電話

 落ち着いた眞琴はシェイクに手を伸ばす。水滴ができてふやけているそれを慎重に持つ。ゆっくりとした動作。

 俺はそれを眺めながら、あの日のことを思い返していた。暖かさよりも暑さが勝ってきた季節。少し蒸し暑い体育館。部活が終わってから忘れ物に気付いて取りに帰った。そして聞こえた──。




「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。

 ──待って、それは違うの。ねえ、話を聞いて」


 微かに震えている女の子の声。女子の部室の前で電話をかけている子のものだ。肩甲骨当たりまで伸びた細くて茶色い髪を、低いところで1本に縛っている。

 あの子は確か……。俺は記憶をたぐる。まだ新入生の顔と名前が一致しない。──そうだ。あの子は柊美紗。1組だったはず。

 だが、それがどうしたというのだろう。俺には関係のない話だ。こういう時は見て見ぬフリが1番。関わったってろくなことにならない。幸いあの子には気付かれていないし、こっそり帰ろう。そう思った時。


「ごめんなさい、お母さん」


 怯えるような声で謝る声が聞こえてきた。あの子の姿とつい自分が重なる。

 こう言ったこととは関わり合いにならないのが俺の処世術だ。だが、今回だけは例外だった。

 美紗は二言三言会話を交わして電話を切る。俺はそのタイミングで話しかけた。


「や、美紗ちゃん」


 できるだけ軽い雰囲気を纏えるよう意識する。ぽろっと、何かを零しやすい空気を醸し出すために。

 美紗は俺の声にビクッと肩を動かす。そしておそるおそる振り向いた。

 俺が誰なのか思い出したからだろうか、俺の顔を見た瞬間背筋を伸ばす。


「お疲れさまです、小林先輩」


 直角のお辞儀。真面目そうな子だ。胸の前ではスマートフォンを握り締めている。伏せ気味の目はうっすら赤い。


「どうしたの、目赤いけど?

 俺で良かったら話聞くよ」


 不安なときの人間はこういう言葉に弱い。信頼を得るには多少の時間はかかるだろうが、そのくらいどうってことないだろう。



 予想通り、1ヶ月後には話をしてくれた。そのためには自分の家のことも多少は話す必要があったが。

 余命幾ばくもないということには驚いたが、家のことは大旨予想通りだった。美紗の母親はいわゆる毒親。束縛型で、暴力に頼るきらいもある。病気のことで極端に心配するような面を見せるようになったのもあって、暴力や暴言との差に美紗はダメージを受けていた。

 それとこれは俺の勘に近いが、彼女は真面目な性格故に母親を嫌うことにもストレスを感じているようだった。

 そして例によって例の如く、父親は無関心という役満だ。

 さて、どうしたものか──。


「話してくれてありがとう。

 今までよく耐えたね」


 ひとまずは言ってくれたことへのフォローをする。優しい口調と柔和な笑顔も忘れない。

 この一言に美紗は一筋の涙を流した。

 あのような家の子供がそうであるように、彼女もまた優しい言葉に弱いようだった。


「あ、すみません……!」


 美紗は必死に涙を拭う。

 そして俺は命が僅かしかないこの少女を、真面目さと優しさ故に親を捨て逃げるという発想をしたことすらないであろう少女を、俺は──。




 その週の半ば頃だったか。俺は家にあったスケッチブックを美紗に渡した。

 何かやりたいことを書き出してみたらどうかという提案に、美紗はすぐに乗った。その頃から少しずつ美紗は明るくなっていき、自分のことをより話してくれるようになった。

 その時にスケッチブックに貼ったプリクラに写っている子のことを知った。

 あの時はそこまでの興味を持ってはいなかったし、よもや出会うことになるとも思っていなかった。だが今、その子はこうして俺の目の前にいる。

 家に居場所を感じられない子供は大抵他の場所に居場所を求める。それが良い方向に働くこともあれば犯罪に巻き込まれるきっかけになることもある。だが、あの子はそんな風には見えなかった。それはきっと、彼のおかげでもあるのだろう。

 彼はまだ、知らないだろうけど。

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