41  ダンス

 ピアノとサックスの小気味よい掛け合いを奏でているのは、何世代か前のCDプレーヤーのように見えるが、音は悪くない。少し大きめの写真立てで、その年季の入った外観をうまく隠していた。


「この写真、自分で撮ったの?」


「うん。そんな写真ばっかり山ほどある」


 からっと晴れたビーチ。沖に向けて徐々に青が濃さを増す海と、熱そうな砂。抜けるような空。端にヤシの木が二本。


(西海岸、か……)


「行けたらいいね、いつか一緒に」


 そうだな、という何気ない一言を期待したが、返事がない。浅葉はしばらく壁をにらみ、その目を固く閉ざした。


(えっ……?)


 千尋は慌てて言った。


「もちろん……いいよ、別に行けなくたって。そんな……」


 マジにならなくても、と心の中で付け加えた。浅葉がこの仕事を続けている限り、そんな日はきっと来ないことぐらい、千尋だってわかっている。軽い気持ちでおよそ叶いそうもない夢を語ったことで、浅葉を深く傷付けてしまったのだろうか。


「ごめんね」


 千尋は努めて明るく言うと、からになりかけた二つのグラスにシャンパンを注ぎ足した。


 浅葉は片手で額を覆うようにして、こめかみをほぐしていた。あぐらをかいたスーツの膝に千尋がそっと手を触れると、浅葉はその手をぎゅっと握ってようやくまぶたを持ち上げた。


「ねえ、キスして」


 千尋はそう囁くと、肩を擦り寄せて露骨に甘えた。浅葉の気がれさえすればよかった。


 浅葉は目の前の水面に浮かぶ炎をゆっくりと順に吹き消した。部屋の隅に点々と残ったキャンドルが、それにつられたようにふわりと灯を揺らす。薄明かりの中、浅葉は指先で千尋の顎を撫でながらゆっくりといつくしむように距離を縮めた。


 千尋は、これが私のファーストキスではないかと錯覚していた。まず先に触れた額が左右に揺れて擦り合った。千尋が目を閉じると、浅葉はいつになくおずおずと唇を触れてきた。けだるいスローモーションがいつものペースを取り戻すまでにしばし時間を要した。


 ふと中断してシャンパンをぐいっと減らした浅葉には笑顔が戻っていた。千尋も自分のグラスをしっかりと傾ける。


 キスしてはシャンパンを飲み、飲んではまたキスした。BGMはいつしかボーカルが入った洋楽のバラードに変わっていた。六十年代とかその辺りのサウンドだろうか。


 浅葉がおもむろに立ち上がり、うやうやしく手を差し伸べた。千尋はその姿に見とれながら、こういう場面、映画で見たことある……と考えていた。僕と踊ってくれませんか、って……そう、大抵はハッピーエンド間際のワンシーン。


 そんなことを思いながら、どうやら自分がそのシーンを演ずるらしいという事実を頭の中で消化するのに数秒かかった。千尋はまごつきながらも、浅葉の手に自分の手を託し、その舞台へと踏み出す。


 浅葉は千尋の手の甲に口づけると、そろりと後ずさり、窓際へと千尋を導いた。浅葉の右手が千尋の肘に軽く触れ、背中に回った。千尋の左手はごく自然に浅葉の肩に乗り、いつの間にか立派なヒロインができ上がっていた。キャンドルの小さな炎に見守られながら浅葉に全てを委ね、この宇宙を漂う。


 何とも現実離れしたひとときだった。自分が観客でしかなかった時は、単にスローテンポの音楽をバックに男女が触れ合い、体を揺らすだけのことと思っていた。それがこんなにも美しく尊いものだったなんて……。


 今まで考えたこともなかった愛の形。目の前の浅葉の温かさが全てだった。この世から他の何もかもが消え去ってしまったかのような、かけがえのない時間と空間がそこに生まれていた。あなたと、私だけ。


 ずっと前にテレビで見た昔のハリウッド映画。その中で聞いたことのあるメロディが続く。千尋も英語は決して苦手ではない。ハスキーな声が南部なまりでつむぐその歌詞に耳を傾けた。


   ほら そこに 青い空

   そして白い雲

   輝かしい今日という日に

   清き闇夜が下りる

   こんな時、思うんだ

   この世はなんて素晴らしいんだ、と


(この曲って、こんな歌だったんだ……)


 今ここにこうしているだけで、この世はただただ美しい。そんな気がしてくる。


 千尋は左手を浅葉のうなじへと滑らせ、額をその胸に預けた。その瞬間、世界一愛情に満ちた腕に抱きすくめられる。右手は浅葉の手に包まれたまま、その甲は低く脈打つ温かい胸に触れていた。千尋はそこに頬を当て、浅葉の思いに耳を澄ました。




 どれぐらいの間そうしていたのだろう。千尋は、闇の中に突然浅葉の声を聞いた。


「そろそろおネムかな?」


「うーん……」


 むしろ、いつの間にか半分寝かけていた。目を覚まそうと頭を振る。浅葉がその様子を見て目を細めるのがちらりと目に入った。


 浅葉は千尋の両肩を支え、一歩下がった。


「このドレス、お前によく似合う」


 千尋はそれを聞いて、夢うつつにふふっと笑った。よそ行きの中でも一番のお気に入りだ。最愛の人に似合うと言われて嬉しくないはずがない。


「でも、寝る前に脱がないと。しわになっちゃうよ」


「ん」


 背中のファスナーがジジッと音を立てた。腰に引っ掛かったドレスが浅葉の手で浮かせられ、ふわっと床に落ちる。何となく条件反射で浅葉の首に抱きついたが、千尋の意識は遠のきつつあった。


 耳元でチュッと唇が鳴ったかと思うと、そのまま太腿ふとももから抱き上げられていた。痛い、と呟こうとした時にはもうベッドの上。途中、体を起こされて何か着せられ、んーんーと声だけで文句を言った後、千尋は満ち足りた気分で眠りに落ちていった。




 目覚ましが鳴る。聞き慣れないアラーム。反射的に左に手をやるとそこは壁。


 はっと跳び起きると、それは千尋の右手のテーブルで鳴っていた。慌てて手を伸ばして止める。千尋のスマホとは似ても似つかないガラケーだ。


(そうだ、浅葉さんの部屋……)


 ということは、これが浅葉のプライベートの携帯か。かなり古そうに見えるそのガラケーの画面は、七時を示していた。


 千尋は、まだ半分寝ぼけた頭で周囲を見回す。部屋の主の姿はもうなかった。


 カーテンレールに吊るしたハンガーに、千尋のドレスとストッキング、ブラジャーが掛かっている。思わず胸元に手をやった。千尋は大きなグレーのTシャツを着ていた。下は黒のスウェットパンツ。すそがたっぷり折ってある。


 それを見ると何だか浅葉がここにいるような気になり、千尋はつい膝を抱えて顔をうずめた。昨夜の甘いひとときがしっとりとよみがえる。


 浅葉はいつの間に出ていったのだろう。隣にその愛しい温もりを感じた記憶はうっすらとあるが……。千尋は、ぐっすり眠ってしまった自分をきつく叱った。この部屋に泊めてもらえる機会なんてそうそうないのに、なんてもったいないことだ。


 頭が少しはっきりしてくると、テーブルに置かれた紙切れが目に入る。


〈カギはドアポストの下。出る時また入れといて〉


 少し左に傾いた縦長の字。その下に、最寄り駅までの道順を示した簡単な地図。その下に……右上から左下へ、ひょろんとうねった曲線。


(あ、シュウジのS……?)


 もしかしたら、そろそろ名前で呼んでほしいのかな、と思う。


 千尋はしばらくその筆跡に見入ったが、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。今日は二限に外せない講義がある。自宅に戻り、着替えて出直すのが精一杯だろう。


 急ぎでなければ買い物に出て、夜食用に何か作っておいてやれたのに、と悔みかけたが、よく考えたら、どうせ次はいつ帰ってくるかわからないのだった。


 ストッキングを穿こうとして、右の親指の付け根に絆創膏ばんそうこうが貼ってあるのに気付く。


(靴ずれ……?)


 例の二次会でもそうだった。慣れないパーティーパンプスを履くと、大抵どこかに靴ずれができる。昨夜は特に痛いとも思わなかったが、浅葉が気付いて貼ってくれたのだろう。


 ブラジャーを手に取りながら思った。ドレスを脱がせ、これを見てどんな顔をしただろう。千尋はもともとピンクや黄色、水色といった淡い色が好みだが、このネイビーブルーの上下は、浅葉と付き合い始めてから買ったものだ。


 買ってすぐに一度洗ったきり、引き出しにしまいこんだままになっていた。前面に入った刺繍ししゅうが目を引き、いかにも勝負用っぽすぎるのではと気が引けたのだ。昨日はドレスアップついでに、手持ちの中では勝負用の部類だがあくまで品は良い、と自分に言い聞かせてこれを選んでいた。


 支度を済ませ、外からかけた鍵をドアポストに落としながら、そういえばあの人、どうやって中に入るのかしら、とぼんやり考えた。


 通りに出ると、千尋のドレスとよく似た色のアジサイが露に濡れていた。




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