8.未来へ――。
黒き始祖の喉に突き立てられた短剣が、さらに押し込まれる。
それと共に、男の口からは苦悶の声が漏れた。アンジェリナは思った――これは、間違いなく致命傷である、と。そうでなければ、おかしい。
もしこれで倒れないのであれば、黒き始祖は人の範疇から逸脱していた。
しかし、次の瞬間――。
「逃げるのか、黒き者」
「え……?」
――レッドの、その一言に息を呑んだ。
彼の問いかけに黒き始祖はまるで答えない。いいや、答えられるはずがなかった。何故ならあのように剣を突き立てられたのである。声が発せられるわけがない。その考えはクリスティナも同じだったらしく、口元を手で隠しながら見守っていた。
その時だった。
「……逃げる? なにを馬鹿な話を。今回は見逃してやるのだ」
倉庫の中に、他の誰でもない。
あの恐ろしき男――黒き始祖の声が響いたのは。
賢者レッドが短剣を突き立てる者から発せられた音ではなかった。それはおそらく、この場所をより俯瞰できるどこかから。しかし、相も変わらず身隠しの類の魔法を使っているらしい。そのために、具体的な居場所までは分からなかった。
そして、そうアンジェリナも考えた瞬間だ。
「あ、うそ……」
目の前の黒き始祖もまた傀儡同様に、霧散して掻き消えた。
何も残さずに。まるで、最初からそこにあったのが幻であるかのように。
「ククク、赤き賢者レッド――か」
声だけが響く。
「面白い。その名前、憶えておいてやろう」
そして最後に、そんな言葉を残して。
倉庫の中は最初のように、静寂によって包み込まれた。
残されたのはアンジェリナとクリスティナ、そして赤き賢者レッドだけ。
「助かったの、ですか……?」
その中で一番に口を開いたのは王女だった。
彼女は今まで緊張にその身を固めていたのであろう。一気に脱力し、おもむろに倒れそうになった。妹はそれを慌てて抱きとめる。そのまま、腕に力を込めた。
助かった。自分たちは生き残ったのだ――と。
あの絶体絶命の状況から救い出された。
そしてきっと、ここから先の未来には今までとは違う日々が待っている。
「あぁ――」
そこまで考え、アンジェリナは思い出した。
自分たちを救い出してくれた英雄への感謝の言葉を。
だが、青髪の少女がそれを口にしかけた、その時だった――。
「――クリスティナ王女様!?」
「レイ、アース……?」
倉庫の出入り口から、飛び込んでくる一人の女性があったのは。
騎士団の隊長を務める黒髪の人、レイアース。肩で息をしている彼女は、数名の騎士団員を連れてその場に現われた。目を見開いて、少しだけ瞳を震わせている。
クリスティナは力の抜けた表情で、助けにやってきたその人を見た。
「ご無事で、何よりです……!」
「レイアース、どうしてここが?」
どうして自分たちがここにいるのか、クリスティナは訊ねた。
するとレイアースはやや早口で答える。
「匿名の情報があったのです。この倉庫に王女様らしき女性、並びに学園の女生徒がいる。命を狙われている、早く助けに向かった方が良い――と」
「それって、もしかして……?」
この場所を知るのはアンジェリナのような反教団員だけのはず。
それでも、その例外を考えるなら……。
「あぁ、貴方が――」
そう思って青髪の少女は視線を上げ、彼がいるであろう場所を見た。
しかし、そこには――。
「む? どうした、そこの女生徒」
「………………」
誰の姿もなかった。
レイアースの問いかけも、アンジェリナの耳には届かない。
彼女はただ小さく、そしてまるで愛しい人に置いて行かれたかのように呟いた。
「赤き賢者……レッド、様」――と。
◆◇◆
現在、王都では人々を賑わせる二つのニュースがあった。
一つは、王女クリスティナに双子の妹がいたということである。今まで旧き慣習により離ればなれになっていた姉妹が、ついに一つの場所に戻った。
これには都全体が驚きに包まれると共に、祝福と賛同の声が湧きあがった。まぁ、それと同時に。今の今まで、そんな非道をしていたのか、と。
そんな空気の読めない批判をする者も、中にはいたわけだけど……。
しかし、そんなことも些末に感じるニュースが飛び交っていた。
それが二つ目。それというのは――。
「凄い熱狂ぶりだよね」
「うん! でも当たり前の反応だと思うな、私はっ!」
僕はステラと一緒に街を歩きながら、そんな会話をしていた。
学生服ではなく、普段着で。なんということもない、ただの教材の買い出しだ。彼女とはたまたま目的が同じだったために、一緒に行動している。
さて。そんな僕の隣を歩く少女であったが、今日はいつも以上に上機嫌だ。
その理由は、なんとも単純なことだった。
「やっぱり、レッド様は凄い方なんだよ! 私、言ってたでしょ?」
「え。あぁ、うん。そうだね……」
王都を賑わせるもう一つのニュース。
二人の王女の命を救った英雄であり賢者、レッドのそれのためだ。
あの日から二日が経過した。
ちょうど休日にぶつかったということもあり、その噂は瞬く間に広がった後に、大きなうねりとなっている。王都では各々の地区で祭りが開催されていた。
明日からはまた一週間が始まるので、ある程度は沈静化すると思うのだが……。
「というか、もうちょっと静かな方がいいな……」
「ん? リードくん、何か言った?」
「いいや。なんでも」
――正体不明の賢者。
その部分が守られていれば、僕はとやかく言うつもりはなかった。
だけれども、なんというかその、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
出来るならもう少し静かに噂をしてほしい。そんな願いこそあったが、多くの人の喜びに繋がっていること、それもまた僕の願いでもあった。
「まぁ、いっか」
「うん?」
僕の独り言に、ステラは首を傾げてこちらを覗き込んでくる。
しかしその疑問には答えずに、僕は前を向いた。
そして――。
「あ。あれは……」
あることに気付く。
人混みの奥に見えたそれに、僕は小さく笑みがこぼれた。
「さっきから、変だよ? リードくん」
「あぁ、いや。なんでもない、それより……」
どうやら、ステラも周囲の人々も気付いていないらしい。
だったらと、僕はこう少女に提案した。
「ここから反対方向だけど、美味しいケーキのお店が出来たんだってさ。もし良かったらだけど、一緒に食べに行かない? 奢るよ」
「え! それ、ホント!? 私も一回、食べてみたかったの!!」
「あぁ、それじゃ行こうか」
「うん! 嬉しいな、ケーキ、ケーキっ!」
ステラはそれを耳にすると、一気に目の色を変える。
この辺りはやはり年頃の女の子らしい。レッド狂いさえ、なければ……。
「………………」
少しだけ苦笑いをした後に、僕はもう一度だけ振り返る。
そこにはもう、その姿はなかった。だけど、こう小さく伝えるのだ。
「おめでとう。これからは、仲良く、な」――と。
人混みの中に消えていった、対照的な髪色をした双子の姉妹に向かって。
僕はステラに声をかけられて、また歩き出す。
そして、ちょっとした祈りを。
どうか今までの苦労の分だけ、その幸せが続きますように――と。
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