20  裸身

 部屋に戻ると、布団ふとんが二組並べて敷いてあった。品の良い和柄わがらの掛け布団が柔らかな明かりに照らされ、まくらの両脇にはまっさらなシーツが見える。どこか生々しいその光景に、千尋はつい委縮いしゅくしかけていた。


 全ては自分次第だと千尋は思う。今さらでも何でも、千尋が嫌だと言い出せば浅葉は手を出さないだろう。このまま勢いに任せてしまいたい気持ちもあるにはあるが、ちょっとワンクッション置いて冷静になってみようか……。


 スリッパを脱いで上がりながらそんなことを考えていると、無意識のうちにベランダの水面に目が向いていた。


「お前、部屋風呂入るんだろ?」


「えっと……」


(でも、どうやって?)


「俺ちょっと飲み物買ってくるからさ」


 浅葉はもう鍵を手にドアを開けている。


「十分で戻る」


と言い残して出ていくと、がちゃっと外から鍵を掛けた。


(全てお見通し、か)


 確かに長尾が感心するだけのことはある。微妙な女心も、浅葉の手にかかれば何の障害にもならないようだ。




 十分間のプライバシーを得た千尋は急いでトイレを済ませると、ベランダに二つ並んだ木の椅子に、洗面所に干してあった二人分のバスタオルをかけた。部屋の隅に浴衣を脱いで丸め、その中に下着を収める。


 手桶に湯をすくって冷えた体をさっと流し、濡れて輝く御影石を跨いで湯に浸かった。少し迷ったが、ベランダのガラス戸は十センチほど開けておいた。よかったら一緒にどうぞ、というサインのつもりだ。浅葉の目の前で浴衣を脱ぐ度胸はないが、湯の中に隠れていれば何とかなるだろう。浅葉なら千尋を困らせるようなことはしない。


 静かだった。目隠しのすだれの下に隙間があり、浴槽の縁との間から外が見えた。大浴場の露天とは反対側を向いているらしく、眼下の明かりもだいぶ少ない。


 千尋はわずかな街の灯を眺め、浅葉とこれまで辿たどってきた道を振り返った。何だかできすぎているような気がしなくもない。ある日突然警察に呼ばれ、護衛の刑事と恋に落ちるなんて。それに……。


(こんなに魅力的な人が本当に私と?)


 ひたいに汗が浮くのを感じ、湯から半身を乗り出す。冷たい風を受けていると、あの庭園での浅葉の言葉が思い出された。理由がわかるぐらいなら苦労しない……。それは千尋だって同じだ。


 どこが好きか、と問うなら、今となってはとにかく全部だった。まず単純にかっこいいし、命懸けで守ってくれた上に、ふたを開けてみればこんなに優しくて居心地のいい人。そういう誰もがれる要素に千尋もまた好意を抱いた、それだけのことかもしれない。


 ただ、千尋の直感的な部分が、その単純な図式に当てはまらない何かを訴えていた。浅葉の何かに途方もない力で惹き付けられている気がする。まるでこうなることがあらかじめ決まってでもいたかのように……。




 その時、ガチャリ、と鍵の回る音がした。千尋は慌ててしっかり肩まで浸かり直す。


 部屋の隅に追いやられた座卓に鍵を置き、冷蔵庫を開けているらしき音がする。畳を踏む裸足の足音に続き、コンコンコン、とガラスを叩く音。ちらっと見やると、浴衣の後ろ姿が右手にペットボトルの水を二本抱えている。


「あ、どうぞ」


 返事をしながら、千尋は背を向けて湯の中で膝を抱えた。カラカラと戸が開く。


「どう、湯加減は?」


「いいですよ。大浴場よりはちょっとぬるめかも」


 風呂の縁に水のボトルが置かれたのが目に入る。浅葉は戸を開けたまま部屋の中に戻ったようだ。


 すぐに、シュッと帯を解く音がした。何秒もしないうちに戸が閉まり、おけの湯がざぶっと簀子すのこに落ちるのが聞こえる。湯のおもてがちゃぷんと鳴り、静かに揺れた。


 突然、頬に冷たいものが触れた。きゃっ、と振り向くと、湯の中に座り込んだ浅葉が三歩先から手を伸ばし、先ほどの水を差し出していた。また悪ガキの顔をしている。ボトルを受け取りながら、千尋はその顔にパシャッと湯をかけた。


 水を飲みながら、また外に目をやる。しかし景色を見ていても、隣の浅葉のことばかりが気になって仕方ない。よく考えれば、この至近距離でお互い全裸。同じ部屋で過ごすことにはさすがに免疫ができていたが、同じ風呂の中となると話は別だ。


「結構熱いな。お前大丈夫なの、ずっと入ってて」


「うん、もう少し」


 先に涼んでおいてよかった、と思いながら、千尋は湯の中でちょっと伸びをした。


「俺ちょっと休憩」


 浅葉はざばっと湯から上がり、ベランダの隅に付いているシャワーを浴び始めたらしい。間もなくその水音が止まると、湯船の脇にあった椅子を引く音がした。千尋はそれを背後に聞きながら、また星空を見上げる。


「綺麗ですね」


「ほんとだな」


 低い声が答える。


「静かですね」


と千尋が何気なく振り返ると、浅葉は星などどうでもいいといわんばかりにじっと千尋を見ていた。薄い浴用タオルを申し訳程度に腰周りに巻いただけの男の肢体につい目が行く。


 もともとどちらかというと華奢きゃしゃな体に、戦うために敢えて付けたとでもいうように、無駄のない筋肉が乗っている。さほど厚みがない割に密度を感じさせる胸。例の銃弾の跡は、見た目にはほとんどわからない程度に薄くなっていた。あまりじろじろ見るのも気が引けて、千尋は水面に視線を落とした。


「浅葉さん、さすがに引き締まってますね。やっぱり、鍛えてますもんね」


「まあ、あんまりぷよぷよだと仕事になんないからな」


「肉体美、って感じ」


「いや、それは褒めすぎ」


と、浅葉は笑って水を飲んだ。


 これほど美しい肉体を間近に見てしまい、しかも触れたければいつでも触れてよいのだと思うと、千尋は何だか気後きおくれしてしまった。


「私はそういう……自信とか、ないですから」


 湯の中に一層深く体を沈めた。浅葉に背を向けていることはわかっていたが、控え目な胸を両膝で何となくおおう。


「自分の体に自信ある奴なんかそうそういないって。俺もいろいろコンプレックスあるし」


「例えば?」


「うーん、毛が薄いよね。腕とかスネとか。髭もあんま伸びないし。高校ん時、女みたいとか言われてすげーヘコんだ。胸毛ある友達とか羨ましかったなあ」


 千尋はつい笑みを浮かべた。


「そんなこと……」


「そ、所詮『そんなこと』だ」


 肩越しに浅葉を見る。


「いいじゃん、お互いこのままで」


 関係の進展をかすためのセリフではない、と千尋は思った。何か強いものに支えられた本心であることは、その目を見れば疑いようがなかった。


(この人、私のこと好きだ……)


 こんな目で見つめられたことはかつてない。どんな言葉で好きと言われるよりも、はるかに明瞭だった。これまで千尋に思いを告げてきた男たちは、実は千尋のことなど好きでも何でもなかったのではないかという気さえしてくる。


「そうですね」


 心がけてゆく気がした。


「なんか……」


「ん?」


「よかった、私。浅葉さんに出会えて。こうして、今一緒にいることができて」


 浅葉は、長いことじっと千尋を見、きゅっと長い瞬きを一つすると、


「のぼせないうちに上がれよ」


と立ち上がり、部屋の中に消えていった。そういえば、熱さなどすっかり忘れていた。


 千尋は一呼吸おいて湯船から出ると、ぬるめの上がり湯をかけ、ガラス戸の向こうの後ろ姿を気にしつつ、火照ほてった体にバスタオルを巻いた。


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