第5章 記憶

53  宇田川

 九月一日。その電話は、バイトの最中にかかってきていた。


 千尋がシフト終了後に折り返すと、すぐに坂口が出てきた。用件は浅葉が昨日言っていた通り。協力をお願いしたいので、都合のつく限り早めに警察署まで出向いてもらえないか、と。詳しくは行ってから、とのことだった。


 千尋はすぐに了承し、バイト先から直接向かう旨を告げた。




 浅葉と長尾が個室で打ち合わせをしているところに石山が顔を出し、「田辺千尋が一時間後に来る」と伝えた。


 ブリーフィング準備のため浅葉が出ていくと、石山は長尾を引き留めた。


「長尾、ちょっといいか」


「はい」


「浅葉と田辺のことだがな。他のメンバーには言うな。余計な憶測を招くと却って厄介だ」


 長尾は一瞬返事に詰まったが、平静を装って言葉を絞り出す。


「あ……えっと、あの二人の、というのは?」


 石山は深々と溜め息をつく。


「しらばっくれんでいい。先週この件が本決まりになってすぐ、浅葉から聞いたよ。『長尾には知っておいてもらいたいから後で自分で話す』と言ってたが? 聞いとらんか?」


 長尾の頭が急速にフル回転し始める。


「あ、ええ、聞い……てます。すいません」


「その報告とあわせて、あいつは田辺への協力要請を今日まで待ってくれと言ってきた」


「あ、そういうことだったんすね。それにしてもギリギリですけど……こんな短時間で決められますかね、彼女?」


「浅葉のやつ、断られてもいいならいつでも好きに電話しろとまで言うから、依頼延期を認めざるを得なかったんだ。返答期限はそのままという条件付きでな。大方おおかた、つまらんことで痴話喧嘩ちわげんかにでもなったんだろう。ハラハラさせてくれるよ、まったく」


「困ったもんですね。いや、でも……結果オーライでしたし、ここからはもう大丈夫です。あいつ、自分でいた種はいつも自分で回収するじゃないすか。万一何か怪しい動きでもあったら、俺も容赦しませんから」


「ん。頼むぞ」


 長尾は、立ち去る石山に会釈し、一人その場に残った。思わず目を閉じ、大きく息をつく。


「これで確定、か……」


 石山の話を総括すると、浅葉は先週の時点で石山に、自分が田辺千尋と恋仲にあると告げたようだ。作戦云々うんぬんではなく、純粋に男と女として。


 そして、その事実を長尾にも伝えると宣言した。長尾が課長よりも先に知っていたとなれば、長尾も報告不履行の共犯になってしまうからだ。


 長尾は、ホテル街で二人を目撃した翌日に浅葉と話した後、何かが引っかかり、もう一度浅葉との会話を頭から順に思い出してみた。


 そして気付いたのだ。浅葉は、田辺と一緒にいたことが仕事のうちだとは一言も言っていない。これまでの浅葉の傾向から、長尾がそう解釈しただけ。


 今思えば、それも浅葉の計算のうちだったのだろう。あの場でもし、田辺と付き合っている、個人的に好きだ、とまで言われたら、長尾は殴り飛ばしてやりたいのをギリギリこらえ、すぐに課長に報告していたかもしれない。


 普段とはどこか様子が違うものの、何か職務上の意図があってのことだと思えばこそ、黙っていてやろうという判断ができたのだ。


 しかし、長尾が自分の勘違いの可能性に気付いてからも、「浅葉に限ってまさか」という思いはそう簡単にぬぐえなかった。二人が本当に付き合っているのかもしれないと長尾が真剣に考え始めたのは、日付が変わった後のこと。


 それ以降も、結局確信に至ることはなかった。今だって、百パーセント信じ切れているとは言い難い。


 それにしても、こんな仕事をしていれば出会いが少ないのはわかるが、浅葉がその気になれば他にいくらでも選択肢があるだろうに。浅葉ほどモテて理性ある刑事がよりによってなぜ……。


「……ったくあの野郎」


 つい舌打ちが出る。いずれにしても、石山は事情を知った上でなお、浅葉をてると決断したということだ。まあ、この件から外したところで黙って見ているような浅葉ではないから、裏で勝手な行動を取られるぐらいなら正式に担当させた方がましだという結論にはうなずけた。


 長尾が最終的に二人の関係を悟ることは浅葉も想定済みだったろう。ただ、長尾以外の人間に知られていなければ、現場で万一判断に狂いが生じても、それが致命的でさえない限り何とかごまかして立場を守ることもできたはずだ。


 しかし、石山に二人の関係を知らせたとなると、現場に私情をはさむ余地は消えたといってよい。浅葉自身がおのれの気の緩みを許さず、自ら予防線を張ったとしか考えられなかった。つまり田辺に対する気持ちも、任務についても、そこまでするほど本気だということではないか。


「しかし、どうやって今日までもたせたんだ、あいつ。こんな生活してたらソッコー振られそうなもんだけどな……」




 坂口からの指示通り、タクシーで警察署に到着した千尋は、また例の小部屋に通された。斜め向かいの席では、長尾が時折心配そうにこちらを見る。


 間もなく部屋の入口に姿を現した浅葉に、長尾が告げた。


「ブリーフィング俺も立ち会えってさ。課長命令」


 浅葉はそれを聞くと黙ってドアを閉め、手にしていたファイルをデスクに置きながら千尋を見下ろし、何の前置きもなく本題に入った。


「殺人未遂で刑務所に入ってる男が、刑期を終えて出てくる。暴力団の傘下組織の重要人物で、その出所しゅっしょに合わせて大型の取引が予定されてる」


 千尋は、その言葉を一つひとつ消化していた。取引というのは当然、違法薬物のことだ。まさか一生のうちに二度も自分がそんな話に巻き込まれるとは……。


「警察としては本来なら取引が行われるのを待ってその現場を押さえたいところだが、今回はそう簡単じゃない」


 浅葉はデスクに両手を付き、その間へと視線を落とした。


「事情があって、この取引は中止させたい」


 その顔がぱっと正面を向き、千尋の目を捉えた。


「そのための協力をお前に頼みたいんだ」


(私に……なぜ?)


 浅葉はファイルを開き、小さな紙切れを取り出した。千尋の前に置かれたのは一枚の写真。そこに映った顔に言葉を失った。


 浅葉を見、再び写真を見た。


(どういうこと……!?)


宇田川修司うだがわ しゅうじだ。明日出所してくる」


 長い沈黙が部屋を満たした。千尋はただ食い入るようにその写真を見つめていた。浅葉はそれをつまみ上げ、ファイルに戻した。


「宇田川には敵がいる。この懲役の原因になった殺人未遂のせいで、もともと敵対関係にあって何度ももめてる団体からさらに恨みを買ってるんだ。今は休戦状態だけど、彼らが宇田川の出所を待ち構えてることは間違いない。この取引はその対立を煽るもので、既に妨害する動きが出てきてる。放っとくと全面抗争になって、一般市民にも危険が及ぶ」


 浅葉は、検挙よりも阻止という方針に至った経緯を説明した。宇田川を説得するため千尋に協力してほしいというのが警察の要望だが、宇田川を連行する理由がないため、出所後の動きを追い、手頃な場所で足止めしてそこに千尋を同行させるという段取りになる。


 ただし宇田川は出所後再び命を狙われるわけで、その身に近付くことには当然危険が伴う。協力はあくまで任意であり、同行してくれるなら厳重な警護を付ける、という話だった。


「お前から説得しろっていうわけじゃないんだ。ただその場にいてくれるだけでいい」


 千尋は、今聞いた話を頭の中で懸命に整理しようとしていた。


「結論は今じゃなくていい。明日の朝八時までに、この番号に連絡してくれ」


と浅葉がデスクに置いたのは、坂口の名刺だ。以前本人からもらったのと同じもののようだった。電話をかけたことはないが、内線番号が書かれている以上はそれを使うのが筋だろう。つまり、電話は直接彼女に繋がり、この件について千尋が浅葉と個人的に話す機会はないということだ。


「質問がなければ、これで」


「あの……」


 遠慮がちな千尋の声に、浅葉が顔を上げた。


「本来ならお金になる話を、あきらめさせるってことですよね」


「そういうことになるな」


「私が出ていったところで、お役に立てるとは思えませんけど……何ていうか、基本、他人ですから」


 浅葉はその言葉をしっかりと受け止めてから、再び口を開いた。


「宇田川が服役する前、奴の対立組織がお前を狙ってたことがある」


「えっ?」


「宇田川をゆするための人質ひとじちにしようとしてた」


(そんなことが……)


 千尋は、全身に鳥肌が立つのを感じた。


「宇田川に復讐するつもりで徹底的に調べ尽くした集団が、お前の価値を見込んでたってことだ。何かしら根拠があるんだろう」


(人質としての私の価値……)


「刑務所で六年過ごしてそれがどう変わったかはわからない。ただ、他に方法がないんだ」


「殺人未遂……でしたっけ?」


 浅葉は千尋の目を見たまま、静かに二度まばたきをした。


「そっちはまた別の事件だから詳しいことは言えないけど……いろいろ事情があった」


 千尋は、浅葉の目の奥にその意味を読み取ろうとしていた。


「このことは、母には……?」


 浅葉は黙って首を横に振り、ゆっくりと付け加えた。


「この件は無事に終わるまで、誰にも話さないでくれ」




 千尋は一人自宅に戻り、ベッドの上に座り込んでいた。


(暴力団傘下組織の重要人物、か……)


 その出所の日と、取引の予定。いつから知ってたの、と聞きたかったが、長尾の前で取り乱すようなことになるのは嫌だった。


 もしかしたら、一年前、あの一週間の護衛の時にもうわかっていたのだろうか。いや、その前に参考人として自宅で話を聞かれた時から、警察は既にその情報をつかんでいたのかもしれない。だとしたら……。


(まさか、ね……)


 しかし、ほんの一瞬考えがそこに行ってしまうと、もう引き返すことができなかった。今さら目をらそうとしても、千尋の心は完全にそこにとらわれてしまっていた。


 もし、これまでの経緯が一切なかったとしたら……。何の前触れもなく、生まれて初めて今日突然警察に呼ばれ、取引の阻止に協力してくれと言われたら、どうしていただろう。


 私には関係ない、そんな危険はおかしたくないと、その場で断っていたのではないだろうか。気が進まないながらも一旦持ち帰って考えることにしたのは、相手が浅葉だったからでしかない。


(でも、いくら何でも……)


 そんなことまでできるはずはない、と思いながら、千尋はその可能性をもはや否定できずにいた。何の躊躇ちゅうちょもない様子であの女とキスしていた紫のシャツの男。仕事のためならどんな役でも演じられる人がこの世には存在するのかもしれない。ということは……。


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