39  舌鼓

 二人の席は六角形の部屋の角の一つに位置していた。そう広くない店内だが、隣の席との間は随分気前よくたっぷりとけてある。


 千尋のような年齢層は全く見当たらないし、浅葉もこの中では圧倒的に若い。五十代と六十代ぐらいの男女が一組ずつ既に食事中で、男性三人女性一人の接待風のグループが一組、ちょうど入店してきたところだ。


(カジュアルでもいいぐらいとか言ってたけど……)


 およそそんな雰囲気ではない。皆よそおうるわしく、マナーも心得ているように見える。


 ちょうどシャンパンを飲み終える頃に白ワイン、続いて前菜が運ばれてきた。


 テーブル中央に千尋の方に向けて牡蠣かきのワイン蒸し、その隣に取り皿が一つ置かれ、残りわずかになっていた浅葉のグラスに炭酸水が注がれる。


 皿の中心に寄せて高さを出した美しい盛り付けを千尋が目で堪能し終えると、浅葉はナイフとフォークをあざやかにさばいてそれを取り分け、元の皿に千尋の分を美しく残した。


「すごーい、プロみたい」


と褒めると、浅葉は得意気に片目をつぶってみせる。たこ焼きを食べながらストロベリーバナナを飲んでいたのと同じ人物とは到底信じられなかった。


 牡蠣はソースまで牡蠣の味がして素晴らしい出来だ。噂にたがわず、フランス料理はやはりソースがポイントらしい、と千尋は納得する。香草の香りも邪魔にならず、ちょうどいい。


 牡蠣自体の蒸し加減も、紛れもなく最適解だ。舌に触れる表面の柔らかさ。噛んだ時にジュワッと溢れ出す磯の風味。時間を厳密に計っているのか、はたまたシェフの勘なのか。火が通り過ぎたら台無しになるところを、余熱まで計算に入れ、確信を持ってケアしているのだろう。


 これと入れ替わりに運ばれてきた前菜二皿目のオマール海老も実に美味。プリッとした身にしっかりと味があり、海老味噌を生かしたらしき独特なソースがそれを引き立てる。


 フィンガーボウルというものを生まれて初めて使いながら、千尋はうっとりと目を細めた。


「ワインどう?」


「うん。おいしい」


 酸味がきつすぎず、まろやかで口当たりのよい白だった。


「お料理と合うとかは、正直よくわかんないけど」


「俺もワインは詳しくないけど、邪魔になる時は結構わかるんだよね。気にならなければ上出来じょうできかも」


「ふーん」


 そう言われてみると、合っているような気がしてくる。


 ワインを味わいながらグラスを置いて手を引くと、その拍子に、皿のふちに乗せていたナイフがぴょんと跳ね、床に落ちてカチャン、と音を立てた。


「あっ」


 千尋が首をすくめるよりも早く、浅葉は自分が手にしていたナイフの向きを変え、千尋の皿の右端にひょいと置く。


 ウェイターが気付いてやってくると、浅葉は軽く手を上げ、


「すみません」


と新しいナイフを受け取った。他の客が何人かこちらを見ていたが、彼らには浅葉が落としたように見えたかもしれない。


「ごめーん」


 千尋がささやくと、浅葉は、


「派手に飛んでくれたから、ドレスが無事でよかった」


と余裕の笑み。千尋が恐縮しながら周りを見回すと、一番近くに座っていた五十代ぐらいの夫婦だけは、何も聞こえなかったかのように平然と食事を続けている。千尋は密かに感心した。


(ああいうのが本当に洗練されてる人たちってことなのかな……こういうところってほんと、人間性が出るわあ)


「ディナータイムだけで一人二人は必ず落とす。今日はお前が当たり引いたってだけ。何回落としたって大丈夫。何度でも持ってくるから」


と浅葉は笑い飛ばす。


「もしかして、やってたの? こういうバイト」


「ホテルのレストランでね。厳しかったけど、チップでかなり稼いだな」


「チップって……そっか、あっちでのバイト?」


 浅葉がアメリカ帰りであることは、そういえば長尾から聞いて以来あまり意識していなかった。


「ねえ、アメリカの話、聞かせて」


「まあ、学校行って、後はバイトしてたぐらいだけどね」


「どこにいたんですか?」


「最初オレゴンで、その後カリフォルニア」


「高校から?」


「うん。編入したんだ」


 からになりかけたワインをウェイターが見付けて声をかけた。もう一つの白のグラスワインを頼み、浅葉のアメリカでの高校生活に耳を傾ける。


 じきに運ばれてきたメインディッシュその一、タラのソテーは、一人前が既に二つの皿に分けられていた。見た目のボリュームダウンをカバーするためか、ソースを使って色目を足してあるようだ。


 たかがタラとはいえども、身のほぐれ方からしてやはり一流店の仕事。表面のカリッとした焦げ目が香ばしく、内側の白身は驚くほどしっとり。こんな最強のコラボに口の中で共存されてしまうと、もう何も言えなくなる。


 それが片付くと、デザート風のかき氷のようなものが出てきた。グラニテと呼ばれ、口直し用のものらしい。本物のフルーツを使っているらしき、フレッシュな柑橘系の味だ。


 ここで浅葉はワインリストを見ながらウェイターとやり取りし、赤ワインを一つ選んで千尋にOKを求めた。聞いたそばから忘れてしまいそうな名前だなと思いながら、千尋はさもわかった風な顔で頷く。浅葉はそれをハーフボトルで頼んだ。


 メイン二皿目は仔牛のロースト。こちらもシェアした結果貧相にならぬよう、華やかに飾られていた。肉の断面の艶やかなピンク色が、新たな食欲を掻き立てる。


 口に入れた瞬間の柔らかさにまず驚き、肉の旨味とはこれほど深いものだったのかと、千尋は感嘆した。それでいてしつこくない。ドロッとした茶色のソースは、何をどう混ぜどう煮詰めたのか、千尋の味覚のツボを的確に突いてくる。


 赤ワインは千尋好みの渋さ。肉料理にかかったソースや肉汁とよく合い、これがマリアージュか、と、どこかで聞きかじった用語を使ってみたくなる。


 文句なしにおいしい組み合わせだったが、浅葉の若かりし日の寮生活で次々と起こる騒動に夢中になり、つい手が止まってしまっていた。千尋が最後の一切れを大事に口に入れると、浅葉も付け合わせがわずかに残った自分の皿をけにかかった。


「ひょっとして……待たせちゃいました?」


「悟られるようじゃ俺もまだまだだな」


 少年のようなその笑顔を、千尋はとろけるような思いで見つめた。


 その時、キン、と音がした。ここから一番離れた席の六十代夫婦の奥さんの方が何か落としたらしい。浅葉が、ほら、お前だけじゃなかった、といわんばかりに眉を上げてみせる。


 新しいものを持って係が駆け付けるのは千尋の時と同じだが、旦那の方はあからさまに顔をしかめ、とがめるような顔つきで妻を見ていた。そういえば千尋の元彼二号などもそんなタイプだった。


(女の人生なんて、男一人でどうにでも変わっちゃうんだな……)


 お腹は十分満たされていたが、ワゴンにずらりと並んだチーズから三種類をウェイターに選んでもらって二人で分け合い、メレンゲとフルーツの層が交互に重なったデザートをのんびりと味わった。


 独特な渋みのある赤ワインをたっぷり楽しんで空けた後は、コーヒー、紅茶と一緒に焼き菓子まで出てきたが、さすがに食べ切れず持ち帰らせてもらうことにする。


 お酒も料理もおいしく、浅葉との豪勢なディナーに千尋はすっかり夢見心地だった。絶対に千尋に恥をかかせないし、何があっても守ってくれる。しかも、こんなに何もかも任せっきりなのに決して引け目を感じさせない。こんな人本当にいるんだ……と思うのはもう何度目だろう。


 浅葉のカードで会計を済ませ、世話になったウェイターにお礼を言って店を後にする。出口に向かう途中で何となく目に入った他のテーブルには、箸は置かれていなかった。



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