つくえふきクロニクル

きうり

本編

 出勤すると、すぐに皆の机を拭く。

 それは新人の頃からの習慣だった。別に、誰かから強制されたわけじゃない。まして、拭き掃除が好きなわけでもない。ただ、家が会社から遠いので早め早めの出勤を心がけていたら、常に僕が一番乗りというのが常態となってしまったのだ。で、新人が早めに出勤してきたとなれば、皆の机くらい拭いとかなくちゃな……という気持ちにもなる。それが続くうちに、何となく朝の机拭きは僕の役目のようになった。

 あくまでも、ただの習慣である。消極的な理由から続けているに過ぎない。

 それでも、楽しみがないわけではない。出勤してきたK子さんとあいさつを交わせるのは、何よりも嬉しいことだ。

「あ、K子さん。おはようございます」

「おはよー」

 部署は同じでも、シマが違うため会話の機会は決して多くない。しかし、彼女はいつも僕の次くらいには出勤してくる。だから毎朝、この瞬間だけは二人きりであいさつできるのだ。

 彼女の家は、会社からそう遠くない。だからもっとギリギリの時刻の出勤になってもよさそうなものだ。彼女の早め出勤の習慣は、その真面目さと規則正しさゆえに身に付いたのだろう。

 K子さんのことをひとことで言えば、「才媛」である。また、もし四文字で言い表すとするならば、これはもう一つでは済まない。頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備、明朗快活、元気溌剌――。これは贔屓で言っているのではない、社内の誰もが認めていることだ。驚くなかれ、こういう人が世の中にはいるのである。

 K子さんは僕よりふたつ上のお姉さんである。いくつもの試験を突破してさまざまな資格を持っている彼女は、その知識を仕事でも活用しており、誰からも信頼されている。その上、性格もいい。物怖じせずはきはきしているが、さっぱりしていて意地悪さや陰湿さは微塵もない。誰とでも公平に言葉を交わすし、その知性を鼻にかけることもない。

 これで、好きになるなというのが無理な話だ。

 彼女は、僕のようなボンクラの文弱青年にも話を合わせてくれる。その聡明さと気立ての良さは、まったく眩しいほどだ。

 初めて会った時、こんな人が本当に存在するのかと信じられない思いだった。だから、今の部署に配属されたことは本当にラッキーだったと思う。席は離れているものの、彼女の近くで働けるのは純粋に幸せなことで、僕は心の中ではK子さんのことを女神と呼んでいる。

 今日この日も、あいさつを交わしてから、僕はひとことだけ話しかけた。

「K子さん、今朝は眠そうですね」

「ん……そだねー」

 彼女の弱点は、僕の知る限りひとつだけ。朝に弱いということである。それを知っているのも、まだ目が覚め切っていないK子さんと一番に会うことができる僕だからこそだ。普段は明朗快活を絵に描いたようなK子さんが、低血圧で瞳を曇らせ、ほんの少しではあるが機嫌が悪そうに見える。そんな姿を見ることができる人間なんて、社内でもほとんどいないだろう。

「どしたの、じっと見て。もしかして寝ぐせひどい?」

 どろんとした瞳でこっちを見つめ、軽く笑いながら髪を触る。毎朝出勤前に濃いコーヒーを飲んで意識をシャッキリさせてくるのだ、とK子さんは前に言っていた。今日も、ほどなくカフェインが効いてきて、彼女はいつもの「才媛」モードへ切り替わるだろう。

 こうして僕の一日は始まる。


 そんな日々が、しばらく続いた――。


 K子さんが会社を辞めたのは、僕の机拭きの習慣が五年目を迎えた頃だった。

 朝の社内では、ただ机を拭く僕だけが残った。

 K子さんのいないデスクは、まるでぽっかり空いた穴のよう。そこに座った後任の人は男性で、面白くもなんともなかった。

 会社は、退屈なだけのただの建物となった。別に、仕事が嫌なわけじゃない。ブラック企業というほどひどくもない。それなのに、出勤した途端に即座に「ああ今日はもう帰りたい」と考えるようになってしまった。

 そんな状況に変化が生じたのは、さらに二年経ってからのことだ。

 もともとK子さんが座っていた席に、また別の人が異動してきた。S美さんという女の子である。

 僕より四つ年下で、まだ前年に入社したばかり。ムードメーカーという言葉がぴったりのキャラクターで、初々しさと元気の良さが微笑ましい、小動物のような女の子だった。

 子供っぽい雰囲気とは裏腹に、頭の切れ味はなかなかのものだった。かつてのK子さんほどではないものの、その思考の回転の速さは実に頼もしく、彼女は仕事をきっちりこなしていった。

 ただ、S美さんには一つだけ不安要素があった。

 噂によると「男好き」らしいのだ。

 本人は、恋愛についてはいたって真面目らしい。しかし、いささか積極的に過ぎる彼氏探しは失敗も多く、それで「遊んでいる」と陰で言われるような結果になっているのだ。

 本人も、少しは自覚があるようだった。それでも情熱と行動を抑え切れないのは、やはり若さのゆえなのか。

 で、どうしてそれが僕にとって不安要素なのかというと……。

 このS美さん、毎朝、僕よりも早く出勤してくるのだ。

 しかも、僕よりも先に机を拭くのである。特に、僕の机はいつもいの一番に拭いてくれる。理由は、僕がどんなに早く出勤してきても大丈夫なように……ということらしい。

 さらに、僕が朝一番のS美さんに続いて「朝二番」で出勤すると、必ずあちらから先にあいさつをしてくるのだった。どんなに遠くからでも、僕を見かけると先手必勝とばかりに元気よく、

「あ、D助さん。おはようございます!!!」

 と来る。僕はと言えば、あまり距離が遠いと大声のあいさつは恥ずかしく、もっと近づいてからやっと返事をする。

「……おはよー」

「大丈夫ですか? 今朝は眠そうですね」

「うん、まあね」

 こんな言葉を交わしながら、この会話どっかで聞いたことあるぞ……と僕はと心の片隅で思っている。

 可能性の問題、と思っていただければ結構である。

 かつての僕と鏡映しの行動をとるS美さんの瞳には、奇妙な光が宿っているように見えるのだ。まるで朝一番に僕と会えることが何よりも楽しみであるかのような、ある種の情熱を感じさせる光である。

 また、少し思い返してみると、他にも怪しげな心当たりがなくもないのだった。仕事中、S美さんとはよく目線が合うのだ。大抵、あっちが僕を見ているのである。

 こういう状況について、僕は、ある飛躍した推論を立てている。その推論について考えると、もしかするといささか自意識過剰だろうか? とも思うので、だから僕は、これはあくまでも確証が持てるまでは可能性の問題なのだ可能性の問題なのだ……と自分に言い聞かせている。

 そして、その可能性について思う時、僕の頭の中では決まって「連鎖」という言葉が浮かぶのだった。机を拭く人から拭かれる人へ向けられる思い。あるいは、拭かれている人が拭く人へ向ける思い。机を拭く、などという些細な行動が生む思いもまた、連鎖する感情の一部なのだなと思う。こうして僕の勤める会社は、ひとつの机を介して、仕事や習慣や感情をも、連鎖的に社員へ引き継がせてきたのだろう。

 とはいえ、つながる連鎖もあれば、つながらない連鎖もあるのだ。

 仮に、S美さんの感情が、僕にとって危険な可能性そのものだったとしよう。もしそれがはっきりしたとしても、きっと僕はそれについて見て見ぬふりをするに違いない。おそらく、完全無視という最も残酷な行動を取るだろう。その場合はかわいそうではあるが、彼女の感情はどこにもつながらないのだ。

 なぜなら僕には妻がいる。才色兼備にして明朗快活の才媛だ。「今日はもう帰りたい」と、夫をして思わしめる積極的理由。僕が二年かけて口説き続け、ようやく手にした何物にも替え難い宝物である。そう、彼女はプロポーズの時にこう答えてくれたのだ――。

「本当はD助くんと朝一番にあいさつしたいから、無理して早起きしてたんだよ。でもこれからは、無理しなくても毎日あいさつできるんだね。朝も夜もずっと……」

 これを聞いて、ああ、と僕は感嘆して泣いた。そして今まで僕がやってきたことは単なる「机拭き」ではなかったのだと知ったのだった。机を拭くという、まことに地味な形で、実は僕は愛を磨いていたのである。


(おしまい)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つくえふきクロニクル きうり @cucumber1234

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ