38  晩餐

 六月四日。千尋は、姿見すがたみに映る自分を見つめていた。去年の春、先輩の結婚式の二次会用に、一目惚ひとめぼれして買ったドレス。


 お店の人が「青藤色あおふじいろ」と表現した独特なブルーがいたく気に入った。胸から腰まで自然なギャザーが寄せられ、左胸には縦にフリルが入っている。ウエストから下に程良く広がったシルエットも品が良く、友達からは「大人カワイイ」と好評だった。


 肩が細いひもだけなので、その二次会の時と同じく今日もシースルーのショールを羽織はおり、胸元で結んだ。


 でも、今日は今日で特別な日。全てをまるっきり二次会仕様にはしたくなくて、ネックレスとイヤリングは、去年の誕生日に母がくれた比較的小ぶりなシルバーのセットを選んだ。


 最近サボりがちだったメイクも、久々に化粧品を買い替えて気合いを入れた。ネイルはちょっと落ち着いた感じに、と透明を塗り、先の方にだけ小さく斜めに紺を挟んで白を入れた。


 約束の夕方六時半。玄関に出しておいたシンプルな白のパンプスを履いてドアを開けると、目の前に浅葉が立っていた。


 飛び付く代わりに、その姿に見とれた。ごく控え目な紺の三つ揃いに淡いブルーのシャツを合わせただけの出で立ちだが、浅葉にかかれば何でもさまになる。レッドカーペットでも歩かせたらさぞかし絵になるだろう。


 千尋は、どうせならと思い切って美容院に予約を入れ、髪をセットしてきた自分に心底感謝した。アップにするか下ろすか迷い、その間を取った。


 上半分を思い切り左に寄せ、くるんと丸めたところに逆毛をたっぷり立たせて、残りの髪を左肩に垂らしている。やっぱりプロは違うわ、とつい先ほどまで鏡の中の自分にれしていた。自分ではなかなかこうはいかない。


 ちょっと照れて首をかしげた千尋を、浅葉は上から下までしげしげと眺めた。こぼれた笑みを隠すように少し伏せ、片方の眉をひゅっと上げる。


「参ったな」


「浅葉さん、素敵、とても」


「お前には負けたよ」


 浅葉は千尋のメイクをくずさぬようにと気をつかってか、千尋の肩にかかった髪を一房ひとふさ取ってキスした。


 まともにエスコートされることになどもちろん慣れていない千尋だが、絶妙な角度でさりげなく差し出された浅葉の腕に、いつの間にか自然に導かれていた。




 浅葉が車を停めたのは、どう見ても閑静な住宅街。


「ここ?」


「五分ぐらい歩くけど、靴、大丈夫?」


 浅葉の気配りを独り占めできるひとときは、未だに千尋をこそばゆい気持ちにさせた。


「大丈夫じゃなかったら、どうしましょ?」


 大袈裟おおげさに慌ててみせると、


「俺の腕力は知ってるだろ?」


と、白い歯を覗かせる。この人なら本当に私を抱きかかえて門をくぐりかねない、と思うと、笑いが込み上げてくる。


 浅葉は一瞬千尋の膝に手を置くと、車を降りていった。何となく、待っててと言われた気がしてそのまま座っていると、助手席のドアが開き、浅葉が手を差し伸べた。千尋はすっかりお姫様気分で、その上に自分の手を重ねた。




 少し歩くと、そのレストランは唐突に姿を現した。レストランというよりも、立派な邸宅といったたたずまい。つたの絡んだ門が頭上にアーチを描き、暖かな照明がふんわりとそれを照らす。ヨーロッパのお金持ちの家にでも遊びに来たような気分にさせられた。


 門を抜けると、石畳の先に扉が見えた。受付係に浅葉が名前を告げると、すぐに別の係がやってきて案内に立った。浅葉はさりげなく千尋を促し、案内係との間を歩かせてすぐ後を付いてくる。


 窓際の席に案内され、ふと前方を見ると、ガラスに映った浅葉のシャツと自分のドレスの色が妙にマッチしているのに気付き、千尋はふっと微笑を浮かべた。


(偶然とはいえ、お似合いじゃない)


 二人の抜群のコーディネートに、千尋は早くもご満悦まんえつだった。その時、浅葉の手が背中に触れたのを感じ、何となく一歩踏み出すと、目の前で案内係が椅子を引いていた。


「あ、ありがとうございます」


 軽く会釈して腰掛けると、浅葉も続いて席に着いた。ウェイターが品良く尋ねる。


「お食事の前に何かお飲み物はいかがですか?」


 とりあえずビール、というわけにはいかないのだろうと、千尋にも想像がついた。


(でも、飲み物のメニューはないのかしら……)


「あんまり甘くない方がいいかな?」


と、浅葉。


「うん、そうね」


「じゃあ、シャンパン一つと、僕は車なんでバドワを」


と浅葉が注文すると、ウェイターはかしこまりました、とにこやかに立ち去った。


(ほらね、何もわかってなくても、浅葉さんといれば大丈夫)


 二人でテーブル越しに笑みを交わす。


 間もなく、細いグラスが千尋の前に置かれた。ウェイターが千尋にボトルを見せ、産地のシャンパーニュ地方や味の特徴を説明してから、シャンパンをグラスに注いだ。続いて別のボトルから何かが注がれた浅葉のグラスにも泡が立っている。


「それ、何?」


「炭酸水」


「ふーん」


 運転があるからアルコール抜きとはいっても、もっと何か面白いものを飲んだらいいのに、と千尋は思った。


 その食前酒と一緒に、「アミューズ」と称してスプーンに乗せられた可愛らしい料理が二種類出てきた。ホウレンソウのムースと、アーティチョークのキャビア添え、だという。


(つまり、お通しね)


 千尋が納得してグラスを手にすると、浅葉も自分のグラスを軽く持ち上げ、憧れの人を見るような目をした。千尋は、その目に胸の奥を揺さぶられるような思いがした。


(幸せすぎて怖いって、こういうことなのかな……)


 見つめ合い、それぞれのグラスに口を付ける。


「うわあ、おいしい」


 シャンパンなんて普段飲み会で口にすることはまずなく、それこそ結婚式の二次会などで最初の乾杯用に出てくる程度。千尋はどれも同じだとばかり思っていたが、今日の一杯は全然違う。二口目をつい口の中で転がした。


 きりっと締まった口当たりを優しい渋みが追いかけ、後にほんの少しフルーティーな香りが残る。いくらでも飲めそうだが、おそらくそういう位置付けのお酒ではないのだろう。きっと大事にじっくりと味わうべきものだし、十分その価値がある。


 さて、このお通しをどうやって食べましょう、と浅葉の方を見ると、ずらりと並んだ食器の中から箸を手にしていた。テーブルに出ていたこの黒いシックなはしを千尋は不思議に思っていたが、浅葉に続いて遠慮なくそれを手に取る。


「フレンチにお箸って、ありなんですね」


「このサイズは箸だろ、どう考えても」


 一口サイズのお通しに目をやりながら、浅葉はどうやら千尋が手を付けるのを待っている風だ。千尋はまず、モスグリーンのムースの方を箸でつまんで口に入れる。


「わあ……」


 苦味の中にほんの少しの甘味と塩気。そのバランスが絶妙だった。一口で終わってしまうのが残念だが、一口だからこその贅沢な味わいなのだという気もする。


 アーティチョークとキャビアの方も絶品。千尋はアーティチョークもキャビアも食べ慣れていないが、素材の味自体が良く、それがどうやってだかわからないが最大限に生かされているのであろうことは伝わってきた。飲み込んでしまうのがもったいない。


 このシャンパンとお通しだけでも、十分来た甲斐かいがあったと感じ、千尋はこのレストランを独断で一流認定した。


 キャビアの後味を大事に味わいながら、千尋はメニューに目を落とした。所詮しょせん食べ物のことであろうに意味のよくわからないカタカナの羅列られつをしばらく眺め、ふと妙なことに気付く。


「あれ? 値段書いてない……」


 他のページを見ても、どこにも金額は書かれていなかった。


「なんで?」


と顔を上げると、浅葉はメニューなど見ていなかった。メニューをじっくりと読み込んでいる千尋のことをずっと見ていたらしい。


「いいじゃん、値段なんかどうだって」


「え?」


 そんな恐ろしい店があっていいのか……。


「ウソウソ。こっちに書いてある」


 浅葉は自分の手元のメニューをひょいと持ち上げたが、千尋にはその背しか見えない。浅葉はパラパラとページをめくり、


「うん、ぜーんぶ頼んでもまだ普通に暮らせそう」


うなずく。


「あ、でもワインリスト全部頼まれたらさすがに路頭ろとうに迷うな」


 茶目っけたっぷりに白い歯が覗いた。


「じゃ、お言葉に甘えて遠慮なく。でも、どれが何なのかよくわかんなくて」


「例えば?」


 千尋は聞き慣れない用語を一つずつ指差して尋ね、浅葉はそれを気長に説明していった。


 だいぶイメージが湧いて選択肢が絞られたところで浅葉が言う。


「書いてないことはお店の人に聞いたらいい。あと、シェアもできるから」


「あ、それいいね。やっぱりちょっとずついろいろ食べたいもんね」


 再びやってきたウェイターにあれこれ質問し、千尋主導でオーダーがまとまった。最後に浅葉が付け足す。


「あ、そうだ、二人でシェアしたいんですが」


「はい、プラでございますか?」


(何でございますって?)


 千尋が理解しかねている間にも、浅葉はにこっとウェイターを見上げて


「全部」


と、堂々と希望を述べ、


「アントレは差し支えなければこちらで取り分けますんで」


と付け加える。店側も全く困った様子はなく、かしこまりました、と去っていき、じきにワインリストを持って戻ってきた。千尋も一応気取ってリストを開いてみる。やはりここにも値段は書かれていない。


「グラスは何がありますか?」


 浅葉が尋ねると、白と赤、それぞれに二種類ずつ名前が挙がった。


 白ワインの一つはちょうど二人が注文したメインディッシュに合わせて選ばれた銘柄で、もう一方も魚介全般によく合う、とウェイターが説明する。まずはその後者の方からでどうかと浅葉に聞かれ、千尋は落ち着き払った態度で、


「うん、それにします」


と微笑んでみせた。浅葉につられ、自分までこういう場に慣れているような気がしてくるから不思議だ。


「赤はちょっと様子を見て考えます」


と浅葉はワインリストを眺め始めた。

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