52  要請

 八月三十日。千尋は、この日も朝からバイトだった。


 レジの横に並べてある客用の新聞や雑誌を新しいものに入れ替えている時、普段は新聞などまず読むことはないが、何かが目を引いた。


 乱雑に畳まれた紙面の隅に、見覚えのある顔。真智子が撮った写真の中で、浅葉の黒いジャケットの肩をがっちりとつかんでいた親分風の男だ。


 目付きの悪い白黒の顔写真は、あの大きなサングラスこそかけていないが、ほくろの位置からして間違いない。その隣には、銃刀法違反および覚醒剤取締法違反で逮捕、の文字が毅然きぜんと刷られていた。




 八月三十一日。千尋が洗い物をしていると電話が鳴った。覚えのない固定電話だ。


「もしもし」


「千尋」


「あ……」


 番号からは予想がつかなかったが、間違いようのない浅葉の声。途端に鼻の奥がツンとした。


「ごめん、寝てた?」


「いえ」


「ちょっと、知らせておきたいことがあって」


「はい」


「明日、お前に電話がいく」


「……電話?」


「警察から、協力の要請だ」


「え? それって……例の件の、続き?」


「いや、今度はまた別なんだ。今は……それ以上は話せない」


「そう……ですか」


「とりあえず来てくれって話になるから、急で悪いんだけど、できれば明日中に来て話を聞いてくれるかな」


 何となく深刻な話なのではないかという印象を受けたが、まだ詳しくは話せないというのでは仕方がない。千尋は素直に応じた。


「はい、わかりました」


「それから……」


 少し間がいた。


「滝本真智子が、逮捕された」


「えっ? 真智子!?」


 千尋は思わず携帯を取り落としそうになる。


「売春斡旋あっせんの現行犯で」


 千尋は茫然とくうを見つめた。信じられないといえば嘘になる。昔から問題児で、暴力団と付き合いがあると噂が立ったこともあった。しかしまさか逮捕されるようなことをしでかすとは……。


「どっかで報道される前に、お前には言っておきたくて」


「そうですか」


 全身から力が抜ける。自業自得とはいえ、真智子はこれからどうなってしまうのだろう。


「あの……それ、浅葉さんが?」


「いや、担当課が違うんだ。ただ……」


 数秒の間があった。


「情報を入れたのは俺だ」


 千尋は、妙に冷静な自分に驚いていた。友達といっても、悪事を働いたのならかばうつもりはなかったし、浅葉がその逮捕に関わっていても、特に気まずいとは感じなかった。


「かなりでかい組織が絡んでる可能性がある。今後もしクスリ関係でも出てくれば、うちも動員される」


「それってもしかして、あの写真から?」


 浅葉にあの写真を見せてからはまだ二日しか経っていないが……。


「ああ。あの店にいたこと自体は何の罪でもない。ただ、ちょっと気になって調べてみたら、裏はいろいろと華やかでね。別に手柄が欲しかったわけじゃない。このままにしておくと彼女に危険が及ぶ。話がでかくなる前に捕まっておいた方が、彼女のためなんだ」


「気になって、っていうのは、勘……みたいな?」


「いや。勘がそんなにえてたら、もっと出世してるよ」


 二人の間に、乾いた笑いが微かにこぼれた。


「強いて言えば、経験、かな」


 それが勘とどう違うのか、千尋にはわからない。


「どうして……私に聞かなかったの? 真智子のこと」


 千尋から名前だけでも聞き出せば、捜査の助けになったろうに。


「それどころじゃなかったろ」


 電話の向こうの浅葉の苦笑いが目に浮かぶようだった。


「いいんだ。女子校の同級生ってだけで十分。写真が撮られた角度から考えて、カウンターの角に座ってたショートカットのだろうって、すぐわかった。そういえばずっと携帯いじってたしな」


「こないだは……ごめんなさい。困らせて」


 言いながら声が震えた。伝えたいことは山ほどあった。もう怒ってなどいない。あなたの仕事を誇りに思う。いつもありがとう。今すぐ抱き締めたい……。


 浅葉は長いこと何も言わず、千尋の息だけを聞いていた。


「千尋」


「はい」


 長い沈黙を、短いため息が破る。


「いや……また今度ゆっくり話そう」


「うん。じゃ、また」


「また」はいつになるのだろう。千尋は締め付けるような胸の痛みに耐えながら、電話を切った。

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