40  浅葉邸

 車に戻ると、浅葉は運転席から千尋の顎を持ち上げてキスし、ゆっくりと発進した。


 千尋はすっかり安心しきって助手席に身を沈めていた。これからどうする、と聞かれない限り、浅葉に任せておけばいい。


 車が減速し、車道から少し乗り上げるようにして駐車場らしき場所に入った。浅葉はその空車スペースの一つに車を収め、キーを抜いた。


 ここは? と千尋が目で尋ねると、浅葉は千尋のひたいに長々と唇を押し付けてから、いたずらっぽくささやいた。


「俺んち」


 その響きにドキッとして千尋が固まっている間に、浅葉は車を降りて助手席のドアを開けに来た。その手に引かれて車を降り、蛍光灯の光に照らされた駐車場を横切る。


 建物の中に入り、一階に停まっていたエレベーターに乗った。ボタンは六まであり、浅葉は四を押した。


 エレベーターを降りて右側、一つ目のドアの前で立ち止まる。鍵を回してドアを開けると、浅葉は千尋の背中をふわっと撫でた。千尋はドキドキしながら足を踏み入れる。


「ひっさびさに掃除しちゃった」


 浅葉は電気を点けた。


 廊下の左手にドアが二つ並び、右手に立派なキッチン。まっすぐ進むとフローリングのリビング。真正面がベランダに通じる窓で、右手手前にベッド。真ん中に敷いたカーペットの上にシンプルな黒の低いテーブル。


 左手にはテーブルと同じ色と質感の、背の低い横長の本棚。本棚に向かって左手の壁にクローゼットらしき引き戸があり、反対側の窓際に小さなテレビがある。それこそ、学生の一人暮らしに毛が生えた程度の住まいで、実に浅葉らしい気がした。


 そこへ、数人の笑い声が聞こえてくる。隣の部屋だろう。五、六人が集まって話に花を咲かせている風だ。


「壁薄くてさ。まあ、ほとんどここにはいないから関係ないけど」


「そうね。でも、いない割には素敵なお住まいで」


「お褒めにあずかり、光栄です」


「ねえ、いきなり悪いんだけど、お手洗い借りてもいい?」


 ビールを飲んだ時ほどではないが、ワインにもそれなりに利尿作用があるらしい。


「ああ、そこの右のドア」


 ドアを開けて電気を点けると、余計なものが何もなく、カバーやマットといった類のものも一切見当たらない、つるんとしたトイレだった。かろうじてタオル掛けには白いタオルが掛かっているが、これは千尋用に出してきたものかもしれない。


 千尋が用を済ませて出てくると、浅葉はキッチンの引き出しを覗き込んで何かを探していた。リビングには低い音で音楽が流れている。その心地良いジャズに誘われ、千尋の心は甘いムードに満たされた。


 本棚に歩み寄ってみると、上の段には法律関係の本がずらりと並んでいる。分厚いものから普通の単行本風のものまで、どれもだいぶ使い込まれている様子だ。


 下の段には医学やら心理学やらのこれまた難しそうな本が並び、間に似たようなテーマでいくつか英語の本が混じっている。その横に中国語の語学教材。


 右下の端には古びた雑多な洋書が十冊前後。その一番右に、おそらく高さが足りないがゆえに背表紙を上にして置かれている大判のハードカバーが気になった。他の本の並びからはみ出たその表紙を、奇妙な生き物の写真が飾っている。


 千尋が顔を九十度傾けてタイトルの横文字を読み取ろうとしていると、浅葉がひょいとそれを取り出してテーブルに乗せた。


「好き? アリクイ」


「何これ、図鑑……的な? アリクイって、またマニアックなとこ攻めるねえ。なんで?」


「誰が買うんだよ、と思って」


「と思って? 買っちゃったんだ」


「こんなもん見付けちゃったら買うしかないだろ。きったない古本屋だったな」


「この使い道なさがたまらないって感じ?」


「これで何時間つぶせるかって賭けたりして。若かったなあ」


 千尋は、浅葉の学生時代に再び思いをせながらページをめくった。あらゆる種類のアリクイの写真と、英語の説明が次々に登場する。


「でも、持ってると思うと、たまに見たくなるから不思議」


「うん。なんかいやされるかも」


「ちょいちょいグロいの出てくるから、気を付けろよ」


「確かに……」


 解剖図のイラストはまだいいが、今まさに「お食事中」の写真に千尋は顔をしかめた。


「そうだ、さっきの食前酒のシャンパン。あるんだけど、うちにも。飲む?」


「えー、飲む飲む」


 まさか再びありつけるとは。


 カウンターの向こうの冷蔵庫を浅葉が開けると、中には実にそのシャンパンだけが入っていた。千尋のためにわざわざ冷やしておいたに違いない。


「さすがにというか何というか、すっきりしてますね。冷蔵庫」


「電源入れたの久しぶりだけど、意外と動くもんだな」


 浅葉はボトルを手に戻ってくると、慣れた手付きでワイヤーをねじり、ストッパーを外した。ボトルの底を腹に当ててくうを見つめ、慎重にコルクをひねる。浅葉の手の中でポン、と音がし、瓶の口からふっと白い筋が上がった。


 それをテーブルに残し、キッチンに戻った浅葉は、安定感のある二種類のウイスキーグラスを手にしていた。


「グラスがしょぼいけど、そこは大目に見てね」


 最低限のものしかない部屋も、浅葉さえいれば居心地は最高だった。グラスを満たすと、浅葉は電気を消した。いつの間にかそこかしこのキャンドルに火がともっていた。なるほど、と千尋は納得する。先ほどから漂っていたバニラのような甘い香りはこれだったのか。


 浅葉はその明かりの中の一つを、キッチンのカウンターからリビングのテーブルに移した。ガラスの器に水を張り、そこに小さなキャンドルが三つ浮かべてある。


「へえ、素敵」


 カーペットの上に並んで座り、チン、とグラスを合わせた。ここではマナーも関係ない。


「うん、やっぱりおいしい」


「俺も好き、これ」


 本日一杯目の酒をうまそうに傾ける浅葉に、千尋は思い出話の続きをせがんだ。


 大学は日本でいう工学部のようなところで、エネルギー関係を学んだという。


 バイトは先ほど言っていたホテルのレストランの他、夏場は「肉体的には警察学校よりよっぽどきついトレーニング」を課されたビーチのライフガード。短期では企業のリサーチアシスタントからB級映画のエキストラまで、面白そうな仕事は時間が許す限り何でもやった。


 風力発電のタービンの状態をチェックするというインターンシップで世話になった会社には、「タービンオタクみたいな黒人のおっさんにえらく気に入られて」就職が決まりかけていたという。


「どうして……日本で警察に?」


「……なんでだっけ?」


 浅葉はシャンパンを傾け、千尋の前髪をシューッと指でしごく。


「モテたかったからかな」


 千尋はその手をきゅっとつねった。


「何それ。向こうで十分モテたくせに」


 浅葉はちょっと困ったようにうつむいて笑った。


「まあ、人並みにはね」


 語りたくないテーマについては適当にかわしつつ、しかしその心境を隠そうとはしない。千尋はそんな浅葉を心から愛せそうだと思った。


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