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「地獄からさよなら」の真犯人とは誰なのか?

 オープニングから一貫した「そっけなさ」


 人通りの激しい往来の隅に放置された、くたびれて煤けた紙袋を意味ありげに映し出し、何かが起こるのかと思わせておいてからゆるゆるとカメラが引き、"退屈"なオープニングクレジットが始まる。クレジットが終った途端、「時間が来たから」とでも言うように、義務的なほどのそっけなさで唐突な爆発が起こり、あたりが煙に包まれ、負傷者や死人が何人も出たらしいことが土埃のはざまから垣間見える。そのまま画面は暗転し、"何の工夫もない"縦書きのフォントでタイトル『地獄からさよなら』が浮かび上がり、そのそっけない簡潔さがあらためて義務的な印象を与える。


 この困惑させられるほどのぶっきらぼうさ、そっけなさ、簡潔さというのは城井監督のこれまでの作品にも通底する印象ではあったが、今作は、前述のオープニングから結末に至るまで、その感覚がちょっと異様なまでに先鋭化されている。元から賛否ないし好悪がくっきり分かれる監督ではあったが、そのうち批判の大方はこのタッチに由来していると思う。確かに、場面転換ではカットのつなぎ方が映画として破綻しているように見える。ひとつのシーンの中でも、つながりそうにもないサイズのショットをつなげてしまう荒業を見せる(それを何とか「つなげてしまう」あたりが凄いのだが)。クライマックスの会話シーンではミステイクではないかとさえ感じられるショットが平気で使われていたりする。疾走する車を追うカットは車の軌道とパンの速度が噛み合っていない。台詞は棒読みに近い。映画の基本である切り返しショットも「面倒くさい」と言わんばかりに、”適当”なタイミングで編集されている(適当という言葉は不適当かもしれないが……)。作中の停電シーンでは真っ黒な画面のまま会話が続く。そして曲がりなりにもミステリー映画として宣伝されている今作で最も重要な場面とされるはずの、爆弾犯の正体が明かされるシーンにおける照明などは、まったく役者の顔を映すつもりがないように見える。声によってその人物が何者であるかは一応了解されるのだが、観客からしてみれば靄が晴れないような気分で、核心に至ったという心地良さも得られず、一向に落ち着かないままその場面は終わってしまう。


 不思議な演出


 こういう妙な演出(というか、演出を拒んでいると言った方が正しいのかもしれないが)について訊かれたとき、必ずはぐらかしたような冗談めいた説明をする、監督本人のキャラクターというのも、元より彼女の映画を好まない立場の人々を苛立たせているようである。「私がいなくても私の映画は成り立つ(※1)」というあの有名な発言の解釈については、すでに多くの人が(賞賛にしろ擁護にしろ批判にしろ)面白い文章をそれぞれに書いているのであえてここでは踏み込まない。踏み込まないが、言葉を額面通りに受け取りすぎる人は映画を見るのに向いていないのではないか、とだけ述べておく。


 なぜこの監督の映画が必ずこんな風に撮られているのかを論じようとすれば、かなりの紙面を費やさなければならない。少なくともここでは新作『地獄からさよなら』のことを重点的に語っていきたい。まずはこの一作と真摯に向き合うべきだろう。


 そこはかとない絶望の眼差し、批評感覚


 城井監督の映画は常にそうだったが、画面で語られていることを丁寧に追っていけば、日本社会ないしは我々の周りに広がる世界について、表面的なぶっきらぼうさとは裏腹に繊細な問題意識が浮かび上がってくる。問題意識というか、問題へ向けられた視線のようなもの。役者の眼を捉えたカットの多用からも分かるように、城井映画は眼差しの映画でもある。女性を主人公に据えるようになってからの城井映画はいよいよ視線の鋭さを増しているように見える。鋭さと言っても、それは誰かを咎めるような、きつい眼差しではない。ただカメラをそこに向けるような簡潔さでもって、世界の本質を誰よりも素早く了解してしまうような眼差し。その視線には愛も憎悪もない。無視ではないが、傍観……というか諦観に近い、もっとはっきり言えばそこはかとない絶望のようなもの。「世界はそうであるようでしかない(※2)」という一貫したテーマ。タイトルにもある『地獄』とは、もちろん我々の暮らすこの社会それ自体である。


 城井美紀が小説の実写化を手掛けるのは初めてのことだが、他人の書いた物語を手掛けることでその作家性は薄まるどころか、むしろ原作小説(※3)への批評性さえ込められながら深化している。この掴みどころがない映画監督の隠れテーマとして何度か指摘されてきた、セックス/ジェンダーへの違和感ないし異物感、もっと言えばポスト・フェミニズム的な批評感覚(※4)も、脚本や筋書きからではなく、役者が発話するところの言葉や身体性をもって画面に刻み込まれている。それは主人公・早紀から爆弾犯ではないかと嫌疑をかけられる、主人公の同僚・由利が迎える最終的な運命――原作小説と180度異なっているとさえ言える――や、早紀が由利の両親と邂逅する場面に如実に表れている。今作において由利の登場している場面はすべて素晴らしいが、そのひとつひとつの台詞(ほとんど映画オリジナル)の切れ味ならびに役者の身体性を活かした画面構成はさりげなく凄味がある。現代社会の中の、自分にとって最も「ちょうどいい場所」に身を置き、その自らのありように満足しているようにも見える一方で、同時にまったく納得していない女性たち――凡庸な処世術と頑固な反逆、二重性をもって分裂した身体は、切り返した瞬間にふとポージングや立ち位置あるいは衣装すら気まぐれに変えてしまう役者たちの姿をもって観客に了承されるだろう。


 世界の二重性、爆弾犯とは誰か


 さらには、この二重性――相反するものが重なり合っている、世界のもっとも複雑なありようをひとつの画面に落とし込んでしまえるのがこの監督の才能であり、優れた批評感覚そのものである。主人公を演じる多田里香が、彼女史上ベスト・アクトによって体現する、無防備なほどの無垢さと狡猾さ。世界の絶対性(そうであるようでしかない)と唐突に姿を現すバグのような落とし穴。対話の可能性と修復不可能なコミュニケーション不全。男性性と女性性。必然と偶然。事実と虚構。この映画のタイトル『地獄からさよなら』も、地獄に別れを告げているのか、地獄に所在しているから別れを告げられているのか判然としない(恐らくその両方ではないかと思うのだが……)。この二重性のなかで、無差別な爆弾が巻き起こす混乱も、社会から表出する最も陰惨な暴力性と、地獄のような世界に開けられた風穴という二重性をもって理解される。


 では、”爆弾犯”とは誰なのか? 加害者性と被害者性を兼ね備えながらわれわれの世界に属している人物……それは、主人公の上司であり、隣人であり、アパートの大家であり、コンビニのバイト店員であり、同僚・由利であり、由利の両親であり、卓夫であり、加奈子であり、バスの運転手であり、大学時代の同級生・郁美であり、刑事・須藤であり、もちろん主人公の早紀でもある(中盤でふいに挿入され、多くの観客を混乱させている"夢のシーン"も、繰り返し見るとかなり露骨に"真相"を語っていることが分かる)。……この社会から切り離されて生きている人間など一人もいないのだから、われわれ全員であり得るし、この物語の全員がその罪を負っている。犯人の顔が茫洋として画面に映されないのも、それは誰でもあるということを暗示している。表面上の真犯人とされる登場人物は、われわれの罪を一身に引き受けて死んだに過ぎない。彼がそのような運命を背負った人間であるということは、実は登場シーンを見ているとよく分かるようになっている。それと同様に、映画のクライマックスで早紀が選ぶことになる衝撃的な"決断"も、実は最初から暗示されている。冒頭の場面において"彼女が何に目を奪われていたか"を思い出してほしい……なおかつそれは突拍子もない行為に見えて、きちんと動機がある(彼女自身が爆弾犯なのだから)。


 ちなみに今回の企画が持ち上がったときの初期タイトル案は『地獄から、さようなら』だったそうだが、そんな丁寧な挨拶より、『、』と『う』を抜いた現在のそっけないタイトルのほうが、この監督の作風に似合っている。


※1——『瀬戸浩平、城井美紀監督の演出に「正直、困惑」』映画ポスト、2016年5月22日閲覧

※2——中田弓雄『友人としての映画』2013年、角閃社より引用

※3——久瑠ゆかり『フロム・ヘル』2011年、円環書房

※4——角閃社『地平』2015年6月号、崎田富雄『城井美紀『タイムレス』のにはいない女性たち』など

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