競馬のある日々
中岡潤一郎
第1話
目元に残る妙な圧迫感を押しのけるようにして瞼をあけると、見なれない天井が視界に飛び込んできた。
薄いクリーム色の壁紙は汚れていて、あちこちに染みがある。右奥のはとりわけ大きく、さながら壁から天井に中心に向けて手を伸ばしているかのように見える。
オレンジ色の照明はやわらかく、見ているだけで、眠気が誘う。
本能に導かれて、僕は布団をかぶる。
そこで違和感をおぼえたのはその時だ。
うちに、こんないい布団はない。
真冬だというのに、ぼくの寝床には毛布しかなく、いつも丸くなって眠っている。買いに行くのは二月過ぎに安くなってからと決めていた。
敷き布団も異様にやわらかい。いつもの使い古しとは違う。
わけのわからないままに寝返りを打ったところで、僕は大きな声をあげた。
「うわああああ」
「うるさいぞ、馬鹿。いきなり大声、出すなよ」
女の子がいる。
しかも目の前に。
少し頭を前に出したら、額が触れそうなぐらい近くで横になっている。
僕はぱっと下がって、身体を起こした。
「な、なんだよ、お前。何なんだよ」
「何だとは失礼な。こんなかわいい女を目の前にして。昨日もいっしょに呑んだだろう」
「え?」
落ち着け。とにかく落ち着け。
僕の名前は、
身長168センチ。体重54キロ。身体的にこれといった特徴はなし。
家族は両親に妹が一人。
頭の出来はフツー。馬鹿でもなく、利口でもなく。
人と付きあうのは苦手じゃなくて、そつなくやっている。できる子だ。
よし。大丈夫だ。頭は回っている。
「何、パニックになっているんだよ」
女の子は笑った。
「あたしだよ。
そういえば、丸い顔と大きな瞳には見おぼえがある。
髪はショートボブで、どこか小動物を思わせる顔立ちによく合っている。
瀬川朝陽は、同じ文学部の二年生で、NACCSという英語サークルに属している。この夏ぐらいから、僕のサークルとNACCSのメンバーがよく行き来するようになり、それにくっついてくる形で瀬川もサークルの部屋に姿を見せるようになった。
とにかく活動的で、学校中を飛び回っている。学食にいたと思ったら、図書館に顔を出し、そのすぐ後で、また学食に戻って仲間と話をしていたりする。びゅんと目の前を影が走り抜けて、何事かと思ったら、ものすごい勢いで戻ってきた瀬川が声をかけてきたということもあった。
声は大きく、どこにいてもよく響く声で話しかけてくる。少し落ち込んでいようが、テンションが下がっている時でも気にしない。
表情も豊かで、楽しいことがあると、あたりを気にせず、大声で笑う。時には歯を剥きだしにすることもある。
いつも飛び回っていて、大声で話す女。それが瀬川朝陽だった。
「昨日、いっしょに呑んだ? お前と?」
「ひっでえなあ。あたしがイベントの件でメッセージを投げたら、いきなり直電してきて、外で呑もうって言ったんだぞ。しようがねえから顔を出して、ずっとつきあってやったのに、その言い草かよ。どういうこと?」
「おぼえていない……」
いや、電話をかけた記憶はある。
そうだ。昨日は土曜日だから、いつもと同じように競馬場に行って。仲間と会う予定だったら、そこでうまくいかなくて……。
ようやく記憶がまとまってくる。
「確かに、瀬川に電話をかけたような気がする」
「一人で寂しいとか言っていたぞ」
「そんなことも?」
「ま、何かこたえている感じだったからな。せっかくだから付きあって、飲んでやったわけだ」
そこで、瀬川は小さく息をついた。
「あのさ、一ついいか」
「何だよ」
「そろそろ、それ、隠してくれるか。目の前にあると鬱陶しい」
瀬川の視線を受けて、僕は下を見る。
そこには、何の衣服もつけていない、無防備な僕の下半身があった。
あわてて、布団に潜り込んで、丸くなる。
「な、なんだよ、これ」
「なんだよって……自分から脱いでおいてよく言うよ。ここに来るなり、どーんと押し倒して、あとはぱっぱっと脱いじまって。おかげで、変なはじまり方になって大変だった」
「はじまり方って……」
その時になって、ぼくは瀬川の肩が剥きだしになっていることに気づいた。ひどく白くて、細い。
胸元もはっきりと見てとれる。身体が横になっていることもあり、ふくらみが強調されている。
まさか、何も着ていないのか。
ぼくも瀬川も真っ裸で布団に入っている。しかも、ここは知らない部屋。
いったい、何が起きた?
考えられることはあるが……。いや待て、そんなはずは。
「びびるなよ、情けない」
瀬川がふふんと笑った。
「ここがどこだか、わかっているのか。いわゆるラブホ。お前が連れ込んだの」
「……冗談だろ」
「さんざん、あーんなことやこーんなこともやっておいてさ。こっちがくたくたなのに離さないで、寝たのは朝方だぜ。いまさら気にすることもないだろ」
ほ、本当に? 本当にやってしまったのか。
そんな馬鹿な。
確かに昨日は酔っていて、なんだか気が大きくなっていた。
帰りたくないとか言ったような気もする。
しかし、しかしだ。最後までやったのならば、さすがにおぼえているだろう。
だって、はじめてだったんだし。さすがに脱ドーテイの瞬間をすっ飛ばすほど馬鹿ではないと思いたい。
おそるおそる何が起きたかを確かめようとしたところで、瀬川が横になったまま肘をついた。
布団がはだけて、ゆるやかな曲線を描いた胸が目に飛び込んでくる。
「早くてごめんとか、慣れていないからとは言っていたなあ。もしかしてはじめてだったか?」
言えるか、そんなこと。
ぼくは視線をそらした。
「やっちまったものは仕方ないけれど、なんかなー。こういうの、うまくないよなー。同じ学校の女の子を酔ってラブホに連れ込んでやりたいことをやって、まったくおぼえていないなんて。鬼畜の所業だよなー。これが皆にばれたら、大変だよなー」
交流があったとはいえ、他のサークルの女の子に手を出したなんて知られたら、大変だ。ただでさえ浮いているのに、このことが知られたら、致命的なことになる。居場所がなくなってしまう。
「黙っていてやろうか」
「え?」
「あたしも他の奴らには知られたくないんだよ。面倒だから。だから、言わないでいてもいい」
ぼくは横になったまま瀬川を見る。
丸い瞳はまっすぐこちらに向いている。輝きは強いが、何を考えているのかはわかりにくい。
どういうことなのか。昨日のことはなかったことにしてくれるのか。
いや、それはそれで違うような気がする。
酔った勢いとはいえ、手を出したなら、ちゃんとしないとよくないような気がする。しっくりこない。
こういうところを割り切れないのは、自分が幼いからか。友達にももっとうまくやれと言われるが、何か違うと思う。
もやもやしたまま答えられずにいると、瀬川が先をつづけた。
「ただ、ここまで好きにさせておいて、何もなしっていうのは気に入らない。そうだな、一つ、こっちの頼み事を聞いて欲しい」
「何だよ」
「競馬を教えて欲しい」
「え?」
「お前んところのサークル、競馬関係じゃん。詳しいんだろ。前からやってみたいと思っていたんだけど、いろいろとむずかしくてな。だから、いちから教えて欲しいんだよ」
「そ、そんなことでいいのか」
思わず口に出てしまった。
ぼくの属するサークルはブリガディア・ジェラードといい、学校で競馬新聞を見ながらああだこうだ言ったり、競馬場に行ってライブでレースを楽しんだりしていた。夏休みには北海道の牧場に行って、競走馬や
歴史が長く、どちらかという硬派だったが、ここ半年で大きく雰囲気が変わって、ぼくは居づらくなっていた。
競馬については、高校の頃から知っていたが、このサークルに入ったおかげで、だいぶ鍛えられた。血統や海外レースの体系について知ったのは、去年、卒業した先輩に教えてもらったおかげだった。
ぼくも本当に詳しいことはわからないが、基礎中の基礎なら教えることできる。願ってもないことだが……。
そんなことでいいのだろうか。
何か間違っているような気がしないではないが……。
「どうなんだよ」
僕がだまっていると、瀬川が顔を寄せてきた。
甘い香りが鼻をつく。近い。近すぎる。
「わ、わかった。やるよ。それでよければ」
「サンキュー。助かったよ。いい頃合いだと思っていたからな」
瀬川は笑った。
軽い。
やることやってこれでいいのか。
女の子にとって、Hはこんなに適当なものなのか。
それとも何か裏があるのか。
見た目だけではないと思った方がいいのかもしれない。きっと、そうだ。
「それで今日、レース、あるんだろう。さっそくやってみようぜ」
「ああ、そうだ。
今日のメインレースは、関東では京成杯。三歳限定の芝1600メートルのGⅢだ。ちなみに関西は、芝1200メートルのオープン競争である淀短距離ステークスとなる。
どちらもむずかしくて、おもしろい。
「ええっと。新聞は……」
「そんなの後でいいよ。現地に行ってから詳しく聞くよ」
「でも、向こうは忙しいし。簡単には……」
「お前、真面目だな。こんなところで、そんなに気を使わんでもいいのに」
瀬川は呆れたように首を振った。
「まあ、いいや。じゃあ、一つ聞いておこう。一番、簡単な馬券は?」
「えっと、いくつかあるけれど……」
「むずかしい説明はいい。競馬は用語が多くて、全部、理解してからやるのは無理だ。とにかく直感で簡単にわかるやつから頼む」
「だったら、単勝だな。一着になる馬を当てる。それだけ」
煎じ詰めれば、競馬なんて人のかけっこと同じだ。主催者がいて、彼らが一定の条件で馬を集めて、競馬場のコースで放り込んで競わせる。
条件はさまざまだが、どの場合でもレースであることに変わりはなく、順位、競馬の用語では
それを僕たちのような観客がギャンブルの対象とする。
順位を予想して、そのとおりになれば、配当金を得る。
逆に読みが外れれば、お金を失う。
京成杯はレースの名前だ。千葉県にある中山競馬場というところで実施される。
出走する馬は一二頭。このうち勝つのは、よほどのことがないかぎり一頭だ。
そのうちの一頭を選び出し、その馬が一着でなることを予想する馬券を買う。
それが単勝馬券となる。
買い方はもちろん自由だ。12頭すべての馬券を買うのもOKだが、それだと儲からない。
二、三頭を選ぶやり方もあるが、とりあえず一頭を選んで、その単勝馬券を買うのがわかりやすい。
競馬場で買えば、馬の名前が入った馬券が手に入るので、記念にもなる。
「ふーん。確率は八・三三パーセントか。思ったよりも高いのな」
「それがうまくいかないんだよ。これは来ないっていうのもいるから、もっと確率は高いんだけど、なぜかう当たらない」
これで何度、痛い目にあったことか。
ぼくはふっと息をついた。
単勝馬券は誰にでもわかる単純な馬券だ。
馬のことがわからなくてもいい。誕生日で買ってもいいし、思い入れのある数字でもいい。
みんなとわいわい話ながら、番号を選んでもいい。
好きに買って楽しむ。すべてはそこからだ。
「なるほどね。いろいろやってみるか」
「だったら、そろそろ行こう。時間は……」
ぼくは身体を起こそうとしたが、その腕を瀬川が押さえた。
「その前にだ、いいのかよ。このまま何もなしで」
「え?」
「あたしたち、こうして素っ裸で寝ているだけど。ラブホで。何もないまま行っていいのかって」
しばらく間を置いて、身体がかっと熱くなる。
意味がわかった。
何かするって……したいか、したくないかでいえば、するべきだと思うけれど。
いや、だけど、付きあってもいないのに。
流れでやるのはどうなのだ?
ぼくは懸命に理性をかき集めた。
駄目だ、絶対。
「いい。しなくて。するなら、流れでなくて、ちゃんと……」
「面倒な奴だな。あたしはこっちに訊いているんだよ」
瀬川の指がぼくの下腹部に触れる。それだけで身体が跳ねる。
「思いきり反応しているじゃねえか。いいのかよ、このままで」
よくはない。よくはないけれど……。
「さあ、どうする」
瀬川の視線は、敏捷な肉食獣のようだった。
瞳の輝きが強い。
ぼくは身体をこわばらせながら、口を開いた。
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