券を買ったり、レースを見たりしていた。
こんな女だったかなと思う。
サークル交流で顔はあわせていたし、構内でも話をする機会はあったが、あまりいい印象はなかった。飲みの席でもひたすら呑んで騒ぐ。うるさくて、あっちこっち飛び回っているだけの女。そんなふうに見えて、親しくする気にはなれなかった。
それがここでは、意外なほど人の話を聞き、的確に質問してくる。よく物が見えているし、しっかり物事を考えているように見える。
よくわからない。口の悪さを除けば、普段とは違う人間のように思えてくる。
今日もわざわざ新聞を自分で買って、それを手にしながら馬を見ている。意外なほどの熱心さだ。
それがどこから来るのか、見えてこない。
何か理由があるのだろうが、今のところははっきりしなくて、そのあたりがずっと引っかかっている。
「う、さむっ」
瀬川は肩をすくめた。
相当に重ね着をしているらしく、身体のラインはかなり丸くなっている。ダウンジャケットはふくらんでいて、今にもはちきれそうだ。
ふと、先週の情景が頭をよぎる。
ベッドで見た時は、こんなことはなかった。思ったよりも身体は細くて、意外なほど肩から胸につながるラインは絶妙な曲線を描いて……。
「おい、何を考えている?」
「え、えっ」
「どうせ、いやらしいことを考えていただろ。ほんと、男はサルだよな」
何も言えない。
「ま、いいけど。責任はきっちり取ってもらうからな」
責任って、ぼくは本当にしたのか。まるで記憶にない。何か引っかかる。
ちなみに朝はしなかった。
といっても、理性を働かせた結果ではなく、チェックアウトの時間を告げる電話が鳴っただけのことだったが。
十秒でも遅れていたら、どうなっていたかわからない。あの時のぼくは頭に血がのぼっていた。
この一週間、何が起きたのかずっと考えていたが、まるで思い出せず、悶々としていた。情けない話だが、これが事実だ。
小さく息をつくと、ぼくは馬に目を向けて、じっとその動きを確かめる。
目の前を行くのは、青毛の馬だった。雄大な身体付きが目を惹く。首をゆるやかに上下に振って、力強い足取りで前に進む。
ちなみに、全身、黒い毛の馬を青毛という。さながら青く輝いているように見えるということらしい。
次の馬は小柄で、さかんに首を上下に振っていた。時折、前に走り出そうとして、厩務員の人が懸命に押さえていた。
一周、二周と馬が回る中、僕は一頭ずつチェックしていく。
「なあ、お前、馬の善し悪し、わかるか?」
瀬川の問いに、僕は素直に応じた。
「わからない。そこまで詳しくないし。専門家だって、よくわからないっていうぐらいだからなあ」
「どこを見ている?」
「自分にとっていい感じに思えるかどうか。それだけ」
「だよな。あたしも、そうだ」
瀬川は新聞を軽く叩いた。
「よし。あたしは五番で行く。タンタラスって名前もいい。あったかそうだ」
「ハワイの地名だっけ? なら、ぼくは九番のポリアンサ。いけそうだ」
そこで、号令がかかり、馬の周回が止まった。
控室から騎手が姿を見せる。整列して、一礼すると、自分の乗る馬に小走りに向かっていく。
これから騎乗した状態で、パドックを一周する。
それが終われば、レースをするコースに出て、出走を待つだけとなる。
さて、最後の確認だ。
ぼくはじっと新聞を手にして、パドックを行く馬を見る。
周回する姿はなんとも凛々しく、ぼくの自然と心が浮き立つのを感じていた。
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