30  快楽

 浅葉は確かに何の違和感もなく車を走らせ、もなく二人は千尋のアパートに到着した。


「あ、そうだ、ここも階段……」


 しかし、千尋が心配するまでもなく、浅葉は手すりに軽くえた手と右足だけで、ひょいひょいと身軽に階段を上がっていく。


「運動神経がいいと便利ですね。こういう時」


「いやあ、二階でよかった。これ以上階段あったらおぶってもらうとこだった」


 無事に階段を上がり終えた浅葉は先に立って歩き出したが、その足が廊下の中ほどで止まった。


 千尋が追いつくと、胸ポケットを探った浅葉の指先が、何も持たずにそのまま出てくるところだった。


「あげたよね、鍵。なくしたんじゃないでしょうね」


 浅葉は、まさか、と首を振り、両手を合わせる。


「ごめん、車に置いてきた」


 千尋はわざと大きくため息をつきながら自分の鍵を取り出してドアを開けると、


怪我けがの経緯については、今からじっくりと聞かせていただきますから」


と上がり込みざまにすごんでみせる。


 浅葉は律儀りちぎに洗面所に立ち寄り、手を洗った。千尋はここで甘い顔を見せてはならないと、えて反対側にあるキッチンの流しを使う。


 ベッドの端に腰掛けると、浅葉も痛めた足をかばいながらおとなしく隣に座った。


「いつもそういう……危ない目にってるわけですか?」


「いや、危ない目っていうか、話せば長くなるけど、まあ作戦のうちって感じ?」


「はあ?」


「ここはちょっと切られといた方がいいな、っていう」


「全然わかんないんだけど」


「まあ、いろいろあってさ」


「ちゃんと説明してください。ちょっと切られたんだ、ははは、で済むと思います?」


 急に悔しさが込み上げ、千尋は一気にまくし立てた。


「なかなか会えないし、電話もどうせつながらないし、何が起きてるのかさっぱりわからないし、浅葉さんが怪我したって……何があったって、私になんか誰も連絡くれないんですから。そりゃ、所帯のある方々なら、もちろん奥さんに連絡がいくんでしょうけど」


 千尋が唇を噛んで黙り込むと、浅葉はしぶしぶ口を開いた。


「かいつまんで言うとだな」


「はい」


「やったのは長尾なんだ」


「え? ……えっ?」


 困惑する千尋の手を、浅葉が柔らかく握る。


「薬物取引の検挙って、今まさにっていう現場を押さえてなんぼみたいなとこがあるわけ」


「はい」


「その関係で、場合によっては内偵ないてい捜査ってのがあって」


「……ないてい?」


「要するに、あんたたちの一味ですよ、って顔してもぐり込む」


「それって、とても危ないんじゃ……」


「で、俺が入ってゴソゴソやってたところ、いい感じに条件がそろいました。で、突入してきた長尾チームとにらみ合うとこまでは万事予定通りだったんだけど、まあ、かくかくしかじかで、土壇場どたんばになって微妙にヤバい展開になっちまって」


「ヤバいって?」


「まあ……ちょっとした乱闘というか」


「ちょっとした、って……」


「殴る、る、プラスちょっと刃物、的な」


 千尋は、開いた口を手で押さえることすら忘れていた。唖然とする以外に何ができようか。


「ま、それだけならまとめて押さえこみゃ済む話なんだけど、ちょっと問題があった」


「問題?」


「敢えて逃がした残党君たちが数時間後に第二弾をやらかすっていう、おいしいいもづる案件だったもんで」


「……つまり?」


「つまり、俺の覆面ふくめんはその時点までキープしたいと」


「ふーん」


「でも、警察とモメて俺だけ無傷むきずだったらバレるだろ?」


「なるほど」


「と、長尾が判断したらしく」


「ええ」


「とりあえず軽く血ぃ出しとこう、と」


「言ったわけじゃないですよね?」


「テレパシーを送ってきたので……」


「はあ」


「よし、どんとこい、と」


「テレパシーを送り返したわけですか」


「そういうこと。お前、話が早いな」


 浅葉は満足そうに千尋の頭を撫でた。


「まあ、ほんとは無難に腕を狙ったんだけど、邪魔が入ってさ。物理的に自然なとこで妥協した結果、こうなったと」


 もはやため息しか出ない。


「しかしあいつ、さすがだわ。うまいとこをスパッと切った。いい感じで血が出た割には全治二週間ぽっきり。そういう才能だけはピカイチだな」


「あのね、笑いごとじゃないんです」


「うん、そりゃそうだ。それなりに痛いからな。お前も優しくしろよ」


 そう言うなり、浅葉はキス攻めにかかる。千尋の説教モードが揺らいだ。うっかり応戦していると、浅葉の手が千尋の胸元に伸びてくる。


「ダメ。怪我人はおとなしくしてなさい」


と、その手首を弱々しくつかんだが、そう言いながら決して止めようとしていないのは明白だったろう。


 浅葉はまるで留まる気配がない。千尋の背中を支えてベッドに寝かせると、レギンスパンツの前を開けて手を差し入れ、下着の上から指を触れた。


「ちょっと……」


「今日は着けてないね」


「え? あ、ナプキン? ……ていうか、ダメですよ、怪我してるんですから」


「そう?」


と言いながら、もうのしかかってきている。


「ねえ、傷口が開いちゃう」


「こんなとこ使うっけ?」


 馬乗りになろうとした瞬間、浅葉は顔をしかめた。千尋はそれを見て噴き出す。


「めっちゃ使ってるし」


 浅葉もまゆを寄せたまま笑った。


「そうだな。ドンピシャだよな、むしろ」


 千尋の隣にごろりと横になった浅葉は、あきらめたのかと思いきや、千尋のセーターと中のブラウスをめくり上げた。そこから温かい手が侵入してくる。


「ダメだってば」


「手だけでよければ」


「やっ、そういうのはちょっと……」


いや? どうして?」


 浅葉は、ブラジャーにおおわれた千尋の右胸を手首でくるんとった。ついしっかり反応しながら、千尋は努めて冷静に言葉を発する。


「フェアじゃないっていうか……本当は私にもっと技術があればいいんでしょうけど」


 浅葉がくすっと笑った。


「技術って……」


「ね、いろいろ」


「いいよ、そんなの。俺はただ、お前の気持ちいい顔が好きなんだ」


 そんなことを言って千尋の素肌を撫で回す浅葉の手は、どうにもこうにもあらががたい。


 浅葉はベッドの上に足を伸ばしたまま腰をひねり、とどめといわんばかりのキスを浴びせた。千尋は着ているものが急にうっとうしくなり、セーターのすそを自ら持ち上げた。それを浅葉が引き継いで器用に取り払う。


 浅葉は、千尋のブラウスのボタンを一つ外しては、首筋にあご、耳、といちいち寄り道をする。その小憎こにくらしいくせだか戦術だかのお陰で、下着があらわになる頃には千尋の肌は燃えるようだった。


「これ……」


と、浅葉のセーターを引っ張る。


「脱いで」


 浅葉は片方の口角をわずかに上げると、セーターを脱ぎ、おおせつかる前に中の黒いTシャツも脱いだ。


 千尋の望み通り、その美しい胸が千尋の隣にぴたりと寄り添った。手を触れるだけのつもりが、吸い込まれるように思わず顔をうずめてしまう。


 浅葉はそんな千尋の背中を片手であやしながら、千尋のなまの下半身を求めて格闘していた。


「ちょっと、これ系もう禁止にしようか。脱がせる方の身にもなれよ」


「片手じゃ無理よ」


 千尋は自ら手を下し、よいしょっとお尻を突破した。普段これを脱ぐ時は大抵下着も付いてきてしまうのだが、今日は浅葉のためにえて残しておく。見られると思っていなかったから上下が合っていないが、まあいいか。


 とりわけ薄くて柔らかい生地のショーツの中に、浅葉の手が入ってくる。優しく触れられるこの感覚を、千尋の体は数ヶ月間待ちわびていた。じっくりと周囲をなぞる浅葉の手をかすように膝を折り曲げ、その部分をゆるめた。


 浅葉はその誘いには乗らず、お尻や太腿ふとももへと範囲を広げて愛撫あいぶし続ける。ようやく中央に至った浅葉の指は慎重に入口を濡らし、千尋がじれったさに悲鳴を上げそうになった頃、ようやく内側を撫で始めた。


 千尋は、自分がここからはもう止まれないというラインを越えるのを感じていた。理性を完全に奪い去ってしまう奇跡にただ身をゆだねていると、右の耳元で声がした。


「どうしたら気持ちいいか、教えて」


 そんな甘いささやきに、千尋は喜ぶ以上に照れてしまう。男性との付き合いの中でそんなことを聞かれるのは初めてだ。


「今、最高に気持ちいい」


と返すのが精一杯だった。


 浅葉は、よっ、と起き上がると、今度は千尋の左耳に口を寄せ、


「それはどうかな」


と言うなり、左手を動員した。いた右手を千尋の背中の下に入れてホックを外し、濡れた指を千尋の胸にわせながら下半身を攻め続ける。


 溝を捉えて伸縮する指に耐えかね、千尋は太腿を閉じて浅葉の手を押さえ込む。浅葉はそんな応対にも慌てず騒がず、千尋の気をらすように胸を舐め始めた。ゆっくりと裾野から唇と舌を這わせ、たっぷり遠回りした末に頂上に辿り着くと、そっと含んで周囲から丁寧に潤し、ほんの一瞬、先端に軽く舌を触れた。


 そのすきに千尋のショーツを引き剥がし、その一枚に拘束されていた手がついに自由を手に入れると、浅葉の両手の中でおそらくこの用途に最もけた指が陰核を転がし始めた。浅葉は上体を起こして座り直し、左手を外側に集中させながら右手を中に入れた。千尋の反応をうかがいながら、位置と動きを探っていく。


 絶妙な緩急に千尋はか細い声を漏らし、頭の下から枕を抜き取ってしがみ付いた。隣の若夫婦の夫の方はもう帰宅している時間だ。普段話し声や物音が気になることはないが、あんまり声を出したら聞こえてしまうのではないかと不安になる。


 いつしか声も出せなくなり、息をするのが精一杯になった。その呼吸すらも自由にならず、何者かに支配されているように感じられる。このまま気が変になりはしないかと心配になるほど、頭の中が真っ白になり、体は汗だくだった。


 最後の瞬間は、長い前触れを経て訪れた。浅葉の集中力が瞬時に高まるのを、千尋の脳がおぼろげに捉える。


 理性も、あらゆる感情も、全てを流し去る神秘の熱量。全身がその原始的な現象を味わい尽くすための器官と化す。


 浅葉の両手は慎重に千尋の呼吸を読んで減速し、見事な軟着陸を決めた。


 まだ別の次元を泳いでいる千尋にまずは呼吸を許し、浅葉はひたいから眉間、まぶた、頬、顎、とキスして回る。

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