せんぱい

まっ茶。

最後の3分


「次は米原。米原」

 無機質な電車のアナウンスに連日の卒業式準備で疲弊した心が跳ね起きる。彼が乗ってくると思うと眠気なんて忘れてしまった。

 2車両編成の1車両目。7人がけの座席の一番右。ここが私の特等席。

 東京には通勤ラッシュというものがあるらしいが、右を見れば畑、左を見れば畑のこの街にはそんなもの存在しない。毎朝、悠々と7人がけの一番右に座ることができる。

 この電車に乗る人はみんな指定席を持っている。正面には中学生と思われる2人組の女子。右端にはサラリーマンのおじさん。いつも真ん中の扉の前で立っている美人のお姉さん。

 そして、鈴鹿学園前で私の隣に座る男の学生。

 今日も来る!


 プシューという気の抜けた音。スカートを整え右端に詰める。

 扉がゆっくりと開き、外から入ってくる春一番が前髪を乱した。せっかく整えたのに。前髪を整える振りをしながら、ちらりとドアを見ると、同じく乱された前髪を整えながら彼が入ってくる。前髪を梳かす仕草が同時であることに頬が緩む。


 ゴトン。扉が閉まる。

 トンと私の隣に腰掛けた。途端に左腕に体温を感じる。彼の学ランと私のブレザーがもどかしく擦れる。彼が単語帳を1ページめくる度に、スマホの画面を撫でる度に、眠たげに船を漕ぐ度に、彼のシャンプーの匂いがする度に、五感が私に訴えかける。1度たりとも合わない視線が想いを煽る。


 制限時間は3分。

 彼が乗ってくる米原駅から私が降りる八田学園前駅まで、1駅ぶん。唯一の私たちの繋がり。


 私が高校1年の時から彼はいたのだと思う。というのも、その頃は全く関心がなかったため覚えていないのだ。

 なんとなく2年間隣に座ってわかったことがある。まず、彼は隣町の進学校に通っていること。英語が得意なこと。彼女がいること。サッカー部だということ。そして、高校3年の先輩だということ。

 制服。ボロボロの英単語帳。鞄についたペアストラップ。鞄の隙間から見えるサッカーユニフォーム。自分で自分をきもいなぁ、と思うと同時に人が他人に与える情報量の多さに感心してしまう。


 しかし与られる情報は無慈悲である。だから嫌が応にも知ってしまうのだ。

 いつもより多目のワックス。3月頭の今日の日付。何も物が入っていない手提げ鞄。丁寧に拭かれたローファー。一番上までボタンのしまった学ラン。

 ああ、今日で3分間は終わりなのだ。彼は今日卒業するのだ。一切の言葉も交わすことなく終わり。

 いつかこうなると分かっていたけれど、いざその場に立たされると心がずしりと重くなる。つんと鼻の奥が痛む。やばい、泣きそう。鼻から大きく息を吸い込み、奥歯を噛みしめる。間違えてしまわないように瞼を閉じた。

 ゆっくりと息を吐く。そして、吸う。吸うたびに彼の匂いがくるしくて息を吐く。吐くたびに左側の温度が近くなり息を吸う。


 早くこの時間が終わって欲しい。このままならば私は堪えられなくなる。匂いや電車の揺れが鮮明に彼を呼び起こす。見えない瞼の裏に隣の彼が映る。2年間見続けた姿は消したくても消えてはくれなかった。



 ねぇ先輩。先輩って呼んでもいいですか?


 ねぇ先輩。好きな食べ物はなんですか?


 ねぇ先輩。嫌いな科目はなんですか?


 ねぇ先輩。どの学校に進学するんですか?


 ねぇ先輩。彼女さんとは仲良くしていますか?


 ねぇ先輩。どうしていつも隣に座ってくれたんですか?私の事覚えててくれましたか?


 ねぇ先輩。明日から誰の隣に座るんですか?


 ねぇ先輩。先輩って呼んでいいですか?



 幻の先輩に呼びかける。幻の先輩は返答もせずただただ横に座っていた。聴きたくて聴きたくて話しかけたくて、この幻の空間に取り残されていたかった。


 肩を叩く振動で幻がふっと消えた。

「着きましたよ」

 見知らぬ声に揺られ目を開く。

「着きましたよ」

 再度声が聞こえた。そこは八田学園前駅だった。その声の主は先輩だと気が付く。触れらてた肩が熱を帯びる。想像よりも低くてハスキーな声。1音1音が区切られた柔らかい滑舌。

「あ、ありがとう、ございます」

 急いで鞄を拾い上げ立ち去ろうとすると、ぺこりと小さく会釈する先輩と目が合う。いっそ、この目から私の想いが全部伝わればいいのに。恋愛ソングの一節のような甘い言葉が脳裏をよぎる。

 たった1秒。初めて視線が交わった。開いた目からポロポロと涙が溢れそうになる。急いでお辞儀するように下を向きお礼を述べる。

「ありがとうございました」

 ぱっと顔を上げ電車から飛び降りた。春になりかけと言ってもまだ寒い外気にさらされ、引いていく熱に切なくなる。

 2年間毎日ありがとうございました。好きでいさせてくれてありがとうございました。

 目の前を去っていく、ガラガラの電車をじっと見つめる。溢れる涙を止めようともせず、拭おうともしなかった。電車が去ってからも動けなかった。去った電車が私たちの3分を持って行ってしまった。涙も蒸発してしまった。


「先輩。あのね、好きでした」

 いつもの二番のりばに立ちぽつりと呟いてみる。

 もう来ない電車が持って行った3分をここに置いておきたかった。

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