21  閨事

 千尋は、椅子に座ってしばらく肌を冷ましてから部屋に入った。浅葉は浴用タオルを巻いた姿のままでとこの柱にもたれ、からになったペットボトルをくしゃっとつぶしていた。


 千尋はその後ろ姿に歩み寄り、少し濡れた背にそっと手を当てた。振り向いた浅葉を抱き締める。


 自分なりの意思表示のつもりだったが、そうしながら千尋の目から涙がこぼれ落ちていた。自分でもなぜだかわからない。浅葉を恋うる気持ちは、どこか郷愁きょうしゅうに似ている。ずっと会いたくてたまらなかった人に、ようやく会えたような心地だった。


「ごめんなさい」


 慌てて手で拭う。そんな千尋の少し湿った髪を、浅葉のてのひらがあやすように撫でつけた。


「泣きたい時は泣いていい。でも……俺はその理由が知りたい」


 重たい女と思われたくなくて、千尋は弁解した。


「すみません。いつもこんな……泣き虫ってわけじゃないんです。浅葉さんと、まさかこんなことになるなんて思ってもみなくて。ちょっと動揺してしまったというか……」


 こんなに震え上がっていては生娘きむすめと思われないだろうか。何とか笑顔を見せようとした。


「怖いんじゃないです。緊張泣きです、きっと」


「なあ、何も今日じゃなくても……」


「違うんです」


 浅葉の目の奥をじっと見つめた。


「あなたに……抱かれたくてたまらないです」


 何の駆け引きも知らない、不器用な女の本音でしかない。言ってしまってから、決まり悪くなってうつむく。そのつむじに、この世で一番優しい口づけがそそがれた。


 こんなつたない告白を大切に受け取ってくれた浅葉の温かさは、千尋が今まで自分でも知らなかった欲情を掘り起こした。浅葉の剥き出しの胸に頬が触れる。トクントクンというその微かな脈動を、ただ一途に思った。


「あなたのものになりたい……」


 切実な思いをついに吐き出した千尋の頭上で、浅葉は静かに言った。


「お前がそう言ってくれるなら、俺としては願ってもないことだ。でも……」


 千尋の髪を撫でる手が首筋で止まった。ふと寄せられた頬が温かい。


「お前は誰のものにもならない。お前のものだ。それだけは忘れるな」


 目が覚めるようだった。息が震え、耳元にそれを受けた浅葉の腕にぐっと力がこもる。千尋のこめかみに柔らかい唇が触れた。


 ふと顔を上げると、浅葉は千尋の頬を指で拭い、


「泣いてる女を裸にするのは、さすがに抵抗あるぞ」


大袈裟おおげさに苦笑して見せる。千尋はその顔を見て、少し気が楽になった。


「あの……ちょっと暗くしてもらっても?」


「ん」


 浅葉が背後に垂れているひもを引いて電気を消し、床の間の行灯あんどん風の明かりを振り返る。


「はい、そっちも」


「真っ暗になっちゃうよ」


と言って浅葉がそのスイッチを押すと、プツンという音と共に、露天風呂を照らすベランダの灯だけが残った。


「落ち着きます、この方が」


 また妙な緊張感が湧いてきてしまう前にと、千尋は浅葉の首に腕を回した。タオル越しに胸が触れ、全身を預けるような形になり、鼓動が速くなる。しかしそれに最も敏感に反応したのは浅葉の体の方。彼はそれを隠そうとしなかった。雄の根がうごめくのを下腹に感じながら、千尋は自分の気持ちが今やっと熟したと感じていた。


 ベランダの明かりを頼りに浅葉の唇を求めると、それはすぐに与えられた。迷うことなく浅葉の陣地に侵入する。唾液が促されて流れ出す感覚があった。千尋の耳の後ろから髪の奥に温かい手が滑り込んでくる。もう一方の手は首筋を緩く巡り、そこから背中へと下ってぎゅっと抱き締めた。その圧力は腰に至ると、脇腹に回り込んで徐々に上をした。


 あまりに柔らかく器用な浅葉の舌と情感溢れる手に翻弄ほんろうされながら、千尋はその全てを全身で味わっていた。このまま溺れるのではないかと思った時、体が宙に浮いた。次の瞬間、千尋はひんやりとしたシーツの上に横たえられ、再び唇を攻められていた。


 そのさなか、胸元に挟んでいたタオルがゆっくりと開かれていくのを感じる。不意に浅葉の体重を受け止めた時、それはすっかり解きほどかれていた。二人は固く抱き合い、互いの肌を味わった。




 浅葉の手は魔法そのものだった。胸の間をい、斜面をそっと滑ると、千尋がその膨らみの先端への刺激を好まないことを早くも悟ったかのように、色の境目を優しく絞った。


 その掌は千尋の体をくまなくでる。千尋は今まで、これほど丹念にその身に触れられたこともなければ、まさか自分がこれほどの快楽を見出すなどと想像したこともない。浅葉に未知の領域を次々と開拓されてゆくことが、おのれの生の目的であるかのように感じられた。千尋はいつの間にか全てを忘れ、文字通り身を任せていた。


 浅葉がふと上体を起こし、布団の下に素早く手を入れたかと思うと、間もなくピリッというプラスチック音が耳に入る。いつの間にそんなところへ忍ばせていたのだろう。浅葉は布団に手をついたまま、残った片手と歯で難なくそれを開封していた。


 そんな大事なことすら忘れていた自分に、千尋は驚愕した。


(飲み過ぎた……?)


 いや、そんなはずはない。両親揃って酒豪の家系だ。この程度で酔っ払う千尋ではなかった。何か他のものに激しく揺さぶられ、我を忘れていたとしか思えない。


 今や二ヶ月近く前、あの部屋で拳銃をホルスターに収めていた浅葉の長い指。それが今、千尋の下腹を伝ってなだらかな丘を温め、その先の闇へと慎重に分け入ってこようとしている。信じ難いその事実を認めるだけで、千尋は達してしまいそうだった。


 浅葉の手が千尋の両膝を立てた。雄々しい肩がそれを割り、太腿の内側を滑り下りた左手が辿り着いたビロードの扇をそっと覆う。谷の縁に細やかな指が触れると、ほとばしるような愛情がそれを伝って届き、千尋はふっと目を閉じた。


 こんなに愛されたことがかつてあっただろうか。湧き上がるよろこびにただ酔いしれた。中央に触れられることを初めて待ち焦がれた。それがついに叶うと、叫びたいような衝動に駆られて身をよじった。宙を漂うような感覚が心もとなく思われ、シーツを握り締める。


 もう堪えられないと思ったその時、体の内側に浅葉の手を感じた。あっと声を漏らしたその口が再び手厚く愛される。自分の喉と腹筋がもだえるのに、ただ耳を澄ました。荒くなった息が解放されると、そこに小さな音色が混じった。忘我のうちに漏れ聞こえる自分の声が、ごく自然なもののように感じられた。これこそが私の本当の呼吸なのではないか……。


 中央に雄の先端を感じた時、二人の目が合った。互いの速度を追うようにゆっくりとまぶたを狭める。


 新たな侵入者を感じてはっと目を見開くと、浅葉がこうべを垂れていた。その喉が微かに鳴り、あばらが大きく一度膨らむと、それが狭まるにつれ、揺れる息が一つこぼれた。きつく縮んだ胸が千尋のものと重なり、その上でじわりと融けた。何者かによって隔てられ、互いに恋い焦がれて叫び続けていたものが、長い時を経て再び一つになったかのように。


 浅葉は千尋のあごを噛んだ。その隙間から歯痒そうな息が漏れる。そっと小さく一つ腰を煽ると、眠りから覚めたように闇の中を探り始めた。好奇心旺盛な生き物が千尋の奥深くを熱心にあさっては、息を継ぐように表へ出て甘えた。


 時折思い出したように突き上げながら、こんなにこちらの反応をうかがっている男を千尋は初めて見る。そもそも決して豊富とは言えない恋愛経験の中にあまりいい思い出はなく、これまで男というものには失望するばかりだった。ただ、もしまたそんな扱いを受けることになったとしても、浅葉となら一緒にいたいと思えたのだ。こんなに大事にされることなど思いもよらなかった。


 浅葉はまるで千尋の奥底を知り尽くしているようだった。一度外に出て千尋の右奥を手で確かめると、再び入り直して小刻みに突く。全身を麻痺させるかのような快感のツボだった。自分の体にそんな場所があったことも千尋自身知らなかった。


 こらえ切れずとうとう高らかにあえぐ。さすがに隣室を気にしたのか、その咆哮ほうこうを浅葉は自分の口で塞ぎながら、その実満更まんざらでもない様子。そんないつもの理性のかたわらに、隠しようのない野生がみなぎっていた。どこまでも冷静な浅葉が我を失うことなく、だが遠慮なくまっすぐに向かってくる。究極の男の色気に千尋は圧倒された。


 長いこと、すれすれのところを彷徨さまよった。このままいつまでも愛されていたいという欲求と、もう許してという思い、そして今登りかけている山の向こう側を見てみたい気持ちとが入り混じった。浅葉は根気も体力も失う気配がなく、まずじっくりと千尋を仕上げると心に決めているらしい。


 千尋のもどかしさが声になってうねるのを聞くと、浅葉は外側から加勢した。その手が粘り強く探り続けるうちに、外からの刺激と、芯を突く躍動との波長が重なった。千尋が体の奥深くの激しい収縮を感じたその時、浅葉が歯を食いしばり、その間から鋭い摩擦音が漏れた。


 千尋はそのまま押し流されそうになり、反射的に浅葉の肩にしがみ付いて前兆に逆らった。を誰かに目撃されたことなど未だかつてなく、このに及んで若干の躊躇ちゅうちょが湧く。しかし二度目に訪れた波には抵抗しきれず、全てを委ねてその時を待った。


 やがて、味わったことのない極みの感覚が全身を駆け抜けた。自己の抑制の及ばぬところで上体が弓なりに引きつる。荒い痙攣けいれんが襲い、その余波に何度も煽られた。


 もう死んでもいい。一瞬、そんな非現実的な発想が千尋の脳裏をよぎる。


 再び地に足が付いた時、乾いた唇をようやくめることができた。感情のない動物的な涙が目尻にまっていた。


 千尋が頂に届くのを見守りながら、浅葉も密かに果てていたらしい。折り重なったまま、汗が引くのを二人でただ静かに待った。


 千尋の意識がようやく現実に戻ってきた頃、浅葉が自分の体の下から千尋を解放しながら、しみじみと言う。


「最っ高」


(え……?)


 これほど面と向かって褒められるとあまりに照れ臭く、何と返事してよいのかわからなかった。浅葉は片腕を伸ばして千尋の腹を抱き、


「もっとしたくなっちゃうな」


ささやく。生まれて初めてそんなことを言われて、千尋は内心くすぐったいような気分だったが、今「もっと」はどう考えても無理だった。


「ちょっと体力が、ね」


と首の汗を拭い、はにかんだ笑みを手で隠した。自分の方こそ「感想」を伝えた方がいいかしら、と思いつつも、そんなことを話題にする勇気が出ない。




 浅葉は時折千尋の顔や体に唇を触れながら、まじまじと見つめてくる。千尋が何となく寝返りを打とうとすると、下半身に湿っぽい感触があった。


(んっ?)


 思わず半分上体を起こし、下の方に目をやる。その様子を眺めていた浅葉は、


「これ、必須だな」


と片目をつぶり、千尋の体に踏まれたままになっているバスタオルの角をちょいと持ち上げてみせた。タオル自体もいくらか濡れてはいたが、どうやら自分の体液がさらに湿らせたらしいと千尋は察する。恥ずかしさはすぐに幸福感に塗り潰された。


 浅葉はむくりと起き上がると、


「すぐ戻る」


と言ってチュッと短いキスを残し、洗面所へと消えた。


 千尋は恍惚こうこつの後味を引きずった体をひねり、ゆるりと寝返りを打った。しびれた脳をいたわるように目を閉じる。今日初めて体を交えた仲だというのに、最後まで一瞬たりとも痛みや不快感を覚えなかったことはありがたい驚きだった。


 よじれたシーツを再び握り締め、思い切り裸体を伸ばす。所在なく枕を抱いていると、洗面所のドアがきいと鳴った。


 シャワーを浴びに行ったのかと思いきや、すぐに戻ってきた浅葉の手には、折り畳んだ白いタオルがあった。それを千尋の膝に当ててみせる。熱い湯で絞ってきたらしい。その意図を察した千尋は、照れ隠しにちょっとおどけて言った。


「サービスいいですね」


「当たり前だろ。好きな女にぐらいサービスしなくてどうする」


と、浅葉は無防備に寝そべる千尋の繊細なエリアを拭い始めた。


「ちょっと横向いて」


と言うと、千尋のお尻をちょいと押す。千尋は枕を抱いたまま、横向きになった。浅葉はタオルを折り返し、千尋のお尻から腰辺りまで拭いた。


(ウソ、そんなに……?)


 女の体がそんなに濡れるものだとは考えたこともなかった。浅葉マジックに脱帽だ。


 浅葉は、洗面所にタオルを片付けたついでにさっとシャワーを浴びたらしい。戻ってくると、千尋の足元に寄った布団を引っ張り上げ、隣に横たわった。実に幸せそうに千尋の頬をつまむ。


 千尋は、浅葉の業務用の顔しか知らないままなぜか好きになった自分を表彰したい気分だった。こんなにくつろいだ様子の浅葉と、互いの肌に触れながら裸で見つめ合っていることはこの上ない幸福だった。


 美しい体に遠慮なく抱き付くと、それ以上に熱烈な抱擁が千尋を包む。浅葉は千尋に触れ続け、ふと胸をね回し始めると、いつまでもそうしていた。その様子がかわいく思えて仕方なく、くすっと笑いながら千尋は聞いてみる。


「おっぱい好き?」


「おっぱいなら何でもいいわけじゃないぞ。お前のはすげー好き」


「ペチャパイでがっかりしませんでした?」


「俺はあんまりでかい胸は好きじゃないんだ。それに体形なんて、服の上から見れば大体わかる。……こっちもね」


と、浅葉は布団の中で千尋の腰の丸みを撫でた。一体いつからそんな目で見られていたのだろう。千尋自身は、全体のバランスから見てお尻が大きすぎると気にしていたが、ウエストがきゅっとくびれているのは母親ゆずりで、女友達からよく羨ましがられる。


 浅葉はいつしかまどろんでいた。千尋は、自分の柔らかいお腹に片腕を預けたまま微かな寝息を立てるこの男が愛しくてならなかった。

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