8   恋慕

 興奮気味の長尾をオフィスがいに降ろした後、浅葉は千尋を車の中に残して外で電話をかけていた。やがて運転席に戻ってくると、肩越しに言う。


「さっきの歩道橋の男。この取引との関連はまず間違いないが、黙秘に徹してて身元がわからない。安全が確認できるまであの部屋にいろってことになった」


「そう、ですか」


 そもそもあそこから出てこなければこんなことには……。千尋は改めて、下手すれば死人が出ていたかもしれないという恐怖に襲われていた。




 部屋に戻ると、浅葉はまっすぐバスルームに入った。穴のあいた黒シャツと防弾チョッキを脱ぎ、手だけ洗って出てきたらしい。白のTシャツ姿になっていた。


「浅葉さん、さっきの怪我……」


 言い終わらないうちに浅葉が、


「手洗ってこい」


と、ぴしゃり。


 千尋はため息をつき、言われた通りにした。バスルームから出てくると、浅葉はいつもの椅子に座り、しかしデスクには背を向けている。ベッドの上には救急箱らしきもの。


「あの……」


 声をかけると、浅葉は黙って千尋の顔を斜めに見上げた。その目に導かれるようにベッドに座ると、ぱっと右手を取られ、千尋は息を呑む。こんな距離感は想定外……と思いつつ、そういえば先ほど路上でこの人に抱き起こされたのだと思い出し、今さらドキドキする。


 浅葉は千尋のてのひらをそっと伸ばして傷を確かめると、その手を自分の膝にぽんとせ、救急箱を覗き始めた。


 千尋は、心臓の音が浅葉に聞こえてしまうのではないかと冷や冷やした。右手の甲には、ジーンズ越しに確かな体温が伝わってくる。不適切な甘みを帯びた心の揺らぎを、どうか悟られませんようにと祈った。


 浅葉は絆創膏ばんそうこうのような湿布のような、五センチ角程度の肌色のシートを取り出すと、フィルムをがして千尋の手に貼った。


「二、三日このまま貼っとくといい。濡れてもそのままで大丈夫だ」


「はい」


 自己流で手当てするなら消毒液でもかけて放っておくところだが、浅葉に言われれば何でも信じられる気がする。


 浅葉は救急箱を手に立ち上がり、バスルームへと消えた。シャワーの音が聞こえ、間もなく止まった。そこへかすかに電話が鳴る。浅葉がバスルームに持って入っていたらしい。


 しばらくするとドアが開く音がし、浅葉の声。


「明日片付きそうだ」


「そう……ですか」


「一応、大きな危険は去ったと見ていい」


「はい。ありがとうございます」


 つまり、明日取引があると判明したのだろう。千尋はベッドから立ち上がると、デスクの角からそっと様子をうかがった。


 ドアが少し開いたままになっており、洗面台の上の鏡が目に入る。先ほどまでと同じジーパンを穿き、肩にバスタオルを掛けた上半身裸の浅葉が、脇腹の中ほどに手を触れて顔をしかめていた。


 これが浅葉の任務にすぎないということはわかっているが、千尋は、まるで大切な人が自分のために傷を負ったような錯覚を覚えた。


 鏡の中の浅葉は右肩にタオルを掛けたまま、救急箱から幅の広い粘着テープを取り出し、手で切って洗面台に二本並べた。そこにガーゼを乗せ、軟膏なんこうらしきものを大量に塗りたくる。


 余計なお世話だと怒られるかもしれないが、なぜか放っておけない。千尋は無意識のうちに、半開きのドアに手をかけていた。左胸を露出したまま自作の湿布を手に取った浅葉と、鏡の中で目が合う。


 千尋が足を踏み入れ、ガーゼの端をそっとつまむと、浅葉は意外と素直に手を離した。銃弾を受けた場所は赤黒く無惨むざんれ上がっている。湿布の位置を合わせようとした千尋の手がその赤みの周縁に触れると、浅葉はきゅっと目をつぶり、苦しげな息を漏らした。


「あ、すみません。痛いですよね」


 千尋が湿布を当て、そっと押さえると、浅葉はまた新たにテープを切り始めた。


 その左の上腕外側に、ナイフででも切ったような赤い線が濃淡こもごも数本。こちらは今日とは別の古い傷だろう。前が開いたままベルトの重みで少し下がったジーパンからは腰骨が覗き、そこには紫とも茶色ともつかぬ楕円のあざが薄く残っている。しかしそれよりも千尋は、彼の筋肉と骨が生み出す美しい曲線の方に目を奪われていた。


 気付くと、新しいテープが差し出されていた。鏡の中の浅葉が千尋を見ている。千尋は、ずっと見られていたような気がして恥ずかしくなり目をらした。黙ってテープを受け取り、先ほどのものと交差するよう、縦に貼る。


 二本目を手渡そうとする浅葉がまだ自分を見ていることはわかっていたが、視線を合わせることはできなかった。奪うようにそれを受け取ったものの、この場を離れることがしくて、端から殊更ことさらにゆっくりと浅葉の肌に乗せ、そっと撫で付けた。


(何やってんだろ、私……)


 貼り終えてしまうと、そのままたたずんでいるわけにもいかなくなった。何か言わなきゃと思案していると、浅葉はバスルームのドアを押し開け、


「早く寝ろ」


と出ていってしまった。


(寝ろったって、まだ五時前なんですけど……)


 千尋は後を追わず、その場に残ってドアを閉めた。トイレのふたに腰掛ける。


 余計な真似まねをするなと冷たくあしらわれた方がまだ楽だったかもしれない。鏡の中から向けられた浅葉のどこか孤独な視線が、強烈な残像となって千尋の胸を締め付けた。明日にはおそらく全てが片付くだろう。浅葉とのここでの時間にも終わりが来る。


(バカみたい。今時いまどき、女子高生だってそんな浮かれた夢、見やしないってのに……)


 自分でも思いがけない動揺がドア越しに勘付かれてしまいそうで、咄嗟に蛇口をひねって水を出し、ごまかした。警察の護衛を受けるなどという非日常性によるストレスと、昼間拳銃で撃たれかけたショックのせいだと自分に言い聞かせる。




 少し落ち着いてから部屋に戻ると、そういえば昼食を食べていなかったと気付く。しかしあまり食欲もない。千尋は、昨日長尾が持ってきたコンビニのおにぎりを一つ、半ば義務感で飲み下した。


 浅葉は床に落ちていたワイシャツをそのまま着たらしく、下がジーパンに替わったこと以外、デスクに向かう背中は昨日までと何ら変わりなく見えた。千尋は、海苔のりのかけらが残ったビニールをもてあそびながら、その後ろ姿をいつまでも飽きることなく見つめた。


「浅葉さん」


「ああ」


「あの……今日はベッド使ってください」


 何やら書類をにらんでいた浅葉が、顔を上げる。


「その怪我で床ってわけには……」


 ここへ来てからずっと満足に寝ていないし、明日は取引当日ということで忙しくなるだろう。睡眠を取るなら危険が去った今晩がチャンスのはずだった。


「別にかまわん。いつものことだ」


 千尋は食い下がる。


「私、不安です。自分の警護担当者が万全のコンディションじゃないなんて……」


 その時、浅葉の後ろ姿が一瞬微笑ほほえんだように見えてドキッとした。しかし返事はない。その背中に向かって千尋は続けた。


「しっかり休んでいただかないと安心できません。一応まだ明日まであるわけですし」


 浅葉は、肩越しに言った。


「じゃあ、こうしよう。半分だけ貸してくれ」


(えっ? 今、何て?)


 ベッドを見下ろす。千尋が大の字になれば両手がはみ出す程度の大きさだ。まあカップルなら二人並んで寝ても大して窮屈ではないのかもしれないが……。そこまで考えて、千尋は赤面した。


 浅葉はそんな千尋などおかまいなしの様子で続ける。


「お前にも万全の状態でいてもらわないと困る。いいか、半分だぞ。侵入してくるなよ」


 床の方がよく眠れそうです、と言いそうになるのを、もう一人の千尋が押しとどめた。




 九月九日。おもての工事の音で目が覚める。カーテンの隙間から光が差していた。千尋は、早々とベッドに入り、浅葉の分を残して壁側に寄って寝ていたことを思い出した。


 恐る恐る寝返りを打ってみるも、反対側は空っぽ。浅葉はとっくに起きて活動していたらしい。バスルームで電話をかけていたようで、携帯を手に出てきた。いつものように短く挨拶だけを交わす。昨日までの疲労の色は目に見えてやわらいでいた。


 すぐ隣で寝息を立てる浅葉を思い浮かべると、何か温かいものが心にともるような気がした。ただ、ついぐっすりと眠ってしまって自分にその記憶がないことが、千尋には残念だった。


 長尾が電話傍受に成功し、取引は今日の夜と判明していた。千尋は一旦署に戻り、取引の開始を待って自宅に送り届けられる。用心するに越したことはない、ということらしい。




 署に着くと、千尋は坂口に呼ばれ、最初に説明を受けたあの部屋にやってきた。


 坂口は「型通りの質問」と断った上で、いくつか千尋に尋ねる。この一週間、困ったことや不快に思うようなことはなかったか、という趣旨だ。後からセクハラだの何だの訴えられても困るからだろう。警察には細かい規定があるはずだ。まさかベッドを分け合ったなどとは口が裂けても言えない。千尋は優等生の受け答えで乗り切った。


 浅葉は到着するなり検挙準備に取りかかってしまい、千尋にかまっている暇などなさそうだ。いつの間にか、自宅に送ってくれる車の出る時間が迫っていた。


(あーあ、あっけない……)


 何を期待するわけでもないが、せめてきちんとお礼を言うぐらいの時間は欲しかった。




 取引現場への出発間際、浅葉は石山のデスクに向かった。


「課長」


「ん」


「田辺の自宅送還ですが」


「ああ」


「俺が行きます」


 石山は眉をひそめた。


「お前は今から検挙要員だと言ったろ」


「田辺の希望です」


「そんなもん断れ」


「実は、ちょっと気になることがありまして」


「何だ」


「田辺の自宅付近をうろついてた男です」


「この件とは関係ないかもしれん」


「あの後、何度か同じ場所で目撃されてますね?」


 石山は驚き、いぶかしむ。


「なぜお前がそれを?」


 地元の交番から、確かにその通りの報告が入っている。今回の取引の関係者である可能性が高いため、警戒させないよう職務質問は控えろと指示してあった。


「話せば長くなります。とにかく、事実ですよね?」


「だったらどうなんだ? 関係してても、今さら田辺に用はないはずだろ」


「確かに、口封じの必要はなくなりました」


「じゃあ何だ?」


「個人的な興味かもしれません」


 石山は唖然あぜんとした。


「随分と想像力豊かだな。まあ、あり得ない話じゃないが、残念ながら管轄外だ。お前の関心事でもないはずだが?」


 石山は探るような目を向け、浅葉はその目とにらみ合った。


「田辺が何か不安がっているなら、正規のルートで通報させろ。うちにはそんな暇はない」


 浅葉が黙ってその場を離れようとすると、石山の声がそれを追った。


「勝手な真似まねはするなよ」


 浅葉は肩越しに、


「担当者にはくれぐれも油断するなと伝えてください。では、現場に向かいます」


と答え、廊下へと出ていった。




 車二台に分かれ、時間差を付けて別ルートで現場に向かう。早坂はやさか小谷こたにが一足先に出たところだ。浅葉・長尾組には、もともと四名体制だったところに急遽加った新米の重松しげまつ巡査が同乗する。場数を踏ませるのにちょうどいい現場だと、昨日浅葉が電話で要請したのだ。


 長尾と行動する時は浅葉がハンドルを握るのが常だが、今日の浅葉はさっさと助手席に回っていた。


「その程度で怪我人ぶってんじゃねえよ」


とぶつくさ言いながらも、長尾は運転席に乗り込んだ。後ろに重松を乗せて出発する。


 走り出してしばらくすると、浅葉が声をかけた。


「長尾」


「おう」


「今日の相手は大した数じゃない。去年の宝劉会ほうりゅうかいの時と似たようなもんだ」


「そうだな」


「銃器類もそこまで充実してないし、まあ楽勝だろ」


「珍しいな、お前がそんなこと言うの」


「後はお前が仕切れ」


「は?」


「停めてくれ」


と言いながら、浅葉はもうシートベルトを外している。


「何だ、急に」


 長尾は車を脇に寄せた。


「じゃ、後は頼んだ」


「え? どこ行くんだよ?」


「すまん、トイレ」


「あ?」


 長尾はあっけに取られ、時計を気にしながら走り去る浅葉の後ろ姿を見送った。


「また何か裏でコソコソしやがって……」


 長尾は、後部座席で目をパチクリさせている重松を怒鳴りつける。


「馬鹿野郎、真に受けんな!」


 先日、トイレに行っていて集合に二分遅刻した重松が、垂れ流してでも任務を優先しろと浅葉から説教を食らったのは長尾も知っている。サイドミラーの端には、大通りでタクシーを停める浅葉が映っていた。

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