51  哀哭

 八月二十七日。他愛もない世間話をしながら勢いよくパスタを平らげた滝本真智子たきもと まちこが、ふと黙り込んだ。


(この顔……)


 千尋はそんな真智子を見るのが初めてではなかった。今日千尋をランチに誘った本題が、きっと今から出てくるのだろう。何か頼みがある、とでも言うのだろうか。


「ね、怒らないでね」


「何よ、いきなり」


「もしかしたら、私の見間違いかもしれない」


「見間違い? 何が?」


 真智子は思い切ったように携帯を取り出し、画面を操作して何かを探し始める。それは突然、千尋の目に飛び込んできた。


 青みがかった照明。向こう側が透けて見えるカーテンが半分開き、何かいかがわしい店だろうかと思わせる写真だ。カーテンの向こうのソファーに、大きく胸の開いた服を着た品のない女が座り、分厚い唇を突き出してキスをせがんでいる。


 その腕が絡み付く先には、いかにもヤクザ風の男がいた。髪をオールバックに固め、薄く柄の入った黒いジャケットを羽織り、大きく開いた紫のシャツから金のネックレスが覗いている。しかし笑顔で応じているその顔は、紛れもなくアサバ シュウジのものだった。


「やっぱり、そう?」


 青ざめる千尋を覗き込んで真智子が尋ねたが、千尋には聞こえていなかった。


 ふと慌てたように、真智子が千尋の手から携帯を取り上げようとした。千尋の手は反射的にそれをかわし、画面の上を滑る。その写真には続きがあった。頭を後ろから思い切り殴られたように、一瞬目の前が暗くなる。


 先ほどよりも大きく映し出された同じ男女のキスシーン。それで終わりではない。一枚、また一枚と順を追うごとに二人がヒートアップし、舌を絡めていく様子がありありとうかがえた。恐ろしいほどの画質の良さが千尋の神経を逆撫でする。


 一連の写真は、映像を見ているのかと錯覚するほど生々しかった。浅葉の頬が奏でるいつもの軟骨音が聞こえてくるようだ。それをこの女が聞いているのかと思うと、うっとりと浅葉を見つめるその横顔に、千尋はいつしか爪を立てていた。写真を睨みつけたまま尋ねる。


「これ、いつ?」


「えっと……四日前、かな」


「全部送って、私に」


「ちょっと、やめなよ。どうする気?」


「どうもしない。ただ、真智子の携帯からは消しておいて。今、ここで」


 有無を言わせない千尋の口調に負け、真智子はおとなしく全てを共有アプリで千尋に送り、千尋はそれを自分だけのフォルダに移した。


「浮気現場を見せたかったわけじゃないの。まあ、それもあったけど……あんた知らなかったでしょ、そのすじの人だって」


 確かに、写真の中の浅葉は見事に演じ切っていた。


「ねえ、こんなもの見せて脅したって勝てっこないよ。それより、今すぐ別れた方がいい」


「うん……そうする」


 素直に応じた千尋の目は、どこか遠くを彷徨さまよっていた。




 買い物に寄るつもりだったが、そんなことも忘れてまっすぐ帰ってきてしまった。でもどうせ食欲もないからいいや、と投げやりに思う。


 千尋はいつもの習慣で、靴を脱ぎながらバッグから携帯を取り出す。もう一度見るまでもなく、濃厚なキスを交わす男女の画ははっきりと脳裏に焼き付いていたが、それでも開かずにはいられなかった。


 真智子は一体何枚撮ったのだろう。あのキスの後、談笑する二人の様子が何枚か映り、かなりアップになっていたところから大幅に引いた画像になった。


 ソファーがコの字型に置かれ、二人の周りには似たような派手なスーツ姿の男が数人と、同じく派手な女があと二人。


 そして浅葉のすぐ隣には、高そうな茶のスーツをパリッと着こなした体格の良い男がいた。髪に白いものが混じり、だいぶ年配に見える。大きなサングラスのレンズ越しに、鋭い不気味な目が光っている。最後の写真では、浅葉がその男の煙草に火を付けていた。




 八月二十九日。夏休み中の土曜日。給料日後でもあり、ファミレスは大混雑だった。


 丸一日のシフトを終え、ぐったりと疲れて帰宅した千尋は、アパートの階段を上がったところで思わずきゃっと声を上げそうになった。浅葉が千尋の部屋のドアに背をもたれ、腕を組んで立っていた。


 一体いつから待っていたのだろう。鍵は持っているし、なくたってどうにかして開けられるくせに……。


「お帰り」


というその声に、浅葉の感情を読み取ることはできなかった。


 千尋は、真智子に会った一昨日から昨日にかけて、公衆電話から二回と浅葉の携帯から一回、かかってきた電話を無視していた。いつまでも出ずにいればいずれ訪ねてくるだろうと予想はついていたが、いざとなるとどう接してよいのかわからない。


 浅葉がどういう行動に出るか試してみたくなり、目の前で黙って鍵を回し、ドアを引いた。千尋に付いて入ってくる様子はない。ただじっと千尋を見ている。そのまま閉め出してしまおうかとも思ったが、千尋は自分でも気付かないうちに口にしていた。


「お話があります」


「うん」


 浅葉は千尋の次の言葉を待っている。千尋は無性に苛立ち、浅葉の方へと乱暴にドアを押し開いた。それを片手で受け止めた浅葉に背を向けた瞬間、玄関に並べてあったサンダルを踏みつけて転びそうになる。


 ぱっと背後から伸びてきた手を咄嗟とっさに払いのけ、バッグを思い切り投げ付けた。


「触らないで!」


 浅葉は足元に落ちたバッグを拾い上げ、玄関へと慎重に足を踏み入れると、後ろ手にドアを閉めた。千尋は、浅葉の手をこれほど嫌悪する自分が信じられなかった。足が震え、何とも気味の悪い目まいがした。


 無意識に壁に手を付くと、次の瞬間、その場にへたり込んでいた。あの写真の浅葉が目の前にちらつく。視界がうるみ、吐き気がした。なぜこんな目に遭わなければならないのだろう。


 ずっと溜め込まれていたものが一気に噴き出してくるようだった。千尋は全てをぶつけて泣きじゃくった。あの温泉宿での浅葉の声が遠くでこだましていた。泣きたい時は泣いていい。でも俺はその理由が知りたい……。


 千尋には、自分が何を求め、何を訴えているのかわからなかった。謝罪の言葉だろうか。何に対して? 世のため人のため、任務を完璧に遂行したことに対して? 


 頭の中はぐちゃぐちゃだったが、千尋の体はあくまで正直に浅葉の胸の温もりを求めていた。その優しさと愛情を取り戻したかった。


 いや、今ここでそれを拒んでいるのは、他ならぬ千尋自身だ。


 浅葉は、千尋のヒステリーの原因についておそらく察しがついているだろう。一体どうやってそれを知ったのかと、問いただすなら早くそうすればいいのに。視界の端に映る浅葉が一向にうろたえる様子を見せないことにますます腹が立つ。


 浅葉にとっては、過去の恋愛でも通ってきた道なのではないか。いや、もっと壮絶な修羅場だって何度も経験してきているかもしれない。千尋ごときに泣き喚かれたところで痛くも痒くもないのだろうか。


 このままではあまりに惨めだと思い、キッと睨みつけると、その視線を浅葉はまっすぐに受け止めた。千尋の両目に突き刺さった視線は、千尋の向こう側の、もっと先を見ているようだった。


 千尋は少し落ち着きを取り戻すと、上がり口に置かれていたバッグから携帯を取り出した。三枚目の写真を選び、黙って手渡す。


 浅葉は画面にほんの一瞬目を落としただけで、表情ひとつ変えずにパタンとカバーを閉じてしまった。


 千尋には、自分が浅葉のどんな反応を期待しているのかわからなかった。だから何だ、と正論を盾にする浅葉に自分の怒りをぶつけたいのか、傷付けてすまない、という言葉で全てをリセットしたいのか……。しかし浅葉が発した言葉は、そのどちらでもなかった。


「この写真、どこで手に入れたんだ?」


 刑事の顔だった。声は落ち着いていたが、答えを既に知っているとでもいうようなそのトーンに千尋はひるんだ。ごまかさないで、と言い返したいところだが、浅葉に非がないのはわかっていた。あくまで仕事をしていただけなのだ。


「友達が撮ったの」


「友達?」


「高校の同級生」


「念のため聞くけど、その友達は、知ってるのか? 俺があの店で本当は何をしてたのか」


 遠回しだった。俺が刑事だってことしゃべったんじゃないだろうな、と問い詰められた方がまだ気が楽だ。


「ううん、言ってない。気付いてもいないと思う」


 どこからどう見てもヤクザだったから、とは言わなかった。


 浅葉は再びカバーを開き、次々と写真を繰り始めた。千尋はその横顔をぼんやり眺めるばかりだった。


 どれぐらいの時間が経ったのだろう。気付くと、目の前に携帯が差し出されていた。


 見上げると、それはもう職務にあたる刑事の姿ではなかった。千尋が激昂のあまり忘れかけていた恋人の顔。やるせない「好き」をともした眼差しに、深い憂いの影が落ちていた。こんな人に私は何をしようとしていたのだろう、と千尋は我に返りつつあった。


 携帯を受け取りながら、千尋は浅葉自身の痛みを思った。捜査対象に身分がバレれば命に関わるかもしれない。もし自分が仕事でそういう状況に置かれたら……という千尋なりのシミュレーションは、その先へ進むことができなかった。


 結局、この件について浅葉がそれ以上口を開くことはなかった。弁解しようと、開き直ろうと、ちゃかそうと、誰の得にもならないと悟り切っているようだった。


 浅葉は腕の時計に目をやり、短くため息をついた。千尋のバイトが終わる時間を見計らって、無理やり抜けてきたのかもしれない。千尋が電話を無視し続けたばかりに……。


 浅葉は何か言いかけたように見えたが、その代わりに玄関口に膝をつくと、座り込んだままの千尋の頬にそっと手を当てた。その手に、何の言い訳もしなかった浅葉の全てが詰まっているような気がした。


 千尋の涙の跡を親指でそっとなぞり、浅葉は重そうに目を伏せた。その目を再び上げると、


「おやすみ」


と言って立ち上がり、ドアを押し開けた。それを追うように、千尋も慌てて立ち上がった。


 浅葉は廊下を足早に歩きながら、電話をかけ始める。千尋はその後ろ姿を見送り、階段を駆け降りる足音を聞いていた。程なく車が走り出した。


 たった今この部屋にいた浅葉が靴を脱ぐことすらなく去っていったことに、全てがこれで終わりになってしまうような気がしてくる。


 浅葉は自分の仕事のせいで千尋を傷付けていることなど百も二百も承知なのだ。神経を擦り減らして全うした任務について文句を言われるために、疲れと重い心を引きずり、ありもしない時間を費やしてここまでやってきた浅葉を、なぜ何も知らないふりをして迎え、癒してやれなかったのだろう。


 今この手にある携帯だけが浅葉との繋がりのように思えて、千尋は無意識にくだんの写真を探していた。だが、それはこの小さな機械からも、ちょうど開いてあったクラウドの保存場所からも、完全に消し去られていた。


 突然、サイレンのようなけたたましい音が鳴り響く。それが自分の声だと気付いた時には、視界の全てが水没していた。泣き叫ぶことでしか呼吸ができなかった。


 たった一本の命綱をつかむような思いで、千尋は番号をった。発信ボタンを押しながら、ベッドに崩れ落ちる。


 本人に届くことのないその電話は、むなしく鳴り続けた。二人の甘い思い出が残る、あの部屋で。

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