23  束の間の休息

 十一月十三日。木曜の晩のファミレス。先輩が慌てた様子で走ってくる。


「おい、七番にシルバーないじゃん。おい、田辺」


「あ、はい」


「七番、シルバー。早く。もう料理出ちゃったよ」


「あ、すみません」


 千尋はナイフやフォークの入ったかごを手に、七番テーブルへと急いだ。中年女性の二人組が、困り顔で目一杯手を挙げて注意を引こうとしている。


「申し訳ございません。大変お待たせいたしました」


「はい、どうも」


 女性たちはすぐに自分たちのおしゃべりへと戻っていく。


(よかった。嫌みの一つも言われるかと思った)


 このファミレスでのバイトはもうかれこれ一年になる。最初の頃と比べるとさすがに失敗は減っていたが、このところぽろぽろとミスが続いていた。


(いけないいけない。集中しなきゃ)


 次はいつ浅葉に会えるのだろうと、そればかり考えていた。


 温泉から一週間ほど経った頃、一度あのプライベートの携帯に電話してみたが、やはり繋がらない。


 翌日に浅葉から電話があり、この携帯を持ち歩くことは難しく、家に置きっぱなしなのだと聞いた。メールも個人用を見るのは帰宅時だけだという。


 業務用の携帯番号やメールアドレスは私用厳禁とのことで、会社員とは訳が違うのだと改めて思い知らされた。


 家に帰れるような時には、千尋からの着信などなくても浅葉の方から電話をくれるだろうし、そう考えると千尋から連絡を取る手段はないに等しかった。


 帰宅したからといって丸一日休みということはまずなさそうで、ちょっとした寝溜ねだめ、めだけ済ませたら半日後にはまた仕事に戻っているらしい。




 十一月二十三日。小雨が降る日曜の午後、千尋の携帯が鳴った。公衆電話からだ。


「もしもし」


「千尋」


「やっぱり」


 声を聞くだけでつい顔がほころんでしまう。


「ちょっと急に時間がいてさ。どうしてるかなと思って」


「今、買い物してます」


「買い物?」


八重ヶ浦やえがうらのビオレッタモールで。でも、急ぐものじゃないんで、行きます、どこでも」


 浅葉に会えるのならどこでもいい、と思った。


「いや、俺がそっちに行くよ。道がちょっと混んでそうだけど、四十分もあれば」


「そうですか。じゃ、待ってます。着いたら電話くださいね」


 もう買い物どころではない。スキップしそうになるのを何とか抑え、ジャケット半額コーナーを物色するふりをしながら千尋は一人ニヤけていた。


 それにもいよいよ飽きてモールの中をぶらぶらしていると、雑踏ざっとうの中、目を引くものがあった。のんびりと買い物や食べ歩きを楽しむ群れの中、頭一つ分飛び出し、駆け足でやってくる男はあまりに目立つ。


「お待たせ」


「よくわかりましたね、ここ」


 三階建ての大型ショッピングセンターで、日曜の午後だけに混雑してもいた。着いたら電話してと言ったのに……と思いながら、そういえばプライベートの携帯は持ち歩いていないし、業務用は私用には使えないのだと気付く。


 浅葉は返事の代わりに、ぎゅっと千尋を抱き締めた。待ちに待った浅葉の胸はこの一ヶ月思い描き続けた以上に愛おしく、千尋はその中でとろけそうになる。


「何、買い物って……服?」


「恋をすると、おしゃれしたくなるんです」


「ほう」


「でも、自分の好みだけで選ぶと、結構いつも決まった感じになっちゃって」


 浅葉は、紺のセーターにモノトーンのチェック柄スカート、ベージュのオータムコートという今日の千尋のファッションを改めて眺めた。


「決まった感じでも、十分キマッてると思うけどね」


「でも、たまーにちょっと冒険してみると、意外と似合うとか言われちゃったりして」


「冒険?」


「ほら、私普段スカートが多いけど、学園祭のイベントでパンツスーツに挑戦してみたら結構評判良かったりとか。あと、普段青系が多いところに、ある日突然ピンクとか」


 千尋はちょうど目の前にあったピンクのカーディガンを手にとって眺めた。


「うーん、なんかでも、買ったけど全然着ないってパターンになりそう」


と、隣の店に向かう。


「開拓したいんです。ね、どういうのが似合いそうか、考えてよ」


「どういうのが、ねえ……」


と、千尋の立ち姿に目をやった浅葉が、ふと何かを懐かしむかのような微笑を浮かべる。


「何かひらめきました?」


「ん? いや、ほら、似合うといったら、あの……露天風呂入ってた時のファッション」


「……って、裸じゃない。変態!」


「何言ってんだ、最も健康的な感覚だろ」


 千尋はわざと大きくため息をついた。


「今日はもういいです。なんか、買い物モードじゃないみたい。場所変えましょっか」


と、歩きだした瞬間、目まいがした。立ち止まり、手の甲でひたいを押さえる。


「どうした? 具合悪い?」


「ちょっと……目まいが」


 手足が震える感覚。背中からくる妙な吐き気。いつものあれだ。


「あそこ、座ろっか」


 浅葉は少し先にあったベンチを指し、千尋の肩を抱いてゆっくりとエスコートする。


 並んで腰を下ろし、千尋はぎゅっと目をつぶった。


「時々あるんです。一時的に低血糖状態になるみたいで。普段はブドウ糖持ち歩いてるんだけど、今日はバッグ変えちゃったから……」


 浅葉はジャケットの内ポケットを探ると、小さな包みを一つ取りだした。


「あ……」


「お探しですか? ブドウ糖」


と手渡されたのは、よく見慣れた個包装の丸いタブレットだ。


「まさか、それも私の『ファイル』にある情報? ケーサツって怖ーい」


と白い目を向けながら、袋を開けて口に放り込む。


「そんなわけないだろ。俺もなるんだ、たまに。何か飲む? 買ってくる」


 千尋の頭に大きな手がぽんと乗ったかと思うと、浅葉はもう軽やかに走り出していた。




 ほんの少し先にちょうどフードコートがある。浅葉が迷わず足を止めたのは、フルーツの生搾りを売りにしたジューススタンド。


 女性店員二人が妙にノリノリで浅葉の注文を取り、フルーツを搾りながらしきりに互いをつつき合う。子連ればかりの日曜に突然現れたイケメンに興奮しているのだろう。


(私だって何も知らずに街ですれ違ったら、きっと振り返って見ちゃうもんね)


 何気なくたたずんでいるだけで、つくづく絵になる。店員の一人が「身長いくつですか」と聞くのが千尋の耳に入った。浅葉は露骨ろこつに面倒臭そうな顔をし、六尺ちょいかな、と答えると、千尋の方に目をやり、ウィンクしてみせる。


(尺って……)


 浅葉の視線の先を負った彼女たちと目が合い、千尋は遠慮がちに会釈した。浅葉はオレンジとピンクのジュースを手にして戻ってくると、


「マンゴーオレンジと、ストロベリーバナナ」


と、プラスチックのコップを二つベンチに置き、千尋の顔を両手で挟んで額にキスした。


(なんでわざわざアピールするかな……)


 千尋は、まだこちらを見ているジュース嬢たちに何だか申し訳ないような気がした。


「普通の人に喧嘩けんか売らないの」


とたしなめたが、人前で堂々と彼女扱いされることは確かに嬉しい。


 浅葉はさっと身をひるがえすと、ジューススタンドのすぐ隣のたこ焼き屋に立ち寄る。


 千尋が二つのジュースを代わるがわるすすっているうちに、すこぶる機嫌の良さそうな浅葉がたこ焼きをつまみながら帰ってきた。


「それ絶対合いませんから、このジュースと……」


 お前も食え、と勧めてくるのには笑顔で首を振り、千尋はその無邪気な横顔を見つめた。


「お休み中だけはほんとよく食べますね」


 隣に座った浅葉は、たこ焼きを頬張りながら千尋の腰を抱く。その時、携帯が鳴った。例の黒電話音だ。浅葉がそれを取り出して話し始めるのを、千尋は憂鬱ゆううつな思いで聞いていた。


「はい……ああ」


 腕時計をちらっと見やる。


「すぐ行く。三十分」


 浅葉は電話を切りながら立ち上がる。


「ごめん、ちょっと急用」


 千尋は、浅葉が電話に出ているわずかな時間に、何とか平静を装うに至っていた。


「うん。行ってらっしゃい」


 千尋が席を立ち、伸び上がって唇を触れると、浅葉は人目もはばからず舌をもぐり込ませてきた。そのたった三秒のいとなみを大事に終え、


「これ、あげる」


と、たこ焼きが三つ残ったプラスチックのトレイを手渡す。


「こいつはもらった」


 そう言って、ストロベリーバナナのコップを手に微笑ほほえみ、千尋の額に口づけて走り去る。


 千尋は再び腰を下ろすと、たった今その片鱗へんりんを味わったたこ焼きの本体を拝食することにした。




 十二月十日。水曜の夕方、千尋はある駅ビルのフロアガイドを見ていた。街はクリスマスムード一色。師走しわすも半ばになろうというのに今年は妙に暖かい。


 今日は久々に滝本たきもと真智子まちこと会うことになっている。しばらく連絡が途絶えていたところに、先週突然メールがきて、お茶しようと誘われたのだ。


 真智子は、千尋の高校時代の同級生。一年の時から補導だの妊娠中絶だの、何かと「経験豊富」な子で、千尋とは住む世界が違うように思えた。ただ、学校の成績はともかくとして頭が良く、誰よりも正直な人で、千尋はそれが気に入っていた。


 卒業してからはいわゆるフリーターで常に忙しいようだが、メールでたまに連絡を取っている。千尋は彼女の的確な意見を求めて相談することがあり、真智子は真智子で利害関係の絡まない千尋にあれこれしゃべりたい時があるようで、年に二、三度ぐらいは会って話をする仲だ。


 約束の店に着くと、珍しく真智子が先に来ていた。


「ここ、ここ」


と手を振るその勢いに、短い髪まで一緒に揺れる。変わらぬ美貌びぼうながら、いつもにも増して興奮気味だ。


 千尋が席に着くなり、真智子は身を乗り出す。


「ね、あの人、誰?」


「え?」


「見ちゃった。ビオレッタで」


 あのショッピングモールだ。そうか。あそこなら真智子に限らず、千尋の友人が何組かいても不思議はない。しかし、見られたのは一体どの段階だろう。


(まさか最後の方じゃ……)


 あのたこ焼き味のキスを思い出す。


「めっちゃイケメンじゃない。背も高いし。彼氏?」


「うーん、まあ……そう、かな?」


 適当にごまかそうとしながらも、つい照れ笑いが出てしまう。


「ちょっとぉ、いつから? 年上でしょ? 社会人? 何してる人?」


 放っておけば一晩中でも質問攻撃が続きそうな勢いだ。千尋は、警察の人間と付き合ってるとは言わない方がいい、という浅葉の言葉を思い出し、


「実は、私もよく知らないの」


とはぐらかす。


「何? 知らないで付き合ってんの? 大丈夫?」


 オーダーを取りにきたウェイトレスを追い返しそうになる真智子を手振りで止め、千尋はコーヒーと紅茶を一つずつと、この店の売りらしい「プチパフェ」を適当に上から二つ頼んだ。真智子はいつもブラックコーヒーと決まっているが、食べ物にはこだわりがない。


「付き合ってるっていうか……まあ、どうなるかなって感じ」


「ふーん。そもそも、どこで出会ったわけ?」


「えっ……と、うーん、偶然っていうか、運命っていうか」


「何それ。千尋、そういうの信じないって言ってたじゃん。……で、」


と、真智子は両眉を上げた。


「もう、したの?」


「ちょっ……」


 慌ててシーッと人差し指を立てる。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせたはずだが、静かな旅館で過ごした浅葉との一夜を思い出すと、それだけで心臓が早鐘のように打ち出した。自分が今一体どんな顔をしているのかと恥ずかしくなり、無意識に両手を頬に当てる。


 千尋のその反応が期待以上だったのか、真智子は言葉を失っていた。


「へえー」


 常にエネルギーのかたまりのような真智子を相手に、まともに受け答えしていたら身がもたない。千尋は何とか呼吸を整えると、やっとの思いで声を発した。


「そっちこそ、どうなのよ。例の、ほら……」


とせっかくにごしてやったのに、


「ああ、妻子持ちのホスト? とっくに振ったから、あんなの」


と豪快に笑う。就活学生らしき隣の集団が一斉に振り返り、あんぐり口を開けていた。


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