9   危機

 千尋は、池田いけだという巡査の運転で自宅へと向かっていた。


 長いようで短い一週間。退屈だったのは確かだが、もう少し浅葉の姿を眺めていたかったという思いが残る。


(私のためにあんな怪我までして、それこそ一歩間違えれば……ほんと無事でよかった)


 もう会うこともないのだと思うと、まるで夢でも見ていたような気がしてくる。そうなのだ。この一週間は夢だったと割り切って、明日からまた普通の生活に戻るのが正解なのは自分でもわかっていた。


 千尋のアパートの前で、池田が車を停めた。


「お疲れ様でした」


「どうもありがとうございました」


 車を降りると、池田も外に出てきていた。


「あ、わざわざすみません。あの、皆さんによろしくお伝えください」


「ええ」


「じゃあ、失礼します」


と頭を下げ、二階の自宅へと続く階段に向かいかけたその時、ブロック塀の陰から黒ずくめの男が飛び出した。


 千尋が息を呑んだ瞬間、男のこぶしが池田のあごにヒットする。不意を突かれてよろけた池田は、直後に二発目をこめかみに食らって地面に倒れ、動かなくなった。


「誰か!」


と叫んだ千尋の口がすかさずふさがれる。男は千尋を引きずるようにどこかへ連れていこうとしていた。何とか暴れようともがくが、すごい力で押さえ付けられる。必死に声を出そうとしていると、男の両手が千尋の首に回った。圧迫されて息ができない。


「騒いだら殺すぞ」


 酔っ払ってでもいるのか、正気とは思えない口調だった。


 男は、近くの小さな公園に千尋を引きずり込むと、角の植え込みのそばで千尋の体を触り始めた。その手を逃れようとして身をよじると、今度は後ろから羽交はがめにされた。


「放して」


 胸をわしづかみにされ、必死で抵抗する。


「お願い、やめて……」


 かすれる声で懇願した。まわしい手がスカートの中へとい上がり、下着を引っ張ってずり下げる。千尋は無意識に姿勢を低くして食い止めようとしたが、男の他方の手に喉をつかまれ、命が危ないという恐怖の方が先に立った。


 殺される。


 少なくとも犯される。


 恐怖と絶望で声を失った。


 体の震えと湧き出す涙が、「お前はもう助からない」と宣告する。


(いや……助けて……)


 その時。


 パン、と銃声が響いた。


 男がうあっとうめいて手を離す。千尋は咄嗟とっさに男を突き飛ばし、夢中で逃げようとしたが足がもつれ、固い地面に思い切り膝を打ち付けた。


 少しでも離れようと地面を這いながら振り返ると、降参こうさんした様子の男が荒っぽく引きずられている。男を鉄棒の足に手錠でつなぎ、その胸ぐらをつかんで拳を固めているのは……。


(浅葉さん……)


 終始冷静だったその目に、初めて炎を見たような気がした。


 浅葉がぱっと顔を上げ、千尋の視線に気付く。千尋は慌ててスカート越しに下着を引っ張り上げた。小走りにやってくる長身が、千尋の視界の中でにじんだ。じんじんと脈打つ頭に手をやり、吐き気に目をつぶる。


 浅葉は、座り込んだ千尋から少し距離を取って慎重に片膝をつき、


「大丈夫か」


と、顔を覗き込む。千尋は声が出せる気がせず、うなずこうとしてそれもできないことに気付いた。金縛かなしばりにでもあったように全身が強張こわばっている。銃声が何度も耳の中で響き続けているようだ。


 息ができていないのだと思い、のどを開くようにして大きく息を吸い込んだ。途端に咳き込み、何とか呼吸を取り戻す。


 ふと目をやると、後ろ手に繋がれた男と目が合った。そのごつい手が再び自分の体をみしだくような錯覚に襲われ、身震いする。激しい嫌悪と怒りが込み上げ、嗚咽おえつが漏れた。


 浅葉はそれ以上何も言わずに立ち上がると、電話をかけ始めた。


「田辺が襲われました。自宅から五十メートルほどの公園に男を拘束してます。池田は殴られてのびてますが、もう気が付く頃です。……ええ。……いや、未遂ですね、


 電話の相手にわざと当て付けるような口調だった。


(未遂……)


 浅葉が来なかったら、どうなっていたか。恐怖なのか、心細さなのか、はたまた怒りか、安堵あんどか。原理のよくわからない涙が一気に込み上げた。


「ああ、それから、通報があるかもしれませんが、発砲は俺です」


 浅葉は、繋がれた男に目をやりながら続けた。


「この件との絡みはまだわかりませんが、常用の徴候があります。……はい、一台お願いします」


 電話を切った浅葉は、男と千尋の間に立ったまま、誰のことも見ていなかった。右手を一度開き、そしてぎゅっと握り締めると、深くうつむいて目を閉じた。


 間もなく、制服の若い婦人警官と連れ立って池田が走ってきた。池田はすっかり慌てた様子で、


「浅葉さん、すみません」


と頭を下げる。


「後にしろ。あっちだ」


 浅葉が鉄棒に繋がれた男を指差すと、池田は急いで走っていった。婦警が千尋に声をかける。


「大丈夫ですか? 立てます?」


「はい」


 千尋は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。何とか自力で立ち上がる。一人で先に車に向かってしまった浅葉の後ろ姿をぼんやりと目で追っていると、婦警が淡々と言った。


「これから調書をお取りしますので、恐れ入りますがご同行いただけますか?」


「あ、はい」


 アパートの前に戻ると、パトカーが一台停まっていた。その向こうに池田が運転してきた車が見え、運転席に浅葉の後ろ姿があった。


 千尋は、婦警に案内されるままパトカーの後部座席に乗り込んだ。婦警が運転席に座ると、前の車の窓から浅葉の手が出てきて「早く行け」というように空気を仰いだ。婦警はそれにうなずいてシートベルトを締める。


「では、参ります」


「はい」


 パトカーが走り出し、ふとサイドミラーに目を向けると、池田が男を引っ張ってきて浅葉のいる車に押し込んでいるところだった。千尋は反射的に目をらした。




 ドタバタと後処理に駆け回っていた長尾が、廊下をやってきた浅葉に気付く。


「なっげートイレだな。課長がお待ちかねだぜ」


「ああ」


と、そのまま通り過ぎようとする浅葉に、長尾が不満げな顔を向ける。


「こっちがどうなったか聞かないわけ?」


「やっぱり余裕だったみたいだな」


「ま、重松ちゃんのお陰でな。まだ指示してやんないと動けない感じはあるけど」


 そう答えながら、長尾は足早にその場を後にした。




 大部屋に入ってきた浅葉の姿を、石山の目は即座に捉えた。


「まずは取り調べだな。話はその後だ」


 浅葉は会釈えしゃくこたえ、長尾のヘルプに向かった。


 現場から浅葉抜きで帰署した長尾を叱責した後、田辺千尋の暴行被害の報告を受けた石山は、むしろ違う意味で「お待ちかね」だった。まさか本当に襲われるとは……。


 浅葉が勝手に持ち場を離れたことはもちろん大問題だが、田辺千尋を襲った男に関しては、強制猥褻わいせつや傷害にとどまらず、調べればおそらく薬物所持、使用も出てくる。


 それだけではない。田辺千尋の身に今何か重大な被害でもあれば、目下もっか苦戦中の一件に関係してこないとも限らない。浅葉がそこまで読んでいたかは不明だが、結果的に警察にとって多大なメリットがもたらされたのは確かだった。




 もう来ることはないと思っていたのに、まさかその日のうちに戻ってくるとは……。千尋はもう何度目かのため息をついた。深夜にも関わらず、署内の方々ほうぼうに明かりがき、せわしなく人が行きっている。


 到着すると、婦警は坂口に千尋を引き渡して去っていき、千尋はまた例の部屋に連れてこられた。


 坂口は、


「思い出したくないだろうけど、大事なことなの」


と前置きした上で、何があったのか千尋に説明を求めた。思い出しただけで虫唾むしずが走るようだったが、千尋は何とか順を追って話し終えた。


 今はこの部屋に一人残され、再び自宅まで車で送られるのを待っている。


 あの公園の暗がりで、千尋は本能的に救いを求めた。体感的な身の危険度は、銃撃された時の比ではない。理屈抜きでもがき、出てきてくれない我が声を探し求めた。その声なき叫びがまるで届いたかのように、浅葉が現れたのだ。これが英雄ヒーローでなければ一体何だろう。




 取り調べが一段落し、石山は浅葉を小部屋に呼び出した。


竹岡勇作たけおかゆうさく苑勇会えんゆうかいの末端も末端、取引現場にも当然呼ばれてない。田辺を狙ったのは、お前が言ってた個人的興味ってのがまあ一番近そうだな」


 黙って聞く浅葉に、石山が鋭い目を向けた。


「なぜ撃った? 竹岡は丸腰だったそうじゃないか」


「その確証はありませんでした」


「凶器があって抵抗するつもりなら、とっくに振り回してたはずだ。それに、今となっては田辺を殺すつもりがないのもわかってたろ?」


「そのはずですが、田辺の首を絞めようとしていました。わけのわからない集団ですから、トップの指示が変わったという可能性も考えられます」


「しかし、何の警告もなくいきなり撃たれたと言ってるぞ。お前がいることにすら気付いてなかったらしいじゃないか」


「いえ、それは苦しまぎれの出まかせです。警告はもちろんしました、通常通り」


「どうやって? ちゃんとヤク中でもわかるように言ったのか?」


「女を放せ、撃つぞ、と言いました」


「それは竹岡にもはっきり聞こえてた、と?」


「ええ。撃てるもんなら撃ってみろと言われたので、かする程度に肩を撃ちました」


「田辺の言ってることは竹岡の話とほぼ一致してるようだったが?」


「田辺はショックで動転してました。あの場でまともに頭が回ってたのは俺だけです」


 そうよどみなく言ってのける浅葉をこれ以上追及しても無駄だと石山にはわかっていた。どう考えてもに落ちないが、この優秀な部下を疑い、犯罪組織の末端、しかも薬漬けの人間を信じるだけの根拠がない。


 何も重傷を負わせたわけではないのだし、上がそう目くじらを立てるとも思えない。苑勇会だってこのレベルの人間の処遇をいちいち気にはしないだろう。あとは石山自身が八方丸く収めておけば済む話だ。


 石山は覚悟を決めた。


「よし、行っていいぞ」


 しかし、石山の胸中は嫌な予感で満たされていた。浅葉が不可解な行動に出る時には必ず理由がある。彼がおよそ語る気のないその理由を、石山は恐れた。

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