54 任務
廊下に出た長尾は、大部屋に向かおうとする浅葉を追いかけた。
「なあ」
その声に浅葉が振り向く。面と向かって聞くなら今しかない。長尾は覚悟を決めて切り出した。
「お前さ、田辺に協力頼むって話、最終的にかなりプッシュしたんだろ?」
長尾は当初、千尋の協力を得るためにこそ浅葉が交際を演じているのだと思った。しかし、本当に気持ちがあっての恋愛なのだとしたら、大切な相手をこんな危険な場に差し出す神経は理解し難かった。
「ああ」
「いいのかよ。
千尋本人には過去の話しかしていないが、宇田川が自由の身となった今、対立する麻紀勢組で、再び千尋を利用して宇田川を脅す計画が持ち上がる可能性がある。
「それは
麻紀勢組による八年前の田辺千尋誘拐計画が
長尾は食い下がった。
「そもそもリスク分の価値あんのか? 宇田川がこっちの要求すんなり
宇田川は
麻紀勢組との対立は今に始まったことではなく、この取引を中止したところで、いずれ激しい抗争に発展することはおそらく避けられない。つまり、取引を諦めろというのは事実上、麻紀勢組と和解した上で朝木里会を解散し、足を洗えという意味になる。
長尾が見る限り、宇田川はプロそのものだった。その判断に千尋の存在が影響するなど、
「最終的には呑む」
「なぜわかる?」
浅葉は長尾の目を見据えて言った。
「そんな気がするんだ」
その言葉に長尾は口をつぐんだ。気がするで済むか、と普通なら怒鳴り散らしてもよさそうな場面だが、浅葉がそんな気がする、と言う時は大抵何か根拠がある。これまで、浅葉の「そんな気」が外れたことは一度もなかった。長尾はため息混じりにその場を離れた。
千尋は、いい加減泣き疲れた頃、今日の浅葉の言葉を思い出していた。
もう十年以上前の話だけど、その手の抗争に一般人が巻き込まれたことがあるんだ……。
今回もそれと状況が似ており、過去の教訓から検挙よりも人命を優先することになったという。しかし、その十五年前の事件にはまだ続きがあった。千尋は帰宅後に思い立ってパソコンを開き、検索してそれを知ってしまった。
千尋の七歳の誕生日に、同じ首都圏内で起きていた悲劇。浅葉が千尋に対してその結末を伏せたことが、今の千尋にとって唯一の希望といえば希望ではあった。しかしそれは、逆らい難い疑念の前に
浅葉が最初から、警察の目的達成のために恋人を装って千尋を
千尋は、再び流れ出す涙を膝で拭った。
千尋を見つめた目、千尋に触れた手、溢れるほどに注がれた愛情。どれも本物としか思えなかったが、人を
(そうだよね。話がうますぎたよね……)
もし全てが嘘だったならそれほど悲しいことはないが、不思議と、許せないという気持ちは湧かなかった。浅葉が誰よりも切実にこの取引の中止を望んでいるのだとすれば、それにはもっともな理由がある。そのために、出所してくるこの男を説得すべく、一年という長い任務を浅葉が明日全うしようとしているなら……。
その計画を最後の最後で棒に振らせるチャンスが今千尋の手中にある。だが、千尋はどうしてもそんな気になれなかった。
(そのお陰で見させてもらった、一年の長い夢……)
千尋は、浅葉と過ごした時間のひとコマひとコマを思い出していた。誰かのことをこれほど狂おしいまでに思い、求めたことはかつてなかった。浅葉の意図がどうであれ、彼に対する自分の気持ちは変わらないような気がした。勘違いもここまで完璧にさせてくれれば、悔しさすら湧かない。
(嘘ならせめてつき通して。あなたとの美しい思い出は
一睡もせずに迎えた朝七時半。千尋は昨日のバッグから、携帯と坂口の名刺を取り出した。
九月二日。田辺千尋は、万一に備えて動きやすい服装で、という坂口からの指示通り、着古したスラックスとスニーカーで警察署に現れた。長尾が先ほど見かけた時には、泣き
昨日の田辺へのブリーフィングの時、浅葉は田辺の説得材料になるはずの重大な事実に
長尾はしばし迷った末、田辺には「いろいろ難しいと思うけど、ゆっくり考えてね」とだけ声をかけて浅葉の後を追った。
警察は間違いなく彼女の助けを必要としている。
浅葉だって自らこの戦法を強く
それを考えると、十五年前に浅葉の父親が警部として抗争収拾のために出動し、その現場で殉職したという経緯を「付け足す」ことは長尾にはできなかった。それを知れば彼女は、断りたくても断れない状況へと追い込まれてしまう。今朝、田辺がこの依頼を引き受けたと聞いた時、長尾は心底安堵した。
長尾は、配置や段取りの最終確認をそろそろ始めたかったが、浅葉が見当たらない。
「さては……」
案の定、ガラス張りの喫煙室にその姿があった。
浅葉は普段全く吸わない。ただ、目の前の事件に何か不安要素がある時、現場に向かう前に喫煙室を使うことがあった。儀式のようなものなのだろう。浅葉が喫煙室に入ったら他の者は出ていくこと、浅葉が自ら出てくるまでは話しかけないことが暗黙の了解になっていた。
「しかし、長いな」
長尾がしびれを切らしてガラス越しに覗くと、浅葉は二本目に火を付けているところだった。普段ならこもっても五分程度。煙草もせいぜい火を付けてくわえる程度なのだが、今日はやけに深々と吸い込んでいる様子だ。
長尾の経験上、一度喫煙室に入り、そして出てきた浅葉にはそれ以降何の心配もないとわかっていたが、いつまでも出てこない浅葉など初めてだ。そのストライプのスーツの背中を眺めながら、現場でブレんのだけは勘弁してくれよ、とぼやく。
これまでそんな心配をしたことはない。感情も私生活も全く匂わせない浅葉は、長尾にとって最高の相棒だった。しかし、浅葉も恋をするらしいという新しい概念が長尾の脳にインプットされた今、長年慣れ親しんできた法則がどこまで頼りになるのかは未知数だ。
「できないなら下りろと言ってやろうか……」
今それを言ってやれるのは長尾しかいない。しかし、そう簡単に代わりが見つかるぐらいなら苦労しないのも確かだ。宇田川は、浅葉が長いことこだわり続けてきた男だった。
長尾が頭を抱えかけた時、扉が開いた。煙の匂いと共に浅葉が現れる。その表情に苦悩の色はなかった。長尾に対して何かと容赦のない、いつもの浅葉の顔。
こうなったらもう長尾が気を
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