宛名のおまじない

 あのあと、大丈夫だったろうか。

 自分がしたことは、正しかったろうか。

 そんな考えが、眞琴と別れてから頭から離れない。美紗のときもそうだった。あのくらいの年頃の子達と接するのはどうにも良くない。俺には毒だ。

 家に帰るとリビングには夕飯が置いてあって、母さんが父さんのシャツにアイロンをかけていた。父さんは風呂に入っている。弟はどうせ勉強だろう。


「ただいま」


 そう言っても返事はない。ある種のマナーとして言ってはいるが、大した意味がないように思う。

 2階の部屋に荷物を置いてこよう。階段を登りながら頭の中でToDoリストを作り上げる。今日の課題は古文と数学。そして今週の金曜日には化学の小テストがあるのでそれの勉強。

 階段を登りきると、弟がいた。

 高校1年生の弟は俺よりも少し背が高い。目を合わせて


「ただいま」


 とだけ言うと、俺は弟の邪魔にならないよう廊下の端に寄る。弟は俺を無視して階段を降りていった。

 でもこれは仕方のないことだ。昔、俺がアイツを邪険に扱ったせい。それも大分身勝手な理由で。

 弟は何にしても俺より才能があった。勉強、空手、水泳その他今までやってきた習い事全般。両親は俺よりも弟を大事にした。俺は何をしても誉められることはなかった。彼らは、俺が小さい頃から俺に関心を寄せてくれることはなかった。授業参観も、俺よりも弟のクラスにかける時間の方が多かった。特に母さんは、俺を散々罵倒した。何度か物を壊されもした。俺は上手くやろうとした。実際、空手は県大会まで進めたし、今日まで成績は去年副教科を落としたものの確実に学年30位以内に入っている。でもそれでは足りやしなかった。彼らの基準はいつだって弟だった。苦しかった。妬ましかった。そして段々と弟とは接しなくなった。

 それが落ち着いて、周りを見れるようになったのは中学2年生になってから。友人が出来て、環境も落ち着いて、俺は母さんが嫌いだと気付けてから。そのせいか、女の人だとか恋愛だとかには興味持てないけど。そして弟にかかる期待が弟の重圧となっていることを知った。

 弟は友人たちと遊びに行くことも少なくなり、自分から何かすることもなくなった。そして弟は俺を嫌っていた。いや、憎んでいると言った方が正しいかもしれない。俺は両親の重圧を弟に押し付けたと思われていた。何かするには遅すぎた。

 だからか、つい弟くらいの年の後輩を気にしがちになる。美紗のように弟や俺と重なって見えれば尚更。

 俺はこの罪悪感から逃れたいと思っている。だから美紗にも真琴にも構うのだ。こんな不純な動機から。

 ため息をついて、ドアノブを回す。

 目の前に広がるのは質素な俺の部屋。家の中で俺が安心できる唯一の場所。でもそんな場所が弟や美紗にはあったのだろうか。

 ──罪悪感は日に日に俺を蝕んでいく。




 次の日、眞琴はあまり元気がないように思えた。何をしても上の空。時おり隠れてため息をつく。……俺の、せいか。また不要なことをしてしまったのだろうか。

 部活が終わり、みんな帰る頃今日も俺は眞琴に声をかけた。


「読んだ?」


 たった一言だがそれで充分だった。


「スケッチブックは読みました」


 どこか沈んだ声で言う眞琴に不穏なものを感じとる。それに、と言うことは──。


「手紙の方はまだ読んでないんだね?」


 眞琴は小さく頷いた。

 美紗が必死に悩みながら書き上げた手紙。彼女が最後に何としてでも届けたかった手紙。そのことを眞琴は知ってるはずだ。

 目を伏せる彼に俺は思わず質問を重ねる。


「何かあったの?」


 眞琴はわずかに目を泳がせてから、俺と目を合わせた。


「スケッチブックを読んで美紗が何に悩んでたかを知りました。俺はそれに気付けませんでした。

 そして、なぜ手紙をああも回りくどい書き方で俺に送ってきたかも知りました」


 親にバレたくなかった。隠したかった。見つかってしまえばその手紙は一生届かない。

 その美紗の思いが苦しいほどに伝わっていたのだろう。眞琴は少しだけ顔を歪める。


「俺は手紙を届ける役割を美紗に託されたんです。

 きっと、俺に届いた手紙の内容はそのお礼か何かでしょう。美紗は、律儀ですから」


 何かを慈しむように目を細める。


「そう悟ったとき、俺はとても苦しくなりました。美紗がどれだけ悩んでいたかを案じました。

 でも、それは一瞬でした。

 俺はすぐに嫉妬に駈られました。俺の手紙は所詮オマケで、あの2人ほどの価値はないのだと」


 眞琴はそこで息継ぎをする。

 西日が彼の顔に深い陰影を付けた。


「分かってます。美紗はきっとそんな風に思っちゃいない。純粋に渡したくて渡したのでしょう。

 でも、それを受け入れられない俺がいる。

 彼女からの信頼を、素直を受け止めきれないんです。

 見苦しい嫉妬なんかのせいで。

 そんな、そんな真っ黒な気持ちのまんまであの手紙を開けるなんて、俺には無理です」


 瞳が俺を射ぬいた。

 その中には俺しか映っていない。

 ──ああ、俺はこれを見たことがある。

 美紗もこんな表情をしていた。弟も、こんな表情をしていた。助けを求めるときはいつも。

 苦しいんだね。今ものすごく辛いんだね。

 自分が嫌いでたまらないんだね。

 そして、それはとても悲しいことだと自分でも分かっているんだね。

 本当は、嫌いになんてなりたくないよな。

 ねえ、眞琴。じゃあ俺は君に1つのおまじないをあげよう。自分を好きになれるおまじないだ。──きっと人は、誰かに愛されていると知ることで自分を好きになってあげられるから。


「眞琴。

 美紗ちゃんは、1番の友達とか1番の先生とかそんな書き方してたでしょ?

 そして眞琴の分は『君へ』の一言だった」

 

 眞琴が頷く。

 俺は手紙のこの部分は知っている。美紗が長いこと悩んでいたから。


「封筒じゃなくて、便箋に書いてあるんだよ。眞琴の分の言い回しは。眞琴の場合、封筒に書く必要なんてなかったからね。

 だからさ、それだけでも確認してやってくれないかな」


 眞琴が少し落ち着いたのが分かった。

 きっと、眞琴は中身を読むだろうと俺は確信していた。

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