迎春
木星トライアングル
迎春
男はその日散歩に出かけた。別に何か用事があったわけではない。ただ正月休みに家でテレビを眺めていることに飽きてきたので、少し先のスーパーにでも行こうと思ったのだ。
1月なので外は少し肌寒かったが、風は吹いていなかったのでつらいと言うほどではない。吐く息は白く、空には灰色の雲がぽつぽつと浮かんでいる。彼はマフラーに口を埋めて少しうつむきがちに歩いた。
途中自転車に乗った少年が彼の横を追い越していった。この時期は雪道で滑りやすいというのに、少年は勢いよく自転車を走らせていた。彼は何をそんなに急いでいるのだろう。友達との約束があるのだろうか。彼女との待ち合わせに送れそうなのか。それとも走ることに意味などないのだろうか。
正月というおめでたい時期であるにも関わらず、ぽつぽつと家が建っているだけのこの辺はあまり活気がない。せいぜい家の玄関に玄関飾りがひっそりと飾られているだけだ。そういえば正月というのにおせちどころかまだ雑煮すら食べていなかったな。帰りに餅でも買って帰ろうか。
そんなことを考えながら歩いていたが、ふとした違和感を覚え、隣の建物を見てみると、そこは昔からある古い時計店だった。しかし店のシャッターは下りていて、そこには閉店のお知らせと書いた張り紙が貼られていた。窓から店内をのぞいてみると中にあったはずの時計は全て片付けられていて、店の中には何も残っていなかった。
「ここのお店、今年の7月くらいにやめちゃったんですよ」
そう彼に声をかけてきたのは近所に住む女性だった。年齢は30代くらいで、彼は彼女が幼稚園くらいだったときから知っている。顔見知りであるため、たまにこうして道端で会うと軽い挨拶をする。
「私が子供の頃からあったお店なので少し寂しいです」
この時計屋は彼女が子供だったときよりもずっと前、彼が子供だったときよりも前からあった店だ。彼が小学生の頃ここは通学路であったため、毎日店の前を通っていたのだが、店の中に入ったことは一度もなかった。入ろうと思ったこともなかった。ただ、ガラス越しにいくつもの種類の時計が並んでいるのを見て、なぜだか不思議な気持ちになったことだけは覚えている。
そうか、閉店していたのか。
ここはわりと近所だったが、通勤のときは通らない場所だったし、最近はこうして散歩に出かけるといったこともなかったから気づかなかった。
「どちらに行かれるんですか」
途中までご一緒してもいいですか、と言われ彼は彼女と途中まで一緒に歩くことになった。
「隣に住む中田さんから聞いた話なんですけど」
歩きながら彼女は店が閉店した経緯を男に話した。
「元々お店を経営していた方が亡くなられて、それからは息子さんがお店を経営な さっていたみたいなんですけど、もうほとんどお客さんも来ないし、経済的にも苦しいからお店をたたむことにしたそうです」
彼が生まれたときにはあった店なのだからもう40年以上経営していたはずだ。店主に会ったことはないが、亡くなってもおかしくない年齢だっただろう。とはいえ、店を残して死ぬことになった店主はきっと心残りだったに違いない。
「まあ、仕方ないですよね。今時わざわざ時計屋に行って時計を買う人も少ないでしょうし、息子さんも結婚してお子さんもいるそうですし」
結婚して子供もいるのだとしたらやはり安定した収入のある仕事をしていないと厳しいだろう。学校からは高い授業料を取られ、さらにいい高校、大学に進学するためには塾に通うことが必須とされる時代だ。夫婦で働いていたってお金は足りない。
赤信号のところで二人は立ち止まる。他に外を歩いてる人間はなく、目の前を数台の車が少しの間隔を開けて通り過ぎていくだけだ。
信号の向こう側にはコンビニがあり、駐車場には一台の車が停めてある。昔は品揃えの悪いローカルコンビニだったのだが、気づいたらいつのまにかセブンイレブンに変わっていた。一人の男がビニール袋をぶら下げコンビニから出てくる。停めてある車に乗り込み、車が駐車場から出て行くと、コンビニの前はすっかりがらんとした雰囲気になった。
「店のあった土地ももう売り払っちゃうらしいです。まだ買い手はついてないみたいですけど」
信号が青に変わり、二人は再び歩き始めた。コンクリートの上を歩く二人の足音が聞こえるくらい周りは静かで、さっき二人の横を通り過ぎていった車のエンジン音が今でも遠くから聞こえてくる。
「あそこに新しいお店ができたら便利ですよね。文房具屋ができたらペンとかすぐ買いに行けるし、雑貨店ができたら楽しそう。ちょっとレトロな喫茶店とかも素敵かも」
コンビニはもういらないかな、と彼女は付け足すようにつぶやいた。
「どんなお店ができたらいいと思いますか」
彼女は男の顔を見て尋ねる。
そうだな……文房具屋ができたら仕事で使うペンとか買ってもいいだろうし、雑貨店ができたら気晴らしに行ってみるのもいいだろう。雰囲気のいい喫茶店でマスターの入れてくれたうまいコーヒーを飲むのも悪くない。
だが、どの店ができたら嬉しいということもない。文房具が必要になったらイオンによったときに買えばいいし、雑貨店なんて滅多に行くことがない。コーヒーだったらスタバのコーヒーでも十分うまい。
結局、どんな店ができたとしても自分はその店を訪れることはほとんどないだろう。あの時計屋が何に変わろうが自分には何の関係もない。だとしたら何の店ができればいいか、なんて考えたところで意味のないことだ。
ただ、それでもあの場所にあって欲しい店があるとしたら……。
「私、こっちの方なのでここで失礼します」
交差点で女と別れ、男は再び一人で歩き始めた。ここからスーパーまでは一本道だ。顔をあげてみるとずっと先に、最近できたばかりのやたら高いビルが見える。スーパーまでの道の脇には相変わらず寂れた店と古くさい家々が並んでいる。男は再びうつむきがちな姿勢で、ときどき道に落ちたたばこの吸い殻なんかを見つめながら歩いた。
スーパーで酒と餅、それにたばこを買ってスーパーを出た後、近くにあったベンチに腰を掛けた。箱から一本たばこを取り出し、ライターで火をつけたばこを吸う。ふぅ、と男の口から吐き出された煙は灰色の空へと消えた。さっきよりも雲は出てきているのに、しばらく雨は降りそうにない。そんな空をぼーっと眺めていると、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる、その音はだんだんと近づいてきたが、救急車は側の道路を通ることなく、サイレンの音はやがてどこか遠くへと消えていった。
「ハッピーニューイヤー」
男はそう呟くと、吸い殻を近くの灰皿に捨て、家に向かって歩き始めた。
迎春 木星トライアングル @mokuseitrianglekuro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます