22 夜明け
千尋はふと目を覚ました。目の前では浅葉が手枕で千尋を見つめている。目が合うと、その顔に笑みが浮かんだ。
「おはよ」
低く
「少しは寝れました?」
「うん。まとめてこんなに寝たの久しぶり」
「こんなにって、まだ真っ暗ですけど」
「三時間超えると、もう寝れないんだよね」
「よくもちますね」
「十五分ずつ十回寝るとか、そういう方が得意かな」
「……変な人」
くすくす笑う千尋の
浅葉はおもむろに立ち上がると、冷蔵庫からよく冷えたペットボトルを出してきて千尋に渡す。濃いめの緑茶だった。
「こいつが一番合う」
と座卓の上から取り上げたのは、例の饅頭だ。八個入りの、どうやら二箱目。それも既に残り四つ。
浅葉は個包装のセロファンを剥がし、ちょいと持ち上げてみせる。千尋は、母鳥に餌をねだる
「
確かに、おいしいのは餡よりも、
「うん、おいし」
残りを催促しようとしたが、それはとっくに浅葉の口の中に消えていた。千尋は、ふと思い立って言った。
「ね、お風呂入りません? それ、持ってきて」
と饅頭を指差し、ベランダに出る。辺りはまだ暗い。昨日の晴天のせいか、外はかなり冷え込んでいた。
「普通、風呂は飲食禁止だぞ」
そう言いながらも饅頭の箱とお茶のボトルを抱え、新しいバスタオルを持った全裸の浅葉が現れた。椅子にそれらがごろっと置かれたところを見計らって、千尋はその尻に桶の湯をざばっと浴びせる。
「あちっ」
「しーっ。みんな寝てますから」
「どうせ婆さんたちだろ。とっくに起きて風呂入ってるよ」
「あ、そっか」
二杯目をすくって、今度は首からちょろちょろとかけてやる。
「うん、いい湯だ」
と満足そうに
「これ、一口サイズじゃないですから」
とたしなめるように言いながら、千尋は新しく封を開けて半分だけかじり、差し伸べられた浅葉の手を取って後に続いた。並んで湯の中に腰を下ろし、石の浴槽にもたれる。
一夜すらまだ明け切っていない同じ風呂だが、今度は千尋の腰に浅葉の腕があった。千尋もごく自然に浅葉の膝に手をかけ、肩に頬を乗せていた。二人でわずかな街の明かりを見下ろし、忍び寄る夜明けに耳を澄ます。
千尋は湯の中でうとうとしかけていた。カラスがカアーと鳴いた。二羽連れ立って飛ぶ姿が目の端に映る。
千尋は目をこすり、
「なんか……」
「ん?」
「後引きますね、これ」
千尋は膝立ちで湯船を横切ると、縁から身を乗り出し、椅子の上の箱に半分残った饅頭に手を伸ばした。特に狙ったつもりはなかったが、その「サービスショット」に浅葉の熱い視線を感じる。饅頭を頬張り、お茶の
「お前、こぼすなよ。俺が怒られんだからな」
と言いながらも、浅葉の目はまだ千尋の体を注視していた。
いつの間にか左手の空がだいぶ明るくなっていた。さほど高さのない山が連なり、深い緑にうっすら赤とオレンジが混じっている。手前には民家らしき屋根がまばらに見え、明かりのいくつかは既に消えていた。
浅葉とこんなにゆっくり過ごせる休暇など、そうそうないだろう。今日も午後からは仕事のはず。この希少なチャンスを逃さず、ほぼ最初のデートにして強引な賭けに出た浅葉と、戸惑いながらもそれを承諾した自分に、千尋は感謝していた。
浅葉も似たようなことを考えていたに違いない。不意に
七時になり、
浅葉との事の前後を目撃されてしまったような気になり、千尋は何だか彼女と目を合わせにくかった。ゆっくりお休みになれましたか、などと尋ねられようものなら、顔を赤らめてしまっていたに違いない。無用なサービスはせず、極力邪魔をしないという彼女の姿勢はありがたかった。
昨晩と同じ席に座りながら、あの時はやっぱりまだ浅葉とは他人同士だったと感じる。それが今は、見つめ合っているだけで互いの思いが感じ取れるような気がした。熱い夜を過ごしたはずなのに、一方ではすっかり気心の知れた家族のような心地がする。あんなに遠く感じられた浅葉と固く結ばれた喜びを、千尋は噛み締めた。
帰り支度を整え、部屋を出る。最後にもう一度振り返ると、この空間は浅葉との甘い一夜の余韻に満ちていた。
フロントでチェックアウトする段になって、千尋は慌てて財布を取り出した。浅葉はそれに気付くと、千尋の手から財布自体をひょいと取り上げて脇に挟み、自分の財布からカードを出した。金額はカウンターに置かれた紙に書いてあるのだろうが、千尋の位置からは見えず、例の仲居はそれを口にしなかった。よくできた仲居だ。
浅葉はカードを受け取った後、いわゆるポチ袋を渡していた。噂に聞く心付けというものだろう。いや、饅頭代と呼ぶべきか。
浅葉は財布を返したついでに、その手で千尋の髪をすっと撫でた。
外まで出てきた仲居に見送られて宿を後にする。下の温泉街で車を停め、少し散歩して帰ることにした。
こちらに並ぶ旅館には結構人が入っているような気配だ。外観や雰囲気を比べても、坂の上のあの宿はもしかしたら別格にお高いのではないだろうか。
(しかもお部屋に露天付き……)
半分出します、と言ったところで、千尋の月々の交際費ぐらいではおそらく足りなかっただろう。
帰りの道は
「ちょっとそこ開けて」
と、浅葉は助手席の前の収納スぺ―スを指差す。
「はい」
大きなヘッドホンが一つ、ごろっと入っている。
「それ、しててもらっていい? 耳栓代わり」
「あ、はい」
千尋は急いでそのヘッドホンを着けた。密閉型なのだろう。音が鳴っていなくてもかなりの防音効果があるようだ。浅葉は車に付いているハンズフリーで電話に出たらしい。話し声はうっすらと聞こえるが、なるべく聞かないようにと窓の外に目をやる。
しばらくすると、浅葉がヘッドホンの右耳側を引っ張った。
「もういいよ。ごめんね」
千尋はヘッドホンを外し、元の場所に戻す。
「早く来いって電話。でも大して深刻な話じゃないから、普通に帰ってからで大丈夫」
「大丈夫じゃない時は?」
「そしたらもっと飛ばすしかないな。まあ、居場所は言ってあるから、着くまでは俺がいなけりゃいないなりにやってもらうだけ」
(そっか……)
休暇中の行き先も報告して出かけなければならず、そこに呼び出しが来ることもあり得るのだろう。電話が鳴ったのが帰り道で本当によかった。
千尋のアパートの前に着く。休暇の終わりをしぶしぶ受け入れながら千尋が車を降りると、浅葉は既に後部座席にあった千尋の荷物を手にしていた。それを手渡すと、
「あ、千尋」
と、今度はトランクの方へ走っていく。
「忘れもん」
取り出したのは、あの饅頭の箱。
「いいんですか、もらっちゃって」
「お前一箱、俺二箱。平等だろ」
はははっ、と二人の笑い声が住宅街に響く。
「じゃ、戸締まり気を付けろよ」
行きかけて、ぱっと戻ってくると、千尋の頬に手を添えて素早くキスした。
「また電話する」
運転席に戻った浅葉は、慌ただしくアクセルを踏んだ。
(忙しい人……)
そう思いながらも、千尋は笑顔にさせられていた。唐突に千尋を千尋と呼んだことにも、浅葉自身は気付いてすらいないようだった。
あの宿に泊まるのは、浅葉にとっては初めてのことではなかっただろう。日程が決まった時点で「いいとこがある」と言っていたぐらいだし、大量の饅頭が何よりの証拠。
それに、もし女と行ったのだとしても、
浅葉が初めての宿でないことを隠しもせず、
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