49  会いたい

 八月十五日。千尋はこのところ、自分でもはっきりとわかるほど機嫌が悪かった。


 バイト仲間に話しかけられる度についそれをぶつけてしまい、そっとしておこう、と最近は敬遠されがちだし、大学の友達には「彼とうまくいってないからって八つ当たりはやめてよね」などと苦情を言われる始末。


(うまくいってない、か。そうなのかな……)


 浅葉と一緒にいる時には何の不満もなかった。大事にしてくれるし、千尋の希望は表明しようとすまいと何でも叶えてくれる。とにかく会えないことだけが辛かった。


 しかしそれは、浅葉の気持ちを疑っているのでもないし、その存在を失うのではという不安でもない。そんなことはどこまでもふところの深い浅葉が、驚異的な忍耐と愛情表現で既に解決してきていた。


 ただ純粋に、目の前にあなたがいない。それがこんなに悲痛なことだとすれば、この先果たして千尋自身がやっていけるのかどうか、という問題だった。


 ある女友達は、年上の彼氏が今年就職して地方に配属されたため、遠距離恋愛をいられていた。彼女は、卒業後の自分のキャリアに関して妥協し、地方での生活についていくかどうかで悩んでいる。


 だが、千尋に言わせれば、距離を縮めるための選択肢があるだけ恵まれている。浅葉のように今住んでいる場所にすらろくに帰ってこない相手となれば、千尋が何をあきらめようとも、束縛する手段自体がないのだ。


 誕生日の三日後にかかってきた電話でローズマリーのお礼を言った辺りまではよかった。しかしその後、サークル仲間の「恋バナ」を聞かされるうち、そういう楽な付き合いをうらやんでしまう自分がいた。


 そんなある日……。


 千尋は自分がこんな淫乱娘だったのかと、心底幻滅した。


 浅葉という恋人がありながら、別の男に手を握られ、その手を握り返してしまった。そうしながらこらえ切れずに嗚咽おえつを漏らした自分の肩を、彼にさすられるに任せた。彼がもっと強引な男だったらどうなっていたかと思うと、今になってぞっとする。


 あれは一ヶ月ほど前、夏休みを前に、サークル仲間たちと飲みに行った日のこと。総勢四十名ほどの大所帯で押しかけた居酒屋の座敷は乱れに乱れた。その混沌こんとんの中、一人浮かない顔をしている千尋に声をかけた者がいた。


「久々だね。これだけつぶれまくるってのも」


「ほんとですね。合宿が思いやられるなあ」


 普段なら酔い潰れたメンバーの介抱に回っている千尋だが、その日は適度に酔った後輩たちの夢の語り合いに漠然と耳を傾けているところだった。


「なんか、疲れてる?」


「いえ、そんなことは……」


「ちょっとさ、外出ない? ここ空気悪いし」


「いえ……はい、じゃあ」


 店のサンダルを突っかけて外に出ると、空気はぬるいが、少し風があって心地良かった。入口の段差に並んで腰を下ろす。


「あのさ」


「はい」


「大丈……夫?」


 何を聞かれているのかが瞬時に飲み込めてしまい、胸が詰まった。いつもの自分ならどう答えるかを考えた。何がですか? 全然大丈夫ですけど。そんなことより、ほら……。


 そのどれも口から出てこないまま頬に流れた涙を、高遠義則たかとお よしのりの手がぬぐっていた。




 八月二十六日。夏休み中の夕方。千尋は、がらんとした大学に来ていた。頭の中は相変わらずモヤモヤしていたが、空はよく晴れていた。


 日中の気温は三十度を超えていたが湿度は低く、せみの声さえなければ暑さもさほど苦にならなかったかもしれない。


 浅葉と電話で話してからどれぐらい経つだろう。千尋としても電話を待っていたのは確かだが、こんなことを続けて先々どうするのか、長期的にはどうしたいのか、と自問してしまい、いざかかってくると冷たくあしらってしまう。そんなことが何度か続き、千尋は自分でも嫌になっていた。


 昨日、久々にかかってきた浅葉の携帯からの電話をついに無視した。自分がもっと機嫌のいい時に、冷静に今後のことを話し合いたかった。


 図書館で資料を探していると、バッグの中の電話が振動し始めた。その着信が珍しく「非通知」と表示されたことで、出なければいけない気にさせられた。しかしかかってくる当てといえば……。


 ちょうど周囲には誰もいない。千尋は口元を片手でおおい、小声で電話に出た。


「はい」


「千尋」


 怒っても慌ててもいない、いつも通りの声。


「はい」


「元気?」


「はい」


「ごめんな、しばらく話せなくて」


 昨日電話に出ず、かけ直しもしなかったのは千尋の方だが、それには浅葉は触れないつもりらしい。


 何も言えずにいると、再び浅葉の声が聞こえた。


「いつ……会えるかなと思って」


 責める口調にならないよう気をつかっているのがわかる。千尋だって会いたいのはやまやまだったが、またいつかのように、会って体を交えたはいいがその結果もっと苦しくなる、という事態を恐れた。


 こんな不安を抱えたまま付き合い続けてどうするのかという思いが捨て切れない。浅葉のせいにしたくはないが、心が疲れていた。


(忙しいんでしょう、無理しないで)


 思わず言ってしまいそうになり、口をつぐんだ。千尋が黙っていると、


「最近、どう? バイトとか、順調?」


 苛立いらだった様子もなく、いつも通りの落ち着いた声が問いかける。その声だけでわだかまりを融かしてしまう浅葉のことを、ずるいと思った。


 あま邪鬼じゃくな自分の陰に隠れていた正直な感情が、一気に掘り起こされるのを感じた。話などしたくない。そんなことより黙って抱いて、と言ってしまいそうになる。


 会えばやるだけ、という付き合い方はもともと軽蔑していたし、他ならぬ浅葉との関係がそんなところへ転落していくのは嫌だった。かといって、欲しくないふりをすることなど、もはやできそうにない。


 浅葉への気持ちが全て愚かな肉欲に取って代わられたような気がし、千尋はそんな自分が憎かった。


 いつまでも黙り込んでいる千尋のモヤモヤを察したかのように、浅葉が言った。


「ねえ、今どこ? 行っていい?」


 車の中からおきて破りの業務用携帯で電話している浅葉が目に浮かんだ。はっとするほどの深さを持った瞳が、恋人の姿を求めている……。想像の中の浅葉は、逆らい難い力で千尋の心を揺さぶった。


「図書館です。大学の」


「そっか。じゃあ、裏門でどう? 六時半には着く」


 自分の中のみにくい思いが、何事もなかったように発されたその言葉に洗われていくようだった。今なら素直になれそうな気がした。


「うん、待ってます」


 時間を見計らい、資料を片付けて裏門に向かうと、街灯の下には既にその姿があった。


 助手席のドアにもたれて立っていた浅葉は、門の先に千尋を見付けると足早に歩み寄った。何か言わなければ、と言葉を探した千尋を、迷いのない両腕が包み込む。忘れかけていた、ずっと恋しかった温もりが一気に押し寄せた。


 千尋は全てを忘れてその胸にかじり付いていた。みるみる込み上げてくる涙をどうすることもできなかった。たかだか二ヶ月弱会えない程度のことに耐えられない女だと思われたくなかったが、隠すことすらできず、ただ子供のようにしゃくり上げた。


 久々に見る浅葉は、圧倒的に大人だった。サークルの中では比較的落ち着いた雰囲気のある義則よしのりと比べても、ずっと。


 職務を持ち、世のため人のため、時には命がけでそれを全うしている男が、休もうと思えばただ休んでもよいはずの貴重な時間を千尋のためにいて、今目の前にいる。


 釣り合わない、と思った。私はあなたの気持ちに応えていない、と。あなたの日常を理解すらできていないし、支えるどころか掻き乱している。


 ただ寂しいから、一緒にいてほしいから、癒してほしいから、甘えさせろと要求しているだけなのだ。それが果たして恋人のすることだろうか。


(なんで私のことなんか……)


 理由がわかるぐらいなら苦労しないよ、という浅葉の苦笑が、千尋の涙をすり抜け、降り注ぐようによみがえった。恋なんて、しなければよかった。されなければよかった。千尋は唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。


 ひとしきり泣き終えると、長いこと置き去りにされていた心と体の渇きが沸々ふつふつと頭をもたげた。二人分の服の厚みが急にわずらわしくなる。


 ワイシャツの向こうに、浅葉の汗が感じられた。千尋は無意識のうちに、ボタンの間から手を滑り込ませていた。滑らかな胸が静かに脈打っている。


 浅葉は、何かにけしかけられるように押し入ってきた千尋の手に動じることもなく、その全てを受け止めるようにそっと尋ねた。


「うち来る?」


 違う、ただそばにいてくれればいいの、と言おうとしたが、体の方が正直だった。千尋は、早る気持ちを抑え切れぬまま小さく二度うなずいた。その頭を大きな手がぐるりと一周した。


「壁薄いから。お静かに願います」


と、千尋の口元に人差し指を当てる。浅葉らしい「セックス禁止令」解除宣言だった。


「でも、十時には出なきゃならない」


 何と答えればよいというのだ。千尋は不満たっぷりのため息を漏らし、浅葉を運転席に押し込んだ。

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