31  バレンタイン

 千尋がようやく正気を取り戻すと、手負いの男は微かに顎の骨を鳴らしながら、ふやけ切った指を丁寧に舐めていた。


「ちょっと血が混じってるな」


「えっ?」


 浅葉は最後に小指をチュッとしゃぶって言った。


「ごめん、痛かった?」


 千尋は、ううん、と首を横に振る。痛くはなかったし、多少傷が付いたってどうでもいいと思った。今ここで浅葉と共にいられることが幸せ。ただそれだけ。


「四ヶ月もがなかったからかな、きっと」


「四ヶ月……」


 浅葉がふと真顔になる。


「そっか、あれからもうそんな経つのか」


「もぉー、忙しすぎて時間の感覚おかしくなってんじゃないの? まあ、温泉以来だから……厳密には三ヶ月半だけど」


「ま、アクセス不足は認めるけど、爪は完璧に落としてきたつもりなんだよな」


 浅葉の手を取ってみると、爪は確かに深爪ふかづめといってもいいぐらいに短く切られ、丁寧にヤスリをかけてあるらしく、まるっきり角がない。


「すごーい、つるんつるん。これって、私のため?」


 浅葉は千尋を抱き寄せて首筋にキスした。


「そう。大事な凶器を犠牲にね。素手すでで乱闘になったら、ちょっと不利だぞ」


と笑う。つられて笑いながら体をひねった千尋は、お尻の下に黒い布が敷かれているのに気付いた。半分に折られた浅葉のTシャツ。そこにたっぷりと女の蜜が広がっている。


「やだ……ちょっとこれ」


「洗えばいいじゃん。ベッドに直接よりは被害少ないだろ」


 そのTシャツの乾いた部分で千尋の下の方をさっと拭い、浅葉はそれを手に洗面所に消えた。千尋は恐縮しながらも、たった今目にした淫靡いんびみを頭の中で再生し直していた。


 浅葉はそのままシャワーを浴び始めたらしい。千尋はその音を聞きながら、早くも浅葉の帰りを待ち切れない思いだった。


 決して肉体的な快楽を与えてくれるから好きというわけではないが、その点も重要な一要素として無視できなくなりつつある。自分以上に自分の体を知り尽くした男というものが、まさか生涯のうちに現れるとは思ってもみなかった。


 浅葉と入れ違いでシャワーを浴び、出てきてからもまだまだ一緒にいられるという幸せを千尋は噛み締めた。


 あり合わせの夕食をのんびりと食べ、テレビや雑誌をネタに他愛もないおしゃべりを繰り広げ、真夜中のコンビニにおでんとアイスを買いに行って、浅葉がまた片足で階段を上り下りするのを二人して笑い、スマホのあらゆるゲームで対戦しながらたっぷり夜更かしをし、千尋の瞼がいい加減重たくなった頃、あくまで普通に仲良く床にいた。




 翌日はよく晴れた土曜日だったが、千尋は「怪我人は安静に」を曲げなかった。浅葉は浅葉で、千尋が一人で食材の買い物に出ようとするのを断固拒否する。


 そこへ、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。続いて「宅配便です」の声。普段なら心当たりがない限り警戒して居留守を決め込むところだが、今日は浅葉がいるので安心だ。


 千尋がドアを開けると、届いたのは赤、白、ピンクのバラの花束。差し出し人は聞くまでもないだろう。


 受け取ってドアを閉め、振り向くと目の前に浅葉が立っていた。


「ハッピーバレンタイン」


「やだあ、先週辺りまでおぼえてたのに……」


 一月中、浅葉へのチョコレート計画でさんざん頭を悩ませたが、いつまでも連絡がないので、バレンタインデー付近では会えそうにないとあきらめたばかりだった。


「ありがと。お花なんてもらうの初めて」


 浅葉は千尋の両肩に手を置き、目の奥をじっと見つめる。


「好きです」


「はい、私も」


 花を手にしたまま、長いキスを味わう。一呼吸ごとにバラが優しく香った。


 会えない間は辛かったけれど、会っている時のサービス精神はいつだって最上級だ。浅葉との時間は、他の何よりも濃い。それだけに切ない。夢でも見ているかのようで最高に幸せな一方、いつか終わりが来るぞと警告されている気分にもなる。


 浅葉の背に回した手に思わず力を込めると、花束の包み紙がクシャッと音を立てた。


 バラたちは、まだこれから開こうとしているものが多い。花瓶がないので、とりあえずカフェオレの空き瓶とビアマグに分けて生けることにする。


 ランチは冷蔵庫を覗き込んで協議の結果、サンドイッチ数種と野菜スープに落ち着いた。午後はベッドの上で寄り添いながら映画のDVDを見て過ごし、晩はデリバリーのお弁当を注文した。


 シャワーを浴びようとした千尋を浅葉が引き留め、たちまちその気にさせて再び念入りにする。「ここはこうでいいの?」と浅葉に聞かれながら少しずつ体勢を変え、千尋は心ゆくまで自分の好みを探求した。


 浅葉の目の前でその時を迎えた後、しばらくただ横たわって呼吸を整えてから、千尋は気になっていたテーマに思い切って踏み込んだ。


「ね、私にもいつか……スキルを仕込んでくれるわけ? あなたのための」


 浅葉ははっきりと眉をひそめる。


「何だよ、昨日も言ったろ。俺はそういうの求めてないから」


「実はこうしてほしい、とか、ないの?」


「ない」


 見事な即答。


「そんなはずないでしょ。そりゃ今は自信ないけど、教えてくれたら意外と伸びるかもよ」


「お前がどうしてもって言うなら別だけど、そうじゃないだろ。平等とか義務感のたぐいだろ」


 それは確かに当たっている。


「だってなんか、私ばっかりいい思いして……」


「それが俺の最大の趣味だから、しょうがないな」


「なんか、すっごい自己中みたいで」


「いいんだ、それで」


 浅葉はきっぱりと言い切り、千尋の方に向き直ると、そのあごをきゅっとつかんだ。


「前の男に何させられたか知らないけどな。お前がしたくないことはするな」


 その視線に焼かれるような思いがした。男なんてみんな同じだと思っていたのに……。


「わかったから、そんなカリカリしないでよ」


 それを聞いて浅葉はようやく手を離すと、それを自分のひたいに当て、頭をこすりつけた。


「ったく腹立つな。こんな風に洗脳しやがって」


(やだ、本気で怒ってる? ていうか、絶対あなたの方が少数派……)


 浅葉はきっぱりと言った。


「俺が特別何か望んでる時はお前にもすぐわかる。そう簡単に諦めないから安心しろ」


 なるほど、この人ならそうかもしれない、と千尋は思った。


「それに、俺がまるで楽しんでないみたいな言い方すんな。お前は自分の体がどんだけエロいかわかってない」


 そう言い残すと浅葉はキッチンへ行き、蛇口に口を寄せて水をすすった。


「エロいとか言わないでよ」


 千尋はそうつぶやきながらも、悪い気はしなかった。




 二月十五日。今日の現場に向かう準備を整えた長尾は、大部屋に戻る途中の廊下で足を止めた。浅葉が資料室の鍵を開けているところだった。


「あれ? お前まだ休みじゃなかった?」


「ああ、ちょっとな」


「精が出るね。何かヤバいのあったっけ?」


「いや、今んとこまだヤバくない」


 お前は気にしなくていい、という含意がいちいち気にさわるような仲ではない。浅葉が何をたくらみどう動いているかを周囲に対して伏せるのはいつものことだ。


 長尾は生返事ついでに、


「お前結局、仕事しかすることねえんだろ」


と茶化す。


「そうかもな」


「で、足は?」


「お陰様ですっげー痛い」


「ま、いてえとか言えてるうちは大丈夫だな。じゃ、俺ちょっと行ってくるわ」


「おう」


 長尾は足早に駐車場へと向かい、浅葉は目の前のドアに手をかけた。

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