50  まぐわい

 この部屋に来るのは、浅葉のバースデーをそうとは知らずに祝ったあの日以来だった。乾き切っていない部屋干しの洗濯物と、まだ洗われてすらいないものとが入り混じった、梅雨のような匂いがする。


 浅葉は洗面所から出てくると、ワイシャツのボタンを上から二つ外しながら、千尋の方を振り返った。千尋が今どの段階にあるのか、見定めようとしている目だ。


 千尋はかろうじて靴を脱いだだけで、玄関に立ちつくしていた。気持ちは抑え切れないほど高まっていたが、この場を自分が主導することには幾分の羞恥しゅうちを覚えた。


 浅葉は、千尋を見つめたまま靴下を脱ぐと、早々に結論を出した様子でさっと歩み寄る。千尋の前にしゃがみ込み、足首までの白い靴下をまず脱がせた。それが何だかおかしくて、でもどこか官能的に思えて、千尋の頬がつい緩む。


 隣家から聞こえてくるテレビの音。タレントが何か言って会場が沸く。その向こうに単調な機械音が重なった。洗濯機でも回しているのだろうか。


 浅葉とここにいる。それだけでつい荒くなりそうな呼吸を、千尋は叱りつけるように押し殺していた。浅葉が普段限られた自分だけの時間を過ごしているのであろうこの部屋は、彼の聖域のように感じられた。初めてその空間で肌を重ねることを思うだけで、千尋の心臓は制御不能におちいる。


 千尋のブラウスに手をかけながら、浅葉は頬骨ほおぼねに真正面から唇を触れた。電気が走る。千尋はその唇に噛み付いてしまいたくなる本能を必死に抑えた。


 気のせいかいつもよりさらにもったいぶった調子で千尋の覆いを一枚また一枚と解いてゆく浅葉に、ただ身を任せた。自分から攻めてしまいたい衝動とは裏腹に、浅葉の奔放なペースに委ねることにこそ、千尋は至上の悦楽を見出していた。


 千尋のつややかな上半身が白熱電球の光に触れると、ようやくせきを切ったように、狂おしい思いに満ちたキスが浴びせられた。唇を塞いだままシャツを床に落とした浅葉の熱い肌が、胸の先に触れる。千尋はたまらず全身を投げるように押し付けた。


 浅葉の唇がうなじを這うと、耐えかねた千尋の喉笛がヒュッと短く鳴った。体の芯がしびれを切らし、たけり狂っていた。早く全て脱がされてしまいたかったが、あまりがっついた態度をさらすのも嫌だった。


 わずかに残された理性でブレーキを掛けながら、甘えるように浅葉のベルトを抜いた。板張りの床で金具が鈍い音を立てた直後、両膝の裏に浅葉の腕を感じる。千尋はいとも簡単に抱き上げられ、幅の狭いベッドへと導かれていた。


 肩から腕をじっくりとほぐし、ついに千尋の胸を捕らえた手が、肌に吸い付くように熱っぽく旋回する。目の前が真っ白になり、正気を失うのではないかと手探りでどころを求めると、浅葉のもう一方の手に辿り着いた。その手は既に千尋の白い脚を概ね露出させていた。


 最後の一枚を剥ぎ取られながら、それがぐっしょりと濡れていることに気付き、千尋はあっと声を上げた。すぐさま、気にするな、というようにその口が封じられる。


 浅葉はこれ以上ないぐらい硬くなっていたが、どういうわけかいつまでたっても中に入りたがらなかった。千尋はそっと手を触れて丁重に導いた。


 荒くなる呼吸にますます煽り立てられ、上になり下になりしながら飽くことなく互いの体をむさぼり続けた。


 余計な気を遣うことなく、動物としての欲すら剥き出しにして思うままに振る舞える。誰かとそんな関係になることは、千尋にとっては思いもよらないことだった。


 丁寧に化粧を乗せた目元もゆがむに任せた。浅葉の前では何も思いわずらうことなく、全てを解き放てるような気がした。胸の内をさらけ出し、全身でぶつかっていくことこそが愛情だと思えた。会う機会が少ないだけのことに惑わされていた自分の浅はかさを悔いた。




 千尋は、頂点の残滓ざんしから醒めつつある体をだらりと横たえたまま、普段思うように会えない浅葉の体に何か印を残したくて、その腰骨のカーブを執拗に吸った。それだけでは物足りず、何度もぎゅっと歯を立てた。


 浅葉はそれを千尋のしたいままにさせながら、シャワーも浴びずただその場に寝転がっていた。時間を気にしているのはむしろ千尋の方。十時には出ると言っていたから、あまりゆっくりはしていられない。


「先にシャワー借りるね」


とベッドから出ようとした千尋の腕を、浅葉の手がつかんだ。一瞬戸惑うほどの力だった。そのまま引き寄せられ、抱き締められた。思うように息ができない。だが、不思議と苦しいとは思わなかった。


 ただ身を任せながら、千尋ははっとした。浅葉の胸の奥が震えていた。千尋はその背中をいたわるようにそっと手を滑らせた。二人の境目が融けて消えた。


 この日、浅葉はいつになく長いシャワーを浴びた。千尋は素肌を擦り付けるようにして浅葉のベッドを味わいながら、その主の帰りを待った。


 例の図鑑が目に入り、思わずくすっと笑いが漏れる。CDプレーヤーの前には、あのビーチの写真が変わらず置かれていた。


 髪を拭きながら現れた浅葉は、何か思い悩むような目をしていた。眉間に寄ったしわは、何らかの事件の難航を物語るものだろうか。


 千尋は今度こそシャワーを浴びに向かいながら、その背中をちょんとつついた。


「また呼んでね。ちゃんとお利口にするから」


 浅葉は千尋の頭にぽんと手を置いて微かに微笑むと、仕事に戻る支度を始めた。


 出がけに千尋ははっと思い出し、バッグの中に手をやった。


(こんな考え込んでる時じゃない方がいいか……)


 少し迷った末、ベッドの枕元にその深緑の包みをそっと置き、もう玄関で靴を履き終えたらしき浅葉の後を追った。




 浅葉は最寄りの駅まで千尋を送り届け、運転席から身をひねってチュッとキスした。


「区切り付いたら、ゆっくり休んでね」


と言い残し、千尋は車を降りた。


 千尋がドアを閉めてからも、浅葉はただまぶしそうにその姿を見つめていた。千尋は、どんな理由であれ、この目を振り切って他の人の元へ行くことなどできない気がした。


(やっぱり好きよ。あなたのこと……)


 千尋は、どこか救われたような思いで浅葉に手を振り、改札に向かった。

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