24  合鍵

 十二月十七日。千尋が夕食を終えて洗い物を済ませ、さてシャワーを浴びようかと思ったところに電話が鳴った。公衆電話からだ。


「もしもし」


「ああ、俺」


 そろそろ聞き慣れてきた声なのに、まだまだキュンとする。


「浅葉さん……」


「実はさ、急に一晩帰れることになって」


(一晩……)


 もちろん嬉しい。しかし。


「会える?」


(どうして今日に限って……)


 元気か、という電話は仕事の合間に何度かもらっていたが、会おうという話は先月のあのショッピングモール以来だった。


「ちょっと遅いかなとは思ったんだけど」


「あ、いえ、時間はいいんですけど……」


 あからさまに歯切れが悪くなる自分が恨めしい。


「あの、実は今、生理中で……」


 顔を見る前からそんなことを言うのもどうかとは思ったが、期待させても悪い。しかし浅葉はショックを受ける代わりに、どこか楽しげに言った。


「それは……エッチできません、ってこと?」


「ま、まあ、そう……ですね」


「それは残念だなあ」


 千尋は、できないなら会いたくない、と言ったかつての男のことを思い出す。タイミングの悪さをのろいながら、ごめんね、と言いかけた時、浅葉が続けた。


「で、泊めてくれたりはする……の?」


「え? あ……はい、もちろんです。あの、来てください」


「一時間まではかかんないけど、それでも十二時になっちゃうな。大丈夫?」


「大丈夫です、いつでも。私も今からお風呂ですから、ゆっくりどうぞ。気を付けて」


「ああ、ありがと」


「じゃ」


「あ、鍵は掛けとけよ。着いたらピンポンすっからさ」


「はーい」


 浅葉に会える、しかもこの部屋に来るのだと思うだけで、何も手に付かなくなりそうだ。


 しばらくぼんやりした後、恋ってすごい、と結論を出す。気を取り直し、散らかっていたものをざっと片付け、シャワーを浴びた。




 髪を乾かし終え、明日の授業の支度をしていると、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。のぞき穴からこちらを覗くふりをしている浅葉が見える。千尋はドアを開けてささやいた。


「警察呼びますよっ」


「それだけは勘弁」


と、浅葉は千尋に腕を回す。ドアが閉まるのも待ち切れずに、唇が触れていた。


 玄関に立ったまま、固く抱き合った。一瞬の間もはさみたくなかった。ただ互いの呼吸と鼓動だけを聞いていた。


 ひとしきり抱き合って少し落ち着くと、今度は顔が見たくなった。えりを立てたダークグレーのコートが、浅葉のシャープなあごの線を引き立てている。見ていると唇を触れたくなり、顔を見合わせてはキスをして、いつまでも玄関先でじゃれ合った。


(このまま朝になっちゃったりして)


 何だか急におかしくなって千尋が笑い出すと、浅葉も笑った。不意に千尋の肩をつまみ、全身を見下ろす。


「いいね」


 千尋のいつもの部屋着の一つ。薄グレーのスウェットの上下だ。そういえばあの部屋では、刑事さんの目に触れるわけだからと一応格好つけて、明るめの色や柄の入ったものを着ていたんだっけ……。


「あれ、なんかいい匂いしない?」


「ん?」


石鹸せっけん?)


「タレっぽい感じの」


(あ、そっちか。さっき冷蔵庫に入れたばっかりだから……)


「もしかしてご飯まだ?」


「うーん、まだっていうか……最近いつ食べたっけ?」


「ちょっと、何とかなりません? その生活」


「いや、いずれ食うからいいんだ。心配すんな。こんな時間に食わせろとか言わないから」


「でも、チンするだけだし。とり生姜しょうが焼き。食べる?」


「んー」


(ほら、やっぱり食べたい顔してる)


「ひじきご飯と豆腐のお味噌汁は一昨日おとといのですけど」


 浅葉の目があからさまに輝き出す。千尋は有無を言わせず、食べさせるための支度に取りかかった。


 付け合わせのブロッコリーは残っていたが、ニンジンのグラッセは我ながら上出来でつい全部食べてしまったのを思い出す。仕方ないので代わりにミニトマトを添えた。


 千尋の背後にぴったりと張り付き、興味津津しんしんといった顔で眺める浅葉を、リビングの折り畳み式テーブルの前に座らせる。


 温めた料理をひと通り運び終え、子供みたいに目をキラキラさせた浅葉の頬を撫でてやる。


「どうぞ、召し上がれ」


「いただきまーす」


 千尋がキッチンに戻り、麦茶をグラスに注いでいると、


「うんめー、何これ」


と声がした。


「おいしい? よかった」


 千尋は麦茶をテーブルに置いてやり、パソコン用デスクの回転椅子に腰を下ろした。


「お前すげーな。シェフだな」


「やめてよ。来るってわかってたらもっと腕振るったのに」


 浅葉はあっという間に全てを綺麗に平らげた。


「あー、幸せ。ごちそうさま」


「ねえ、お願いだから普段からもっとちゃんと食べて」


 千尋は見事にからっぽになった皿を下げ、キッチンを片付け始める。


「ね、これ食っていい?」


と浅葉が目ざとく見付けたのは、デスクの上で蓋が開いたままのクッキーの缶。


「うん、食べて。どうせ私だけじゃ食べ切れないし。昨日お母さんから届いたの」


「へえ」


「実家に置いてきた冬物送ってくれてね。お菓子はそのおまけ」


 宅配便で何か送ってくれるついでに、千尋の好きな焼き菓子やらチョコレートやらをデパ地下で見付けては一緒に入れてくれる。


「母さん元気?」


「うん。もうそれだけがって感じ」


 母は目立った病気がないどころか、仕事に趣味にとアクティブな日々を過ごしている。


「親父さんからは連絡ないのか?」


 どうしてそれを……と聞きかけて、すぐに気付く。公務で護衛していた元参考人の千尋に関して、浅葉が知らないことなどきっとほとんどないだろう。


「全然。一度も」


「そうか」


「いいんです。こっちも別に期待してないし」


 浅葉は千尋の方へ、ほんとか、と言いたげな顔を向けた。


「もう過去の人ですから」


と答え、台拭だいふきを絞る。決してせ我慢ではなかった。


 千尋が五歳の時に失踪しっそうした父は、どこでどうしているのか、生きているのかすらもわからない。母の話では、外に女を作って逃げたらしい。


 捜索願を出しても何の手掛かりもなく、千尋が小学生の頃に生死不明という扱いで離婚が成立し、千尋の苗字も母の旧姓である田辺に変わった。


 夫婦仲はどうだったのか知らないが、父は姿を消すまでの間、千尋とはよく遊んでくれた。一緒に暮らした期間があまりに短く、悪い印象を抱く暇もなかっただけかもしれないが、千尋は父と過ごす時間が好きだった。


 そうは言っても、どこかで元気にしていてほしいと願う一方で、今さら連絡などされたとしてもどう接していいかわからない。


 父の失踪当時、母は大手家電メーカーの営業課長で、幸い母娘での生活に困ることはなかった。最初のうちこそ口癖のように愚痴ぐちやら恨み言をこぼしていた母も、千尋が高校に入った頃からか、ぱったりと父の話をしなくなった。




 テーブルを拭きながら、そういえば浅葉さんのご両親は、と尋ねようとして、千尋ははっと口をつぐんだ。浅葉の目は、何か考え込むように壁をにらんでいた。


(あの時の顔……)


 あの護衛部屋で黙々とパソコンに向かっていた時と同じ横顔に見えた。千尋は、


「ちゃんと私の分も残しといてくださいね」


と声をかけ、明日着るものを用意し始める。ふと思い出したように浅葉が言った。


「お前、寝なくていいの?」


 一時になろうとしていた。


「うん、もうそろそろ。明日は?」


「うーん、まあ、さほど急いではないけど。お前は?」


「一限あるから、七時半には出ないと」


「そっか」


「でも、浅葉さん、ゆっくり休んでって」


「いや、そういうわけにも……」


 千尋はデスクの引き出しを開けた。


「これ」


 折り畳み椅子に座っている浅葉の手に、それを握らせる。


「作っときました」


 部屋に呼んだこともないうちから合鍵あいかぎを用意するのは張り切りすぎかとも思ったが、いつ突然必要になるかもわからないし、とにかく予定が未定の人だから便宜上、と言い訳をこしらえていた。その代わり、妙に可愛らしいキーホルダーなどを付けるのはやめて、どこかのお土産のキーホルダーから取った銀色のリングだけを付けてある。


「何の色気もないですけど」


 浅葉はそれを指で撫でながらしばらく眺め、大事そうに手で包み込むと、千尋の腰を抱き寄せた。千尋は浅葉の背中に手を回し、腹部に預けられた頭をそっと撫でる。


 もっとしょっちゅう会えたらいいのに、もっとゆっくり一緒に時間を過ごせたらいいのに、もっと、もっと……。言ってはならない言葉ばかりが去来きょらいする。


「さあ、さすがにそろそろ寝ましょ。お風呂は?」


「うん、朝借りよっかな」


「じゃ、タオル出しとくね。そうだ、歯ブラシは?」


「うん、持ってる。着替えも最低限は常備してるし」


と、決して大きくはないビジネスバッグを拾い上げ、半透明のビニールケースを取り出すと、洗面所に向かう。千尋がちょっぴり遠慮がちに後を追うと、浅葉がその手を引いた。並んで歯を磨きながら鏡の中で見つめ合う時間に、千尋は心おどらせた。


 千尋がトイレを済ませてリビングに戻ると、浅葉はベッドに裸体をおさめ、すっかりくつろいでいた。


「何、もしかして、裸じゃなきゃ寝れない人?」


「誰だよ、それ。そんな体質だったら仕事にならんだろ」


「あ、そっか。家でなんてほとんど寝ないんだもんね」


 あの護衛の時、Yシャツ姿のまま死んだように熟睡していた刑事と同一人物であることをすっかり忘れていた。


「今日はスーツで寝る気分じゃないし、パジャマ的なものもないので、やむを得ず」


とは言いながら、実に心地良さそうだ。いつものベッドに浅葉がいる。毎日こうだったらいいのに……と夢見ずにはいられない。しかし、たとえ結婚しても、浅葉との生活はそうはならないことは目に見えている。めったに帰ってこない夫、ということになるのだろう。


 電気を消して浅葉の隣にもぐり込み、千尋は、


「わあ、あったか」


と声を上げた。冷えた足先を浅葉の方に寄せると、温かい両足にはさまれる。


「なんか、寝ちゃうのもったいないね」


 千尋は闇の中で漠然と浅葉の方を見た。遮光カーテンのせいでほぼ真っ暗だ。


「じゃあ、起きてよっか」


 浅葉が千尋の髪を指でく。千尋がその手を伝っていくと、滑らかな肩に辿たどり着いた。そのまま背中へと手を滑らせると、もう抱きつかずにはいられなかった。


 浅葉の首筋で深呼吸すると、右腕で背中を抱かれた。月のサイクルで若干膨張ぼうちょうした胸を浅葉に押し付け、唇を探り当てて奇襲する。浅葉はそれに応えながら、じきにふと身をらして言った。


「あのさ」


「うん」


っちゃってるけど、そっとしといてやって」


 千尋は、


「んんー」


と、つい不服を表明した。自分の都合でお預けをいているのはわかっているが、改めてそう言われるとむしろ触りたくなってくる。


「あんまり刺激すると、ベッド汚れるぞ」


と警告すると、浅葉はキスに戻った。何となくブレーキを掛けているのがわかる。千尋は可能な範囲で精一杯甘えながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

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